小夜子

第1話

住んでいるマンションは道路沿いにあるから雨音は車の音にかき消される。カーテンを開ける習慣もないから、玄関をでて階段を降りてエントランスに出るまで朝から雨が降っているなんて気付かない。

 私が勤めている会社は小さな建築事務所で、そこで事務として働いている。昨年新卒で入社したのは自分ひとりだけで今年は新卒採用もなく、他は三十代から四十代の上司と同僚だけに囲まれた職場。二十代はひとりもいない。気を遣って話しかけられたり親切にされたりするけれど、私は話をうまく合わせることができない。お菓子をよくもらったりするけど自分から買ってきて配ったことはほとんどない。

 仕事が単調なため集中しないと簡単な計算ミスをしてしまう。それなのにパートの人は大きな声でおしゃべりをしながら伝票を仕分けている。くだらない芸能ゴシップ、旦那や子供の愚痴。私が一度文句を言うとすぐに給料が違うと言い出す。私はひとりで生活をしている。そっちは家族収入がある。ギリ百三万年収の扶養控除までまんまとせしめて、なんでこっちが悪者扱いなのか。言ってもムダか。想像でしかないけれど、さえない旦那じゃ浮気の心配もなさそうだし子供はボンクラでも可愛いんだろう。私は境界線の向こう側の世界に行ける自信もないから、なにも言い返せない。ガマンするしかない。ミスをしないように。誰のせいにもできない。

 この不景気で就職難にやっともぐりこんだ社員という資格。大学の同級生たちではフリーターだって珍しくない。子供の頃になりたかった職業じゃないけれど贅沢はいえない。(子供の頃なりたかった夢も忘れてしまったけれど)

 外はますます雨の強さを増して窓に水滴を叩きつけた。雨の日の満員電車は気分をさらに悪化させる。人の傘の水滴が服についたり、傘もってスマホをいじるサラリーマンは吊り革をつかまないから駅に電車が止まるたびにぶつかってくる。私は身長が低いから吊り革にやっと指を乗せているのだ。今の男は女なんて守ってくれない。

「佐藤さん、またため息ついてますよ。ため息は幸せが逃げますよ」

 またオウムのように同じこと言ってくる。ため息ぐらい自由にさせろと毎度思う。私が不機嫌そうにしているとそうやってお菓子を机の上に置いてくる。はっきり言ってウザイ。お菓子は食べるけど。カントリーマアムでもオレオでも食べるけど。

「おうい、みんなちょっと手を休めて聞いてほしい」

 部長が手を叩いてみんなの注意を促す。部長の隣には大きなお腹を抱えた主婦パートが立っていた。

「ああ、そういうことか」

 主婦パートは出産前ということで、今日で退職するのであった。にっこり微笑む彼女の姿が美しいような、それでいて恐ろしいような、相反した影が交じり合っていた。女性社員たちは上手に別れを惜しんでいた。

「元気なお子さんを産んでね」

「お子さんと遊びにきてね」

 社長が花束をその主婦パートにわたし、みんなが拍手をした。

 私は拍手ができなかった。あの人はいつもいつも旦那の悪口や家庭の不満愚痴を言っていた。一番大きな声の私語をして、休憩室の自分の湯呑みさえすすぎができず洗剤がついたまま拭こうともしないで食器棚にしまってしまうような、ガサツさが目立つ人だった。私がミスをすると一番に笑い、自分がミスをしても決して謝らないで逆ギレか言い訳ばかりの人だった。いつもせっかちで仕事ははやいけどミスが多かった。そんな人だった。その人がいないとパートの人たちはよくその人の陰口を言っていた。私はそれを全部見ていただけに拍手できなかった。あんなに旦那を悪く言っていたのに子供ができるなんて不思議だった。涙を浮かべる女子社員もいて女優のオーディションのようだった。私はどこか映画のワンシーンを観ているみたいに様子をみていた。

 時報が鳴った。パートの人たちの帰宅時間だ。私はまだ今日中に終わらせないとならない仕事があるので残業することになった。誰もいなくなったのを見計らってため息をこぼした。

 終業して事務所を出る頃には雨は少しやんでいた。帰りの電車も朝に負けず劣らず満員だった。電車を降りて夜の空気を吸う。自宅からの最寄り駅にまっすぐ着いた。ここまで寄り道はほとんどしない。入社したての頃は友達を誘って呑みに行ったものだったけど、最近誘われないし私も誘わなくなった。私がそうだから、みんなも疲れてきたのだ。世間では若い若いといわれても正直疲れるからしょうがない。明日もまた仕事なのだ。駅前のスーパーに立ち寄るのがささやかな幸せだ。新商品のお菓子をみたり食べたことのない惣菜を見て回る。財布の中身と相談して手をのばしてはまた棚に戻す。翌朝のごはんを考えたり手間のかからない夕食をつくろうとしたらやっぱり無難なものしか買わない。

 家につくとテレビをつける。食事をしながら家事をしながら布団に入ってからもしばらくテレビをぼんやりと眠くなるまでつけている。眠くなるとテレビと明かりを消して就寝する。毎日がこの繰り返しだ。今日の雨は深夜にまた勢いを増して車の音よりも激しく水の落ちる音をたてていた。

 東京の雨は砂漠のようだ。本物の砂漠は雨なんて降らないのだけど、東京の雨は気持ちを遮断させる。深夜の雨音は私をますます孤立させていく。それは砂漠といってもよかった。その雨音を聞きながらも私は眠りにつくのだった。

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