「用意ができたのにせずに後悔するのはだめです」


「約束、ですか?」

「ええ。試合に勝った方が、ひとつ、なんでも言うことを聞くの」


 持ち掛けたのはアイリーンで、あっさりと承諾したと思ったら、師は、試合というからには立会人がいなければ無効と言い張った。

 内密に教わっている状態でそんなことを頼める心当たりもなく、事実上不可能ではないかといきどおったものだ。

 しかし、剣技大会を思い出し、アイリーンは、身元が露見しないようにした上でどこかで当たる可能性にかけて、師にも出場させた。

 みずからの結婚が絡み、決勝戦まで当たらないということは、想定外だった。

 後者に関しては、ありえないと思わないでもなかったが、その前に負けるものと思い込んでいた。

 もっとも、致死が禁じられているのだから、実力を出し切れていない者や、そのために失格になってしまった者もいることだろう。


「なんでもって、お嬢様は何をおっしゃるつもりなんです?」

「私は…本当のことを言っていないから、私がアイリーン・リストと知っても、今まで通りに接してほしいと、お願いするつもりで」


 ただげればいいだけのことで、そうするべきだと知っているのに、こわくてここまできてしまった。

 侍女は、数度口を開閉させ、深呼吸をした。


「順に、お聞きしますよ」

「…はい」

「本当のことをって、今は何と名乗っていらっしゃるんです」

「あなたの名前を借りたの。ごめんなさい」

「わた――。そ、それで、シアラー様はどんな要求を?」

「まだ言われてないわ。私も、言っていないもの」


 侍女は、額を押さえてがっくりと座り込んでしまった。アイリーンが、おろおろととりなすようにその手を取る。

 数回深呼吸を繰り返すと、侍女は、アイリーンの手を強く握り返した。


「お嬢様。もう、何も言いません。明日も、お好きになさってください。けれど、城をてるだけの準備はしておいてください。改めて、クリフには馬を頼んでおきます」

「どうして?」

「私とお嬢様とでは、あまりに違います。シアラー様には、もうずいぶんと前から会われていたのでしょう? 言わなくとも、お嬢様がお嬢様ということくらい判りますよ。夜会に出席されることもありましょう」

「…だけど、私はあまり夜会が好きじゃないし、コンラートだって滅多には」

「夜会でなくとも、知りようはあります。その上で何でもなんて、一体どんなことを言われるか」

「でもヒルダ、妙なことを言う人ではないわよ。それに、私が負けるとも限らないのだし」


 じっと、侍女はアイリーンを見つめた。同じ年とは思えない、年たような瞳だった。


「お嬢様。私は、元は貧しいところの娘です。姉が見初みそめられて、今は貴族の末端にも数えられています。たまたま王妃様の眼にとまったから、こうしてお嬢様のおそばにもおりますが、本当は、お言葉をいただけることさえ身の程知らずなことなんです」

「ヒルダ、それは違うわ」

「違いません。そういうものなんです。私は、少しばかりはくがついただけで、周りの人たちがまったく違うものになることを知っています。皆がとは言わずとも、そうなんです」

「…ヒルダ」

「悪いことを予想して、そなえをして、それが無駄になるならいいんです。だけど、用意ができたのにせずに後悔するのはだめです。それに、やはりあの猪男が勝者とならないとも限りません」


 真剣な、心底心配をしてくれる眼差まなざしに、返す言葉はない。

 アイリーンは所詮しょせん、籠の中の鳥だ。心地のいいこの場所しか知らない。


「そうね。お願いするわ。ありがとう、ヒルダ」

「いえ」


 アイリーンが寝台に入るのに手を貸して退出を告げ、侍女は出て行った。

 その背を見送ったアイリーンには、もう、初めての試合に勝った喜びや、ちょっとしたいたずらを楽しむような気持ちはなくなっていた。


 師と出会ったのは、七つのときだ。

 四年前に一度、十五の兵士志願にサバを読んで入隊しようとしたことで話題になった少年兵は、ちょっとした話題にもなっていた。

 好奇心から見に行き話しかけたのが、はじめ。侍女となる少女が来たのも、この頃だ。


 明日は、決勝戦で対峙することができるだろうか。

 コンラートは、何を望むだろう。


 ヒルダの眼差しが、残っていた。

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