美しき陰陽

神崎 創

美しき陰陽

 その日、一か月ぶりにリッテンツァール街七十九番地、バーレイド荘の呼び鈴を鳴らす者があった。

 ややあってドアを開けた家主は、まだ二十歳を超えて幾つもないであろうという若い女性。長いブロンドの髪に白く透けるような肌、それによく整った相好をもっている。まだ娘といっても通る若さでありながら、自然な美しさと気品を漂わせていた。

 訪客は、上背のあるすらりとした精悍な青年であった。下ろしたてであろう、小奇麗な灰色のスーツに身を固めている。

 彼女は若い男性の来訪にちょっと驚いた様子を見せたが、それでもすぐに微笑して 

 

「……どちら様でいらっしゃいますか?」


 そう、問うた。

 か細くはあったが、歌うような調子と済んだ響きのある、美しい声である。

 驚いたのは訪客――アラン――のほうも同じであった。

 経済的下層民ばかりが集まるリッテンツァール街の下宿である。中年の婦人か老婆の管理人を想像しながら扉を叩いたところが、こんなにも艶やかなおかみが出てこようとは夢にも思わなかった。

 彼は咄嗟に直立の姿勢になってぎくしゃくと左頭の敬礼をとりながら


「は、はじめまして! 私、ウェンヴァール警察のアラン・ベッツェルと申します! このたび、王都本署配属となりまして、こちらに下宿させていただくため、伺った次第です!」


 大声で、台本でも読む様に説明した。

 よほど緊張してしまい、目線が上下左右に定まっていないのが自分でもわかる。


「はあ……」


 戸惑っているおかみ。

 いきなり訪れてきた警官に下宿させてくれと言われても、返事のしようがない。

 アランは少しの間、直立不動のまま固まっていたが、ふと思い出したように上着の胸ポケットに手を突っ込んでごそごそとやりだした。

 やがて一通の書面を取り出すと、おかみに両手で差し出し


「こ、これをどうぞ! 本署のバーン・ロメオ警部からの紹介状であります!」


 この一言は、魔法のように効き目があった。

 困ったような表情のおかみ、途端にふわっと笑みを浮かべ


「ああ、バーンさまのご紹介ですのね? それならわかりましたわ。いつまでも戸口に立たせてしまった失礼をお詫びいたします。――さあ、中へどうぞ」


 ぐいっとドアを大きく開けて中へ招き入れてくれた。

 中はほの暗い。

 入口正面のすぐに二階へ通じる階段があり、その右側は一階奥へ続いているようだが、暗さのためどういう造りになっているのかはわからなかった。

 若いおかみは先に立ってしずしずと階段を上がりながら

 ――今、下宿している方は誰もいませんの。一か月前にも若い男性の方がいらっしゃったんですけれども、半月ほどで出て行かれまして。ですから、アランさんお一人ということになりますわね。

 そんな説明をしてくれた。

 

「はあ、なるほど……」


 相槌をうちながらも、アランの耳には入っていない。

 階段を上るたびに揺れるおかみの白いスカートをぼんやりと眺めていた。彼女のあまりな美しさに、すっかり魂を抜かれてしまっている。そのせいか二度ばかり、足を踏み外しかけたのであった。

 上りきると突き当りで、左右に扉がある。右手は折り返すようにしてさらに階段が三階へと続いている。

 おかみは右の扉を開け


「どうぞ、こちらのお部屋をお使いくださいまし。お食事は毎度ご用意いたしますから、不要なときはお手数ですがそのようにお知らせいただければ助かりますわ。警察はお仕事の時間が不規則で大変でしょうけど、どうかお身体だけは大切になさってくださいね?」


 ん? とアランは不思議に思った。

 あたかも、警察という職業のことを知っているかのような口ぶりだったからである。

 以前、ここに下宿していた警官がいたのだろうか。

 そう思って尋ねてみると、おかみはゆったりと微笑み


「……主人が警官で、本署勤務でしたの。バーンさんの下で働いていたのですわ。主人も私も、本当によくしていただきましたの」


 そのあと、おかみはこう付け加えた。


「主人は二年前に、事故で亡くなったんですけれども」




「――なんだァ、アラン。お前、ジュリア夫人にそんな立ち入ったことまで訊いたのか?」

「ご、誤解ですよ! ジュリアさんのほうから教えてくれたんですってば!」


 たださえ強面のバーンに問い詰められ、しどろもどろになりながら弁解したアラン。

 ガラスの覆い蓋に白粉を吹き付ける作業の手が停まってしまっている。


「おい、口が動いて手が停まっている! しっかりやれ!」

「は、はいっ!」


 怒鳴りつけられ、アランは慌てて作業に戻った。

 先に話しかけてきたのは警部のほうじゃないか、と、やや不服な気持ちがなくもない。

 目の前には腰の高さほどもある、見事な装飾の施された直方形の台。その上に、ガラス製の覆い蓋がかかっている。貴金属や美術品を保管あるいは展示するためのケースである。それにくまなく微細な白粉を吹き付けているのは、指紋を採取するためである。

 ケースの中は空。

 クッションとして布かれた上質な濃紺の絹地が、ただ艶々と輝いているに過ぎない。

 昨晩まで、その中には一億セヴもの値打ちがついた首飾りが収められていたのだという。

 が、早朝、警備にあたっていた警官が巡回している際、なくなっていることに気が付いた。

 盗まれたのである。


「バーン警部! ちょっと、よろしいでしょうか?」


 やや広い空間をもつ保管庫にきびきびとした男の声がこだました。

 両開きの扉を開けて入って来たのは、アランと同じ年頃の若い男性巡査であった。


「リゼンデルか。どうした?」

「はい、デリモット氏の意識が回復しましたので、事情を聴くことが出来ました。――氏が黄昏の首飾りを入手したのは半年前、これはバトゥーヌ首長国のラモットという宝石商からだそうです。以来、この保管庫から持ち出したことはない、と。昨夜も午前一時過ぎ、扉の鍵を開けてここに入室し」


 アランが粉塗れにした保管ケースを指し


「この中に首飾りがあることを確認し、そののち就寝したとのことです。ここを出る際、間違いなく扉に施錠したと証言しています」


 手帳に書き留めたメモに目を通しながら澱むことなく報告した。

 有能な巡査である。

 必要な点を漏らすことなく聞き取っている。

 バーンは表情を厳めしくしたままうむと頷き


「なるほど。そうすると、犯行は午前一時過ぎから君が巡回に来た午前五時の間に行われた、ということになるな。君が巡回に入った時に発見したのであれば、外の警備はエンデス巡査だったのだな?」

「はい、そうです。午前四時から六時まではエンデス巡査が警備に立つ順番になっておりました」

「巡査を夜通し張り付けてあったというのに、こうまんまとやられてしまうとはな」


 コートのポケットに手を突っ込んだバーン。

 手の平大の小さな紙片を取り出すと、食い入るように見つめた。


「一体全体、どういう仕掛けを使いやがったんだ、怪盗リジェーヌめ……!」


 紙片には、流暢な文字でこう書かれている。


『デリモット・ダッツ氏及びウェンヴァール警察ご一同様へ。今宵、魅惑の秘宝、黄昏の首飾りを頂戴します。怪盗リジェーヌ』 


 怪盗リジェーヌ。

 ひと月ほど前に突如としてウェンヴァール市に現れた、怪盗などと名乗っているがとどのつまり窃盗犯である。

 国宝級の秘蔵品や破格の貴金属ばかりを狙い、しかも事前に必ず持ち主に予告状を送りつける。一般の民家に押し入るのならばともかく、そういった品々というのは厳重に施錠された富商邸宅内の保管庫や美術館にしかない。ところが、どんなに重厚な警備体制を布いたとしても、どういう奇抜な方法を用いているというのか、気付いた時にはすでに盗られてしまっているのであった。わずか一か月間に盗まれた品は五点ながら、その被害総額は三億セヴにのぼっている。

 ウェンヴァール警察では一刻も早く検挙すべく躍起になったものの、常に手口は巧妙にして大胆不敵、しかも神出鬼没にして未だにその姿を目にした者はない。

 リジェーヌという名乗りからして女性ではないかと市中では噂されていたが、あくまで推測の域を出ない。つまり、男か女かすらも定かではないのであった。

 アランは王都本署へ転勤早々、この怪盗に振り回される羽目になった。

 出勤したその日、予告状が届けられてきたのである。

 受け取ったのはウェンヴァール市では知らぬ者がないという富商、デリモット・ダッツ。

 標的は彼が所有する無二の秘宝、黄昏の首飾りであった。純度の高い白銀に色とりどりの宝石を大胆にちりばめてあり、光の加減によって様々に色相を変えて見せる。特に、目立つ位置に多く配置されているトワイライト・バーツなる宝石の、濃紺と鮮烈な橙の混色具合が見事であるところから、黄昏の首飾りと命名されたという。その値、一億セヴ。海向こうの遠国・バトゥーヌ首長国から厳重な管理のもとようやくデリモット邸に到着したところを、怪盗リジェーヌに嗅ぎつけられてしまったらしい。

 すでに三億セヴもの被害を許してしまっているウェンヴァール警察としては、これをも奪われてしまったならばその面目は完全に失墜する。

 デリモットからの通報を受けたバーン警部は総勢五十名もの巡査を動員し、デリモット邸を固めさせた。蟻一匹這い出る余地もない、重厚な警備体制を布いたのである。

 署長への挨拶もそこそこに、デリモット邸警備に引きずり出されたアラン。

 何が何だかわからない。

 つい昨日まで、通る人馬も稀という王都から遠く離れた田舎の駐在所に勤務していたのだ。きわめて民心が穏やかで長閑という表現が適当なその地域では、彼が赴任していた二年の間、事件らしきものは一件たりとも発生していない。家畜が一頭脱走すれば、せいぜいそれが事件として噂になるくらいであった。

 それがどうであろう。

 華の王都に転勤になったその日に、こうした一級の重大事件に関与せざるを得ないとは。

 さすがは大都会、と感心している場合ではない。

 犯人の跳梁を許せばウェンヴァール警察自体が市民から無能呼ばわりされることは目に見えている。まさに警察の威信がかかった、深刻な事態に直面しているのである。いつになく緊迫した空気の中に置かれ、彼はただただ緊張し続けるよりなかった。

 しかしながら、幸い、といっていいものかどうか、アランはウェンヴァール警察王都本署きっての敏腕であり署内でも一目置かれている警部バーン・ロメオに以前からその存在を認知してもらっていた。父親のカーレンがバーンとは古くから同僚であり、家族単位の付き合いをしていたこともあってバーンはアランが幼い頃から知っているのである。カーレンは数年前に病気でこの世を去ったが、父の遺志を継いで警官になろうと決意したアランを何かと後援したのも、バーンであった。

 ゆえに、田舎暮らしで都会に慣れぬアランのことを気遣ったらしく、バーンはわざわざバーレイド荘のおかみジュリアに彼を下宿させてもらえるよう紹介状を書いたりしたが、厚意はそれだけではない。デリモット邸の警護開始後も彼を自分の傍に置き、仕事に支障がないよう仔細に指示を飛ばしてくれた。もっとも、一年間王都警察学校に学んだアランは、一般採用の巡査よりも多少ながら専門の訓練を受けてきている。そうした事情もあって、現場で右往左往しつつも木偶の棒扱いをされずに済んだのであった。

 が、果たして怪盗リジェーヌはその予告通り、黄昏の首飾りを手中に収めてしまった。

 出動の目的は警備から捜査へと切り替わり、バーン以下王都本署の警官達は血眼になって怪盗リジェーヌの後を追わねばならなくなった。早急に検挙することが出来なければ、ウェンヴァール警察は市民の笑いものになってしまう。皮肉なことに、怪盗リジェーヌの犯行に戦々恐々としているのは莫大な富を手にしている貴族や富商達だけであって、一般の市民にとっては単に好奇心の的でしかなかった。超一級品しか狙われないゆえに、自宅に押し入られる心配がないからである。


「……ん? ちょっと待てよ。そこに、エンデス巡査はいるか?」


 リゼンデルの報告を聞いたあと、しばし予告状の紙片を睨んでいたバーン。

 ふと、思いついたように声を上げた。


「はい、ただいま呼んでまいります!」


 ほっそりとしていて華奢な体つきのリゼンデル巡査が駆け足で去り、代わってやってきたのは逞しい肉体をもった大柄な巡査であった。バーンよりも頭一つ半、背が高い。軍人といっても通りそうなほど、全体的に厳つい感じを与える。


「警部、お呼びでしたか?」


 地鳴りのように低い声だが、しかし滑舌の良い発音をしている。

 バーンはエンデスの方に向き直り


「ちょっと訊いておきたい。四時から六時は君が保管庫入口の警備だったな?」

「はい」

「すると、休憩と定時巡回は午前二時から四時までだったと思うのだが、最後にここへ巡回に来たのは何時だったかね?」


 胸ポケットから手帳を取り出し、パラパラとめくっていたエンデスは求めるページで手を停め


「……午前三時五十分です。保管庫内をひと通り検分し、外へ出たのが午前三時五十七分でした」


 見た目によらず几帳面な性格らしい。

 自分の行動した時間を逐一メモに残しているのであった。

 エンデスの申告を聞いたバーンがすかさず


「つまり、その時には黄昏の首飾りに異常はなかったということだな?」


 問うた。

 エンデスの四角く大きな頭部がかくりと縦に振られ


「はい。そのケースの中に間違いなく収まっているのを確認しております。異常はありませんでした」

「よろしい」


 眼差しを鋭くしたバーン。


「これで、犯行時刻の範囲が少し絞られたな。午前三時五十七分から午前五時の間、このわずか一時間の間に、怪盗リジェーヌが現れたということになる。――リゼンデル巡査も来たまえ」


 リゼンデルが入室してきてエンデスの横に並んだ。

 厳つい相貌のエンデスとは対照的に、リゼンデルは女性と間違われかねないほどに秀麗な面持ちをしている。体格も容姿もまるで異なっている二人だが、大勢いる巡査の中でもこの両人は際立って優秀なのであった。行動が軽快でよく機転の利くリゼンデルと、思慮深く職務に忠実なエンデス。自然、バーンは何かと二人に対して直接指示を与えることが多い。


「いいか、エンデス巡査の巡回が午前四時前、そしてリゼンデル巡査が異変を発見した巡回が午前五時。ということはだ、犯行はこの間に行われたとみていいだろう。その時間帯のデリモット邸と邸宅周囲の動向について、徹底的に調べるよう全員に伝達してくれたまえ。怪盗リジェーヌめ、上手く仕事をやりおおせたつもりだろうが、犯行時刻までは欺けなかったようだからな」

「はっ!」


 呼吸が合ったように同時に返答したリゼンデルとエンデス。

 二人はすぐに踵を返し、保管庫から出て行った。


(さすがはバーン警部だ。巡査の証言を聞いただけで、犯行推定時刻を絞り込んでしまった)


 相変わらず台座に白粉を吹き付ける作業を続けながらも、背中で話を聞いていたアランは、バーンの洞察力の鋭さに舌を巻いていた。


「すごい推理ですね、バーン警部! そこまで犯行時刻を特定できたのなら、これからの捜査がだいぶやりやすくなったも同然じゃないですか」 


 感動を率直に伝えたつもりだったが、バーンは厳しい表情を崩さずに答えた。


「甘いぞ、アラン。よく考えてみろ。確かに、怪盗リジェーヌが首飾りを持ち去ったのは午前四時から五時の間と考えていいだろう。だが、問題は犯行時刻以前に、奴がこの保管庫にどうやって忍び込んだのか、ということだ」


 首だけでやたらと広い室内をぐるりと見回しつつ


「見てわかる通り、ここには窓の一つもない。唯一外へと通じているのはそこの入口だけだ。デリモット氏が所蔵品の盗難を恐れ、特に費用を投じて造った完全無欠の美術品保管庫なのだからな。しかも我々はそのたった一つの入り口を、終夜警備していたのだぞ? 常識で考えれば、どう無理をしたって侵入などできっこないんだよ」


 彼の言う通りである。

 四方は分厚い石を積み上げた壁、床もまた同様に石が敷かれている。天井こそ木材が用いられているが幾重にも層が重ねられており、おいそれと穴を開けることは出来ない。入口の扉をくぐる以外に蠅の一匹すら入りようがないのだ。まさしく、美術品保管庫としては鉄壁な造りである筈だった。 

 にも関わらず、怪盗リジェーヌはまんまと入り込むことに成功している。

 前代未聞の奇怪な事件といっていいであろう。


「――怪盗リジェーヌの奴、一体全体何をしやがったのだ」


 呻いたバーン。

 その相好とわななく拳に、口惜しさが滲み出ている。




 アランがバーレイド荘に戻ってきたのは、もう夜の帳が下りた刻限になってからであった。

 眠気と空腹と疲労で、すっかり憔悴しきってしまっている。

 何もする気にならず、とにかくベッドに潜り込みたいと思いながら部屋の扉に手をかけた時である。


「……お帰りなさい。今日は本当に大変でしたわね」


 三階のほうから美しい声がアランを呼び止めた。

 見上げれば、おかみのジュリアの姿がある。彼が戻ってきた気配を察したのだろう。

 ふわりと穏やかな彼女の微笑みを目にした瞬間、アランの体内から気怠い何かが霧消していた。


「た、ただいま戻りました。遅くなってしまいまして」

「転勤早々重大な事件に関わってしまって、とてもご苦労でしたね。――ご夕食はまだでしょう? すぐ、ご用意いたしますわ」

「いえ、これも仕事ですからやむを得ないことです」


 と、答えてから、少し気になった。

 ジュリアのようにひっそりと暮らしている市民でも、怪盗リジェーヌの噂は耳に聞こえてくるものなのだろうか。市中ではどの程度認知されているのかまだよくわかっていないアランは、そのあたりに関心がなくもない。


「やっぱり、市中じゃ噂でもちきりでしたか」

「ええ。どの新聞も、一面は怪盗リジェーヌの記事ですわ。特に今回の被害は一番大きかったですし」


 彼女いわく、終夜警察が総力を挙げて警備していながら犯行を許してしまった点が、特に強調して書きたてられているようである。転勤したてのアランは捜査中はさほど動揺を感じなかったものの、今になって独り悔しさに震えていた警部バーンの気持ちが少しだけ理解できたような気がした。

 するとジュリアは労うように笑顔を見せて


「でも、警察の方たちは本当に頑張ってらっしゃると思いますわ。リジェーヌも今は思い通りに事が運んでいるようですけど、きっとバーンさまやアランさんに犯行を防がれるときがくるでしょう。私はそのように思っています」


 そう言ってくれた。

 彼女に励ましてもらうと、何だかそう思えぬでもない。

 部屋に戻ってから間もなく、ジュリアが夕食を運んできてくれた。

 食うより寝たいと思っていたアランだったが、目の前にジュリアの手料理を並べられた途端、眠気も一気に冷めてしまった。豪勢な食事というものではないが、ひと品ひと品が丁寧に作られていて見た目もよく、食欲をそそる。この一昼夜、満足な食事が摂れなかったアランには、この上ないご馳走であるように思われた。


「い、いただきます!」

「どうぞ、召し上がってくださいまし」


 美味い夕食にありつけたせいか、幾分心地が戻ってきたような気がしたアラン。

 活力がみなぎってきたからであろうか、気が付けばジュリアを相手に熱く捜査の話をしていた。


「――そういう次第でして、今回は世紀の大事件としてウェンヴァールの歴史に長く刻まれることでしょう。悔しいですが、リジェーヌは怪盗どころか大怪盗として名を残したようなものです」


 大袈裟過ぎるとも思われる誇大な表現を用いて事件を語るアランの物言いが可笑しくて、ジュリアはついくすくすと笑ってしまった。


「あ、あの……私は何か、変なことを言ってしまったでしょうか?」

「いえ、御免なさい。アランさんが世紀の難事件などと、たいそうなことを仰るものだからつい」


 卓の上の食器を片付けたところで、つとジュリアが手を止めてアランを見た。


「……でもそれ、本当に奇術や魔術の類でしょうか?」

「は? と、申されますと……?」

「亡くなった主人が申しておりました。一見、解明不能な仕掛けであるように見えても、その条件の範囲で可能なことは何かを考えてみればよい、と。――首飾りがたった一時間の間に盗まれたのでしたら、その一時間の間に保管庫に入られた方しか、首飾りを持ち出せる人はいないではありませんか。主人が申していた原理に従って考えてみましたけれども、私にはそうとしか思えませなんだ」


 事も無げに語ったジュリア。

 が、アランは内心で驚愕している。

 外見からは想像もつかない洞察力の鋭さ、そして語られた内容の説得力。

 彼女の言っていることは、確かに正鵠を射ている。

 アランはもとより警察全体が、怪盗リジェーヌに侵入されたと思い込んで捜査にあたっている訳なのだが、それでは解消できない矛盾が生じてしまう。あらゆる侵入者を許さないほど強固に警備を行っていたのはほかでもない、ウェンヴァール警察なのだ。

 だが。

 もしもジュリアの推理通り――あってはならないことであるが、警察内部に犯人がいる――だとすれば、簡単に説明がつく。それも、今回の事件だけでなく、ここ一ヶ月間に発生した怪盗リジェーヌによる犯行全てに対して、である。

 最初の犯行こそ警察による警備がない状態で行われたものの、それ以降は万全といってもいい体制を布いているのだ。とてもではないが、並みの窃盗犯なら間違いなく身柄を確保されていたであろう。であるがゆえに、そうした困難な状況下でも次々と窃盗に成功しているリジェーヌの手口がいったいどういうものであるのか、解明されないままだったといえる。バーンをはじめ警察の面々は皆、リジェーヌが警備の隙を衝いて侵入したものと考えていたからだ。

 ただし捜査に加わったばかりのアランには、余計な先入観がない。

 そのために、ジュリアの推理を素直に検討できるだけの余地があった。


「……」


 腕組みをしてじっと考え込み始めたアラン。

 目まぐるしく思考を回転させている。

 その表情に、帰ってきたときの疲れ切った色はどこにもない。




 一面、漆黒の闇。

 不意に遠くからコツコツと靴が固い床を踏む音がして、それは次第に近付いてくる。

 いかにも遠慮がちに忍ぶようなその足音は、小さくしかし明瞭に空間に反響していく。

 やがて、途絶えた。

 まとわりつくような暗さの中に人影が一つ、細長い台を前にして佇んでいる。

 やがてその影が俄かに動き、そろりと台へ手を伸ばしたそのときである。


「――おっと。警備の対象に手を触れるなんて、いけませんねぇ」


 声の主が、柱の陰からスイと出てきた。

 同時にポッとランプに明かりが点され、その人物の相貌が闇に浮かび上がった。

 アランである。

 彼は静かな微笑をたたえつつ、


「そもそも、照明も持たずに巡回を行うとは、いったいどういう了見なのでしょう」


 ランプを目線の高さまで差し上げてから、相手の名前を呼んだ。


「……リゼンデル巡査」


 光源の向こう側、橙色の光に染まった秀麗な相貌。

 人物は確かにリゼンデルであった。

 特に狼狽えた風も見せず、目深に被った制帽の下から、表情を消してじっとアランを見つめている。ただしその眼差しは警戒心を表すように鋭い光を放っていた。

 ややあって、リゼンデルが口を開いた。


「あなたはええと、確か、この前転勤でいらっしゃった……」

「はい、アラン・ベッツェル巡査です。この騒ぎでろくにご挨拶も出来ず、失礼いたしました」


 不敵に笑って見せた。

 その笑顔に薄気味悪いものを感じたのか、リゼンデルは軽く後ずさりした。平静を装うように笑顔をつくろうとしたものの、頬が強張っている。


「アラン巡査、ですか。どうぞ、よろしく。――ところで、何故ここに? 今夜の巡回警備は、私がやるようにとバーン警部から言いつかっているのですが」


 声に、不審の色がありありとにじみ出ている。


「いやなに、ちょっと確かめたいことがありましてね。私もバーン警部から許可を得て、この国宝秘蔵庫に立ち入らせてもらったのですよ。とはいえ、とんでもなく広いうえに真っ暗ですから、いささか閉口しましたがね」

「ははあ、確認作業ですか。それはもう、お済みになったのでしょうか?」

「それを今からやるのです。――ちょっと失礼しますよ?」

「あっ……!」


 言うが早いか、リゼンデルに躍りかかったアラン。

 暗闇であるうえに咄嗟のことゆえ、避けきれるものではない。

 短い悲鳴にも似たかん高い声が闇の中に殷々とこだました。


「くっ……」


 倒れそうになるのを必死に足を踏ん張ってこらえたリゼンデル。

 よろめきつつ仰け反ったその頭部から、重力に引かれてさあっと流れ出たものがある。

 リゼンデルははっとして両手でそれを隠そうとしたが、間に合わない。

 やむなく、両腕で顔を覆うようにしている。

 その様子を落ち着いた様子で眺めているアランは静かな声音で


「手荒な真似はご容赦いただきましょう。こうでもしないと、あなたは正体を見せないと思ったものですから。紳士らしからぬ振る舞いなどしたくなかったのですが」


 鋭くリゼンデルを見やった。


「――ご婦人に対しては」


 アランの手に、リゼンデルの制帽が鷲づかみにされている。

 制帽の中には豊かな量の茶髪。

 無残にもむしり取られたリゼンデルの頭髪かと思われたそれは、頭全体を覆う付け毛であった。

 少しの間背を向けて蹲るようにしていたリゼンデルだったが、やがてゆっくりと上体を起こした。

 再びランプの明かりに照らされたその相貌――アランが言う通り、女性であった。

 均整のとれた小顔をやや乱れた長髪が包み込み、そのまま背中や胸元へと流れている。細い切れ長の目とすらり伸びた鼻、そして白く括れたあご。光に当てて真っ正面から見てみれば、ちょっと珍しいほどの美貌ではないか。

 一瞬、キッとアランを睨みつけたものの、すぐにゆるゆると表情を緩めながら


「……まさか、あなたのようなごく普通の巡査に見破られるなんてね。せっかくだから訊いておきたいのだけれど、何故私だとわかったのかしら?」


 リゼンデルなる人物を装っていたときとは一変し、高飛車な物言いである。正体を知られて開き直ったのか、心持ち顎を上げて背を反らしたその態度には、アランを見下しているような雰囲気すら感じられる。豹変とはこういうことであろう。

 が、相手が犯罪者である以上、正義感がみなぎっているアランはこれといって動じていない。

 むしろ強気な笑みを見せつつ、静かに推理の経緯を語り始めた。


 ――すっかり明かしてしまいますが、最初に警察内部が怪しいと察したのは私ではありません。私が厄介になっている下宿の美しいおかみさんです。

 あなたのように美しく、しかも聡明なご婦人でしてね。先日発生したデリモット邸での盗難事件、あれについて何気なくお話ししたところ、あっさりと真実を言い当ててくださいました。

 彼女に言われてから署内の人間をよくよく観察するようにしてみたのですが、そうしたらなるほど、あなたの挙動に不審を感じたのです。

 推理してみた結果、恐らくそうだと頷ける点が幾つもありました。

 まず、あなたは普段から制帽を目深にかぶっていて、あまり素顔を見せようとはしません。ばかりか、署内でもいつもきっちり制服を着込み、決して脱がない。それでピンときました。あなたには、迂闊に制服を脱ぐことの出来ない理由がある、と。たった今その理由は判然としましたが、脱げない訳です。制服の上着をとろうものなら、あなたのその抜群に美しい体型が白日の下に晒されてしまいますからね。どう言い繕ってみたところで、その体型で男性と信じ込ませるのは無理があります。

 さらに、私はここ一ヶ月間の怪盗リジェーヌがらみの捜査記録をしらみつぶしに調べてみたのです。

 そうして紛れもなく、あなたが怪しいと確信しました。予告状を寄越されるに及んでウェンヴァール警察では都度警備体制を布きましたが、いずれの場合も犯行予告当夜の警備はあなたが受け持っている。そして、犯行を発見しているのもあなただ。

 エンデス巡査とあなたはバーン警部からはよほど信頼が篤かったようですからねぇ。あなたが自分から警備を引き受ければ、警部は否とは言わないでしょう。むしろ渡りに船とお思いになったと推察します。そしてあなたと共に一目置かれているエンデス巡査もまた、あなたがやる以上自分もやらねばなるまいと思う筈です。私はまだ彼のことをよく知りませんが、職務に忠実であるという評判が署内でも高いですからね。

 あとはそう、あなたが王都本署に採用されたのはほんのひと月前です。ところがほとんど時を同じくして、リジェーヌなる怪盗が王都に現れだした。――今申し上げた様々な事実、これらは偶然の一致でしょうか? 私にはそうは思われませんでした。

 ゆえにここ数日、怪盗リジェーヌの事件と同時にあなたのことも調べさせてもらったのです。


 そこまで喋っておいてから、ちらと傍らに鎮座している保管ケースに一瞥をくれた。

 中に収められている指輪がランプの光を受けてキラリと眩く一閃する。  


「こうした、警備の厳重な秘蔵品を盗むには、複雑な仕掛けを用いるよりももっと簡単で確実な方法があります。つまり、秘蔵品の近くにいても怪しまれない存在になることだ。もっとも相応しいのが警官でしょうね。そこに目を付けたのですよ、怪盗リジェーヌは。本当に、頭の良い女性です」


 初めて「女性」という言葉を口にしたアラン。

 もちろん意図的にである。

 黙って聞き耳を立てていた女性――怪盗リジェーヌ――は、ふうと小さく溜め息をつき


「……なるほど、ね。下宿のおかみの一言が私を追い詰めるきっかけになったってことね。世の中、色んな人がいるものだわ。是非、その女性とやらにお目にかかってみたいものだけれども」


 諦めともつかないことを言った。

 アランはそうですね、と軽く受け流しておいてから


「それにしても、よく明かりもつけずにこの暗がりで動けるものですよ。本当に、驚きだ」

「ええ。私、人並み外れて夜目が利くんですもの。もっとも、人の気配までは察知できないから、物陰に潜んでいたあなたを見つけ損なっちゃった。今夜ばかりは油断ね。そこは認めるわ」


 と、リジェーヌの手元が微かに動いた。

 それから程もない。アランは急に、脳がふわりと浮いたような気がした。

 間髪を容れずして、目の前がぼやけ霞んでいく。

 まともに立っていることが出来ず、床に膝をついた。

 必死にくらむ頭を殴りつけつつ顔を上げると、リジェーヌは厚手の布で鼻と口を塞いでいた。 


「……もしかして、揮発性の催眠薬を携帯していたのか!」

「ご名答。いつ露見して追跡されるかわからないから、ちゃんと備えはしてあるのよ。そういうこともあるって、覚えておくといいかも知れないわね。……勘のいい巡査さん」

「せっかく、追い、詰めた、のに……」


 そう呟くなり、アランは完全に意識を失ってしまったらしい。

 その手からランプが滑り落ち、床に当たってガシャン、と音を立てた。

 同時に火が消え、辺りはまた元の闇に支配された。

 その様子を、冷たい表情で見守っていたリジェーヌ。口元に、勝ち誇った笑みがわずかに浮かんでいる。


「私、約束は守るようにしているの。予告通り七色の指輪、いただいていくわね?」


 素早く踵を返したリジェーヌ。

 彼女の美しく長い金髪がふわっと闇になびく。

 そうしてガラスケースをそっと外し、中に収められていた品物に手を触れた途端。

 リジェーヌは露骨に眉をしかめていた。


「……何よ、これ? どういうことなの……?」 

 



 気がつくと、真っ白く塗装された天井が目に飛び込んできた。


「ここは……?」

「おう、アラン、気がついたか。王都中央病院の病室だ。安心しろ、命に別条もないし、外傷もない。ちょっと休めば大丈夫だろう」


 寝台のすぐ傍にバーンが立っていた。

 いつもは厳めしいその相好を今は穏やかに笑み崩し、優しげな目線を注いでいる。


「私は、一体……?」

「お手柄だよ、アラン。怪盗リジェーヌの奴、お前さんの仕掛けにまんまと引っ掛かったよ。野ネズミのようにすばしっこい奴だから取り逃がしてしまったが、レバンド公国秘宝の七色の指輪は無事だ。奴め、今頃はさぞかし悔しがっているだろうよ」


 愉快そうに笑った。

 常に七色の輝きを放つという世界でたった一つの宝石をあしらった「七色の指輪」が隣国・レバンド公国から移送されてきたのが二日前。黄昏の首飾りを奪われてから三日後のことである。ウェンヴァール王国とレバンド公国の国交成立五十年を賀して贈られてきた記念の品であった。無論、紛れもない国宝級の秘蔵品である。世界で一つしかない宝石だけに、その価値は一億セヴどころの騒ぎではない。物が物であるため、ウェンヴァール王宮内の国宝秘蔵庫内に厳重に収められることになった。万が一のことがあれば、レバンド公国との友好にヒビが入りかねないのだ。

 こんな時に厄介な代物を、と警部バーンは苦い顔をしたが、アランは黙って成り行きを見守っていた。

 恐らく、怪盗リジェーヌが動きそうなものだと思ったからである。

 果たして予告状が届いた。

 今度は大胆不敵にも、ウェンヴァール警察王都本署署長宛てである。

 署内は大騒ぎになったものの、密かに対策を講じたアラン。

 本来は許されるべきではないが、ジュリアに打ち明けてその意見を聞いている。デリモット邸窃盗事件について知恵を授けられてよりこの方、彼はジュリアの優れた洞察力と直感に一目置くようになっていたからである。

 案の定、予告状が届いたことを聞いた彼女はくすりと笑って


「……やはり、そうでしたか」


 短く言った。

 常に控えめなジュリアには、大げさな反応をするということがない。


「やはりといいますと? ジュリアさんはその、署長宛てに予告状が送り付けられると見抜いていましたので?」

「買いかぶり過ぎですわ。私は何も、ラウル署長様だけと絞っていた訳ではありません。ただ、もし怪盗リジェーヌが七色の指輪を狙うのなら、予告状はウェンヴァール市長様、もしくは署長様のいずれかに届けられるのではないかと思っておりました。

「なぜ、そう思ったのです?」


 問われると、ふふ、と上品に微笑んだジュリア。


「その警備には必ず王都本署の方々が動員されるように仕向ける必要がありますもの。それには、真っ先に市長様か署長様のお耳に入れておく必要がありますでしょう? ウェンヴァール王宮に知られてしまえば、警備は内々で王宮警備隊の手に任されかねません。そうすると、よしんば警察に警備の命が下ったとしても七色の指輪そのものではなくて王宮警備という名目にしかなりませなんだ。怪盗リジェーヌはそこを考えるはずですもの」


 彼女の推理に、アランは驚愕を禁じ得なかった。

 確かにその通りである。

 面目を重んじる王宮庁は、まず自分達の手で国宝を守ろうとするであろう。その場合、警察には真実が伝えられず、別の名目によって警備を任されるという想像は十分につく。つまり、七色の指輪の傍には王都警察といえども近寄ることが出来なくなるのである。

 が、先に警察が犯行予告を知ったとなれば話は変わってくる。未然の防止を目的に、率先して動くことができるのである。ジュリアのいう警察内部犯説が正しければ、犯人はどうあっても後者の流れになるよう仕向けておく必要があるのだ。

 そして。

 ジュリアが予想していた通り、予告状はウェンヴァール警察王都本署署長に届いた。

 このことは即ち、警察内部に怪盗リジェーヌが紛れ込んでいるという彼女の推測をも裏付けていると思っていい。

 アランは一計を案じると、秘密裏にバーン警部に打診して許可を請うた。今までさんざん愚弄され続けてきた怪盗リジェーヌに対し、今度は逆に裏をかいてやろうというのである。

 もちろん、バーンがすんなり自分の言い分を受け入れてくれるとはアランは思っていない。

 ジュリアの推理を参考にしている旨、それとなくほのめかしてみると


「むむ、ジュリア夫人もそのように考えていたというのか。それは検討する余地があるな……」


 彼は少しの間考え込んでいた。

 やがて、キッと顔を上げてアランを見ると


「……よし、やってみろ! ただし、余計な被害だけは出さないようにやれ」

「はいっ!」


 バーンの承諾を得たアランは次に、市内でも特に腕利きといわれる芸術家の元を訪ねた。

 モルツという造型職人で、主に貴族や議員の胸像や立像などを製作している。

 依頼したのは、七色の指輪のレプリカである。本来であれば国宝の模造品を製作するなど許されることではないのだが、そこはバーンが内々に手を回して王宮庁に目を瞑ってもらっている。

 差し出された写真をじっと睨んでいたモルツは


「そりゃ、造れと頼まれればごく似たものを造れなくもない。が、瓜二つ、というのは無理だぞ? 色ガラスなんかと天然石じゃ、素材の質がまるで違う。その道の者が見れば一目で偽物と見抜くだろうて」


 と、難色を示した。

 だが、アランはにこにこして頷き


「いえ、それで構いません。白昼の日光に晒して堂々と比べさせる訳じゃありませんから」


 暗闇の中で、しかも僅かな間だけ、リジェーヌの目を誤魔化せれば良いのである。

 そうしてあらかじめ本物とレプリカをすり替えておいた。

 無論、リゼンデルに気付かれぬように、である。

 彼の企図は果然図に当たった。

 人並み外れて夜目が利くという怪盗リジェーヌといえども、一寸先も見えぬような暗闇の中では本物とレプリカを見間違えてしまった。

 肝心のアランは、彼女が隠し持っていた揮発性の高い催眠薬を吸い込んで意識を失ったために捕らえる機会こそ逃してしまったが、国宝七色の指輪は無事に済んだ。七回目にして、怪盗リジェーヌはその予告を果たせなかったことになる。

 同時に、彼女が用いていた仕掛けが何であったのかも判明した。


『怪盗リジェーヌ、その正体は変装の達人』


 一夜明け、市中で発行されている新聞という新聞が怪盗リジェーヌの犯行失敗を大々的に報じた。

 これではもう、おいそれと次の犯行には及べまいよ、バーンは言ったものである。

 が、彼はちょっと苦笑して


「怪盗を部下にもってしまったのだけはいただけなかったがな。おかげで俺は減給処分だろうさ」




 夕食の支度に忙しかったジュリアは、ふと呼び鈴の音を聞いていた。


「はい、ただいま――」


 エプロンを外しながら階下へ下りていき、玄関の扉を開けた。

 そこに立っていたのは、制帽を目深に被った細身の警官であった。

 ジュリアには、見覚えがある。

 二週間ばかり前まで、このバーレイド荘に下宿していたあの青年ではないか。

 が。

 彼女はあら、とも言わず、持ち前の穏やかな表情で警官をじっと見つめている。

 ややあって、俯きがちだった警官が顔を上げた。

 よく整っていて秀麗な面立ちは相変わらずであったが、今は若き青年警官の相ではない。姿身なりこそ男性警官のそれをしているものの、制帽の下の相好ははっきり女性と見てとれる。


「……一つ、訊きたいことがあってきたのよ。お姉様」


 女性は小さく声を発した。

 その切れ長の美しい、しかし冷たい瞳が真っ直ぐにジュリアをとらえている。

 

「ひと月前からもう、気付いていたんでしょう? 私であることに」


 ジュリアはかすかに微笑しつつ、頷いて見せた。


「腹違いで別々の家に育ったとはいえ、自分の妹の顔を忘れたりなどしません。男装をして私の目を誤魔化そうとしていたから、あまり良からぬことになりそうだとは思いましたけど、黙っていたのですよ。あなたがしようとしていることを無理に止める権利など、私にはありませんもの」


 そこまで言ってから、やや悲しそうに表情を曇らせた。


「……それはそれとしても、街中を騒がせ、警察や役人の皆さんを困らせるなんて、たいそうなことをしてしまったものですね。まだこんなことを続けるつもりなのですか?」

「いえ、今回はこれまでね。顔を知られたから、指名手配になってしまったんですもの。あのアランとかいう若い巡査にしてやられたわ。ここに下宿しているそうだけど、彼に知恵を授けたのもお姉様だったそうね。すごく褒めていたわ。あんなに聡明な女性はいない、って」


 女性の眼差しが深くなった。


「そんなことより、最初からお姉様に見破られていたってたった今知って、そのことのほうがよほどショックね。声を掛けてこないし、てっきりお姉様を欺けたものだと信じていた。だから上手くいくと思っていたのに」


 くるりと背を向けた。


「……私、いつかはお姉様を超えてみせるから」


 言い捨てるなり、走り去って行ってしまった。


「お待ちなさい、リジェリア――」


 ジュリアは急いで表へ出たが、もうそこに妹の姿を見つけることは出来なかった。

 夕暮れ時の斜陽を浴びながら、呆然と佇んでいるジュリア。

 去り際にちらと見えた、リジェリアの美しい長いブロンドの髪。

 彼女と同じジュリアのそれが、微風に軽くなびいている。

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美しき陰陽 神崎 創 @kanazaki-sou

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