劇団魔王【祝2000PV】
小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中)
序章
第0話 運命の脚本家
「おはようございます、セシリア。本当に行ってしまうのですね」
白い修道服に身を包んだ女性が、朝方に馬車を待つセシリアのもとへと歩いてきた。セシリアが奉仕していた教会の修道女であり、身寄りのない子供たちの親代わりであり、指導者であった。
「寂しくなります。耐えきれないほど辛いことがあったら、いつでも帰ってきなさい。あなたの故郷は、女神様の祈りとともに、この地にあります」
「そんな、
シスター・ジゼルが人目もはばからず、長いスカートを持ち上げて涙をぬぐっている。
それを見たセシリアも、いたって純朴な普通の服の
「季節の変わり目には、帰ってきますから」
「ええ。教会はいつでも開いていますわ」
セシリアとシスター・ジゼルは、朝焼けに照らされる広大な畑を見下ろし、手入れにいそしむ人々の姿を、眺めた。
「貴女が突然、脚本家になりにあの恐ろしい俗世界へ身を投じたがっている旨を聞いたときは、許してよいものやら、わたくしは大変迷いましたとも」
「すみません、ご心配かけて。でも、どうしてもあの国で腕試しがしたいんです。自分の好きなことで、どこまで行けるか、そして、どれだけ皆様に喜んでもらえるのか、勝負してみたいんです」
シスター・ジゼルの金色の眉毛がまんなかに寄った。
「……本当に、辛いときはいつでも帰ってくるのですよ。皆は今、寝ておりますが、本当は今すぐにでも早起きして、貴女に取りすがりたい思いのはず。お別れパーティでほんの少しタガが外れて、はしゃぎすぎて疲れて爆睡しているだけだとしても、きっと心の中では貴女への別れを惜しむ気持ちでいっぱいのはずです」
「ええ……いつもより食事の量が増えて、めちゃくちゃ喜んでましたね」
セシリアは昨日の皆のはしゃぎように、苦笑していた。めったに美味しい物が手に入らないこの田舎では、たとえ身内以外の門出でもお祭り騒ぎの口実になる。
おかげで別れの悲しみよりも、美味しい物をみんなで食べた思い出のほうが、勝ってしまった。
「わたしの門出は、楽しい思い出になりましたね」
「迷いはないのですね」
「はい」
「サーカス国には、怪しい噂が山ほどあります。なんでも、悪しき呪術を操る魔王がいるとか」
「ふふ、その話は何度も聞きましたよ。きっと手品師のことだと思います」
「そうだとしても、サーカス国は男ばかりの荒々しい環境でもありますわ。そんな場所に、十八になるうら若き乙女が飛び込んでしまうだなんて。……せめて貴女と一緒に、途中まで旅をすることができたら」
無論、セシリアも一人旅を安気に構えてはいない。武術も体術も心得てはいないが、石だの棒だの振り回して自衛せねばならない状況は、いつでも覚悟している。
「シスター・ジゼル。わたしはたぶん、すぐには戻りません」
セシリアは、まだ見ぬ世界へと飛び立たんばかりに、青い空を見つめた。波打つウェーブのかかった
「戻るときは、一人前の脚本家になって、舞台をいくつも手がけた頃です!」
「セシリア……」
シスター・ジゼルはこれ以上の言葉は不要なのだと察した。
ガタゴトと、茶色い馬に引かれたぼろぼろの荷馬車が数台、道の
セシリアの他にも、よその地へ用のある者が十数名、それぞれ背中や手に重い荷物をさげて待っている。
馬車が停車し、積み荷を下ろす者、それを受け取りに来た者が黙々と仕事をこなす中、馬車での移動を目的とする者が次々に乗ってゆく。
セシリアだけが女性の乗客だった。
「どうか気をつけて。応援していますわ」
「はい。シスター・ジゼルも、お元気で。みんなにも世話になったと、お伝えください」
積み荷を下ろす作業を終えた御者が戻ってきて、馬の手綱を取った。出発の合図のかけ声ひとつ、ピシャッと鞭打たれた馬が進みだす。
シスター・ジゼルは馬のゆるやかな加速に、瞬く間に置いていかれた。遠ざかる彼女の小さくなる姿に、セシリアは感極まって席を立ち、外に向かって大きく手を振った。
「本当に! お世話になりましたー!」
残されたシスター・ジゼルは、手にした小さな布鞄を、見下ろした。
「行って、しまいましたわね……」
懐から、一枚の青紫の封筒を取り出して、中身を広げた。
青銀色のインクで書かれた、なぞめいた脅迫状。
『戒律を破りし蘇った娘を、我が手中に収めたい。娘に物語の志あらば、我が国へ送り出せ。嘘吐きと泥棒には火炙りがお似合いだ』
ある朝、猫よりも大きくて不気味な蝙蝠が、教会の窓辺に置いていった手紙。ジゼルが封を開くと、このような内容が書いてあった。
読み返した手紙は、今朝よりも文字の色がずいぶんと薄くなっていた。見る間に文字は消えてゆき、紙は小麦粉のようになって風に散ってしまった。
「これで……火炙りになる者は誰もいないでしょう。ああ女神様、そしてサーカス国の団長さん、どうかあの子にお慈悲を」
シスター・ジゼルは目を伏せ、そっと両の手を組んで祈った。
豊かな大地いっぱいに揺れる実りを、春の温かな風が撫でていった。
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