ナズナ

まいこうー

第1話:身支度と新聞

 世界とは何なのでしょう。

 そんな問いに答えてくれる人など居るはずもありません。

 生活感のないワンルームに居るのは、私だけなのですから。

 私以外、鏡に映る私しか。

 背中まであるストレートの黒髪と同じ色のジャケットにスラックス。飾り気のないシャツだけが真っ白で、その部分だけが浮き上がっているように見える。色らしい色と言えば血色の悪い肌とは対照的な紅い唇ぐらいでしょうか。

 実に平凡な見た目をした人間が、仁王立ちで映っています。

 この街とは何なのでしょう。

 もちろん、答えは返ってきません。

 同じ表情で同じ口の動きをする私が、同じタイミングで問うただけ。

 ガコン、玄関から新聞が落ちる音。

 そうですか、もうそんな時間ですか。

 随分と早く起きたつもりでしたが、思いの他長い時間を鏡の前で過ごしていたようです。

 一拍遅れて、新聞ですと薄気味悪い甲高い声は続きます。

 早朝に新聞を配る配達員が、わざわざ部屋の住人に声を掛ける必要があるのでしょうか。

 大抵の人間はこの時間、ベッドの中に居るのが大半だと思うのですが。

 お礼でも言われたいんでしょうかね。

 こんなことを続けていては、言われるのは十中八九クレームになりそうです。

 頭のイカレた新聞配達員さんは数秒間ドアの外で待っていたようでしたが、ようやく諦めたのか舌打ち一つを残して去って行きました。

 毎朝の出来事。

 何時もの通り。

 配達員さん、私は新聞なんてとっていませんよ。

 あなたが働いている会社とは契約も何もしていないのです。

 一度たりとも姿を見たことはないけれど、あなたが配っている新聞に一銭たりとも払った記憶がありません。

 そんな一文字たりとも読んでいない新聞をわざわざ古紙回収に出している私の身にもなってください。

 資源を無駄にしてはいけません。

 一体、どれくらいの人が金銭に見合った配達を受けているのでしょう。

恐らくではありますが、私の様に無銭で新聞を受け取っている他人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

だって、古紙回収の日は決まってこの会社の新聞が山積みになっているのですから。

本当、よくクビにならないものですね。

おや、お隣から怒鳴り声が聞こえてきます。

我慢の限界だったようですね。

それでも一回怒ると落ちつくのが人間という生き物らしく、あっという間に静かになりました。

何時も通りの朝の静寂です。

これに懲りて配達員さんの奇行も治まればいいのですけれど。

兎にも角にも、これで隣人さんが怒鳴ることも無くなるでしょう。

そんなことを考えつつ、一文字も読まない――否、一文字も読めない落書きの羅列の様な新聞を慣れた動作で古紙回収ボックスへと入れました。

えーっと、どこまでやりましたっけ。

ああ、そうでした。

身支度をしていたのでした。

今日はこれから仕事ですので、しっかりと身なりを整えなければなりません。

クライアントとの関係は第一印象で決まります。

見た目とは大事なものですね。

後はネクタイでも付けようかと考えましたが、窮屈なので止めました。

ほら、あまりカッチリし過ぎるのも相手方に無駄な緊張を与えてしまうかもしれないじゃないですか。

何事もさりげなく力を抜くことも重要です。

リラックス、リラックス。

というわけで、今日の格好はこれで決まり。

ばっちりです。

鏡の私が頷きます。

そうですか、ありがとうございます。

私とは何なのでしょうね。

もちろん、わかりません。

その問いに答えられるモノは、生憎とここには居ないのです。

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