6話目 ~ビフテキは心の支え~
梅雨真っ盛りなとある日。
朝は雨など降っていなかったというのに、先ほどから降り始めた雨が、窓に水滴を落とす。
――傘、あったかなあ。
会社にある自身のデスクから窓を見て、自分の荷物を思い出すものの、折り畳み傘があったかどうかすら思い出せない。
ごそごそと鞄をあさってみると、一応折り畳み傘はある。だが、その雨足の強さからすると、折り畳みでは役に立たない可能性が高かった。
そのことに内心溜息をつき、駅に向かうまでにあるコンビニで大きいビニール傘を買おうと決め、また仕事に戻る。
そして仕事帰りにコンビニに寄って傘を買い、歩いている途中でとある洋食屋の前を通った。以前は賑わっていた店だが、今は数人しかいない。
いったい何があったのかと心配になる。が、それは今さらな話なので中に入ることもなく、そぼふる雨の中を通り過ぎる。
中から、切なそうな顔をして僕を見ていた女性がいることを、気づかずに。
そもそもの話、僕はこの店のシェフになる予定だった。そう、予定だ。しかも過去形。
両親と彼女があの男をメインシェフにしてから、店がおかしくなった。
それは彼らの自業自得であり、僕のせいではない。
血の繋がった僕の話を信じることなく、赤の他人の嘘を信じた結果で現在の姿があるのだから、僕としては〝ざまあみろ!〟という心境だ。
客足が減ろうが、売り上げが落ちようが、知ったこっちゃない。電話で「戻ってきて」と言われるたびに、「その道を選んだのはそっちだ」と突っ撥ねた。
それに、もう料理をしなくなって二十年はたつ。レストランで披露するような腕ではなくなっていたというのもあった。
まったく未練がないといえば嘘になるが、今いる会社でそれなりの地位にいる僕としては、どうでもよくなっているというのもある。
それに、今の仕事もなかなか面白い。それもあり、料理は休みの時や夜くらいしか作らず、ほぼ家庭の主夫レベルといった具合だ。
それでも、たまに後悔する時もある。
もしもあの時、動画を消されていなければ。
もしもあの時、動画をコピーしていれば。
今さらな話ではあるが。
そんなもんもんとした日々を過ごしていたある日、出張でとある街に行った。
なかなか長閑な雰囲気で、神社があるのか土産物屋がたくさんある。
――かなり有名な場所だったのだろうか?
そう思って土産を物色しがてら店員に話を聞くと、霊験あらたかで、ご利益があるという。
「そうなんですね」
「ええ。御参りに行ってみたら如何ですか? 何もなくとも、素敵な場所ですから」
「そうですね……そうさせていただきます」
にこにこと嬉しそうに神社のことを話してくれて店員。この地が本当に好きなんだろう。
少し離れた場所には温泉もあるそうだから、別の日に個人的に来てもいいかもしれない。
そんなことを考えて、その日は御参りだけして帰った。
その二週間後、連休を利用して湯治がてらまた神社に御参りに来た。仕事中に腰を痛めてしまい、どこがいいかと調べていたら、この地にある温泉が腰や古傷にいいと書いてあったのだ。
一ヶ月たたず二度も来ることになるとは、きっと何かの縁ができたんだと思い、すぐに旅館の空き状況を調べ、予約した。連休中だったから空きがないかと思っていただけに、取れて嬉しい。
二泊三日の旅程で、電車に揺られる。駅からその旅館までのシャトルバスが出ていると書いてあったので利用し、さっそくチェックインした。
時間が早かったこともあり、近くを散策してくるからと旅館の従業員に話すと、例の神社をすすめられた。
「そうなんですね。では行ってみます」
「きっとご利益があると思います」
にこにこと話す従業員。嬉しそうに話す従業員に、地元愛が強いのだろうと感じた。
財布とスマホ、カメラを持ち、腰の痛みに注意しながら神社に向かい、御参りをする。その帰り道、真っ白い髪の女性が目に入った。
――なんだかふらついているようだが……大丈夫か?
心配になって近づくと、案の定僕の目の前で倒れそうになり、慌ててその腕を掴む。よく見れば妊婦で、転ばなくてよかったと胸を撫で下ろした。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます」
「ご自宅はお近くですか? それとも病院にいかれますか?」
「この先に自宅があるんです。申し訳ありませんが、そこまでお願いできますでしょうか」
「構いませんよ」
背中を支えるよう、ゆっくり歩く。すぐに細い小路に入ると住宅街になった。
そして「あそこです」と言われた場所は、とても大きな藁葺き屋根のお宅だ。
繩暖簾があることから、何かしらの店をやっているのかもしれない。
女性を支えながら一緒に中へと入ると、「いらっしゃいませ」と声がかかった。そして声の主であろう、左目から頬にかけて傷があり、右目を隠している男性が、慌ててすっ飛んでくる。
「どうした!」
「立ちくらみを起こして転びそうになっていたところを、この方が助けてくださったの」
「そうだったのか。妻を助けてくださり、ありがとうございます」
「いえ。じゃあ、僕はこれで」
「そう言わず、休憩していきませんか?」
「え? ですが……」
「お礼がしたいんです」
辞退したかったが、二人にどうしてもとお願いされ、カウンターに座らせてもらう。そんなつもりで助けたわけじゃなかったんだが、あまりにも必死だったから逆に申し訳なく思ったし、僕もお腹がすいていることを思い出したから、席につく。
メニューとおしぼり、水が置かれる。メニューを手に取って開くと、お手製なのか写真が貼られていて、説明も書かれていた。
その中で心惹かれたのは、〝ビフテキ〟の文字。
多くの人は、ビフテキはビーフステーキの略だと思っているだろうが、フランス語でステーキを意味する〝ビフテック〟が語源という説が有力だと、父から聞いたことがある。
メニューとしては〝ビーフのステーキ〟なので、そう思い込むのはもっともなことかもしれない。確かに僕も、ビーフステーキだと思っていたのだから。
ちなみに、フランスのビストロや家庭の食卓では、ビーフステーキにはじゃがいもを素揚げにし、塩をふりかけたフライドポテトを山盛りにして付け合わせるのが定番だという。
なので、僕の実家もそうしていたと、余計なことまで思い出してしまい、我に返る。
――いけない、今はメニューを見て、早く料理を決めないと。
そう思って他のメニューを見るものの、ビフテキ以上に心惹かれるようなメニューはなく、コーヒーとサラダ、パンかライスが付くセットメニューにもなっていたので、ライスセットで頼む。
料理が出てくるまでの間、店内を眺める。
テーブル席に近いところは出窓になっていて、そこには黒猫が手足を投げ出して寝ている。
反対のほうを見れば、駄菓子や野菜、鍋などの雑貨が並べられ、そこの窓際にも白猫が香箱座りをして外を眺め、あくびをしていた。
そしてカウンターの横はレジになっており、そこには先ほど助けた女性が椅子に座り、その膝の上に三毛猫がいてにゃあにゃあと鳴いている。
そのたびに女性が「ごめんなさい」と謝っているから、三毛猫は心配して怒っているのかもしれない。
――猫の言葉がわかるなんて、凄いなあ。
実家がレストランを開業していた関係でペットを飼ったことはないが、今はまったく関係ないんだから、飼ってもいいかもしれない。
もし、過去に戻ってやり直せるのであれば、この店のように猫を飼ってもいいなあと思うくらいだ。
今さらなことを思ったとて、過去は変えられない。
内心で溜息をつくと、料理が運ばれてきた。
レタスときゅうり、トマトとポテトサラダがのっているだけのシンプルなサラダとご飯、目の前にはビフテキ。
そして、頼んだ覚えのない、ベーコンと玉ねぎが入っているコンソメスープが。
「こちらはおまけです」
「いいんですか?」
「ええ」
「ありがとうございます」
「お熱いうちにどうぞ」
そう声をかけた男性がカウンター内に下がる。
コーヒーは食後にとお願いしたので、今は並んでいない。
熱いうちにと言われたのですぐにステーキを一口分切る。ソースはとろっとしたものにわさび付き。
切り分けた肉にわさびを少しだけ塗って口に運ぶ。
すると、とても柔らかいお肉と焼き加減、いい塩梅の塩コショウ、玉ねぎを摩り下ろしてあるのかその仄かな甘み、わさびの爽やかな辛さがすうっと鼻から抜けていく。
味わうように噛み締めて飲み込むと、今度は付け合せを食べる。付け合せはほうれん草とコーンのバター炒めに、山盛りの素揚げしたじゃがいもだ。
見た目のソースや盛り付けなどは、どこにでもあるものだ。だが、そのソースの味は、実家のレストランと同じ味付けだったことに衝撃を受ける。
「あのっ、このソースはとても美味しいですね」
「ありがとうございます。とあるレストランのオーナーに教わったんです」
レストランの名前を聞いて、再び衝撃を受ける。それは実家がやっているレストランの名前だったからだ。
何度か食べに行って仲良くなり、お互いが知っているソースの話になったという。その時、ソースのレシピの交換をしたという。
「そうなんですね。実は、僕の実家なんです、そのレストランは」
「今は料理をされていないんですか?」
「ええ。追い出されましたので」
そうだ。あれは『追い出された』のだ……一緒に働いていた男の策略に嵌って。
そして彼が後継者となり、結果的に、閑古鳥が鳴く店になってしまった。
コーヒーを飲みながら、ついそんな話をしてしまった。
今まで誰にも話したことがなかった僕の過去。
どうして彼らにそんな話をしたのか、わからない。
だが、きっとどこかで、僕は燻っていたんだろう。彼らに話して、なんだかスッキリした。
「話を聞いてくださって、ありがとうございます」
「いいえ」
痛ましい顔をされたが男は何も言わず、すぐに微笑んでくれた。そして会計をしようとレジに行ったが、お礼だからと言って金額を教えてくれない。
ならばメニューの金額を思い出そうとするものの、金額が書かれていたことは覚えていても、その金額が思い出せないという、なんとももやもやとしたものが心に広がる。
物覚えは悪くなかったはずなんだが……と不思議に思うものの、「お礼ですから」と言われてしまえば強く出ることもできず、結局はごちそうさまとお礼を言って、店を出ようとした。
「きっと、大丈夫です。今度はうまくいきます」
「え? よくわかりませんが、ありがとうございます」
きっと今やっている仕事のことだろうと思い、素直に返事をし、店を出る。これから温泉に入って、腰の治療をしようと歩き始めた時だった。
一歩歩くごとに、悪くなっていたはずの視力が戻り、はっきり見えてくる。
そして着ていたはずのラフな格好は別の服に変わり、営業によって焼けた手が、白くなっていく。
まるで、過去に戻るかのように。
そして大きな通りに出る頃にみたガラス窓に写っていたのは、まだ二十二になったばかりの頃の、自分だった。
疲れでできた皺も一切なく、そのことに混乱する。そして、近くには亡くなったはずの祖父がいて、更に驚く。
「どうして……?」
「ここにいたのか! 探したぞ!」
「あ……ごめん、じいちゃん。妊婦さんが倒れそうになったのを助けて、家まで送ってきたんだ」
そこだよ、と振り向いた先にあったのは、鬱蒼を茂った森。しかも、とても大きな屋敷があったはずなのに、それすら見る影もない。
――え? そんな馬鹿な……!
確かに妊婦さんを自宅に届けたはずだと思うと同時に、別の記憶が流れてくる。
――ああ、そうだ。確かに妊婦さんを助けたけど、途中で旦那さんと会ってそのまま引き渡したんだ。確かすぐそこの家だった。
きっとあれは夢だったんだと思うことにした。だって、じいちゃんはまだ生きているし。
「どうした?」
「いや、なんでもない。神社の御参りも終わったし、宿に帰ろうよ、じいちゃん」
「そうだな」
店を改装するのに一ヶ月かかると言われ、今まで休んでいなかったからと、家族総出で旅行に来たことを思い出した。祖父も父も足腰が痛いと言っていて、二週間ほど湯治に来たことを思い出す。
一旦宿に帰り、温泉に浸かる。
美味しいご飯や温泉、毎日のように御参りに行く神社。
そのどれもが新鮮で、刺激的で、創作料理のレシピがあふれてくる。
「僕はいつか、じいちゃんや父さんのような、凄い料理人になりたいんだ」
「そうか。そのためには、料理を学ばんとなあ」
「そうだね! 頑張るよ」
思いついたレシピはメモをして、家に帰ったら作ろうと思う。試食してもらって、いつかそれを店のメニューにしたいと思っていた。
そして改装が終わり、新たに料理人を雇った。だが、その男はとても胡散臭い雰囲気で、料理の腕もそれほどいいというわけじゃない。
なんでこんな男を雇ったんだろうと不思議に思っていたところ、知り合いから紹介されたと、祖父がぼやくように話していた。
――同じだ!
なぜかそう思った。それと同時に、監視カメラの映像を祖父と父に最初に見せようと、なぜかそんなことを思った。
そして改装してしばらくたったある日、料理勝負をすることになる。
次の料理長を僕とその料理人とで迷っていた、父と祖父。
母と祖母が「料理人らしく料理勝負でしょ」と言ったことでステーキを焼く勝負をすることになり、それぞれ焼いたものを提供することになった。
ただ、相手はかなり悪どいことをすると、バイトの間でまことしやかに噂になっていたことから、僕も対策を練って監視カメラで動画を撮っていた――なんとなく予感がして。
そして勝負したが、彼はやらかした。
その決定的な証拠を見つけ、父と祖父に先に見せると、二人は激高した。
今まで彼のせいで辞めてしまった料理人がいたことを思い出し、頭に血が上ったのだ。
それほどに酷い味付けと焼き加減のステーキだったのだ、彼が焼いたものは。
彼がしたことは、僕が焼いたものと自分が焼いたものを取り替えること。その場面が、顔と共にしっかりと動画に写っている。
もちろん、彼を紹介した人や近所の人を招いて審査員をしてもらっているし、実際に紹介した人と近所の人が交換していることをバッチリ見ていた。
紹介した人に至っては同じく動画を撮っていたから、嘘だと言われることもなかった。
自分が失敗したとか、間違って作ってしまったものではない限り、料理を交換するなど、してはいけないことだ。
自分の腕が信じられないなら、料理もしてはいけないのだ。
自宅で食べるだけならば、多少の失敗は笑って許されるだろう。だが、客商売である以上、失敗は許されない。
「儂がこやつを紹介したのは間違いだった」
「そんな!」
「そんなもこんなもあるか! お前が焼いた肉を食ってみろ!」
相当自信を持っていたんだろう。彼はふふんとせせら笑うと、自分が焼いたステーキを食べる。だが。
「……っ!」
「わかったか? お前の腕の酷さが」
味付けが濃い、焼き過ぎて硬い。見た目も悪い。
そしてとてもじゃないけど食べられるようなものではなかったようで、途中で吐き出した。
食べ物を粗末にするなと彼を紹介した人や父と祖父に言われ、無理矢理飲み込んでいた。
結局僕が次の料理長となり、彼は辞めた。紹介した人が一から修業させると言って、連れて帰った。
その一ヶ月後。
「いらっしゃいませ。おや、お久しぶりですね!」
「お久しぶりです。改装おめでとうございます。更に繁盛しているみたいですね」
「ええ! 貴方に教わったソースのおかげでもあるんです」
フロアに出ていた祖父が、楽しげな声でお客様と話している。厨房からそちらを見ると、夢に出てきたご夫婦が。
「……っ、もしかして」
女性のほうを見れば、お腹が大きい。祖父もそをれを見て、おめでとうございますと声をかけている。
そんな女性と目が合った。口パクのはずなのに、なぜか聞こえた「よかったですね」の声。
――あの時の恩返しをしよう……僕が作った料理で。
きっと二人は、あの町を護っている神様だ。僕が次代の神様を救ったから、二人は僕を過去に戻したのだ。
そう思うと、俄然やる気になってくる。
この店の看板にもなった、ふたつのステーキソース。それをアレンジして、僕の成長ぶりを確かめてもらおう。
きっとそれが、二人の恩返しになると信じて。
そしてそれは正解だったのだと、後日知ることになる。
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