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 クルーザーの中は快適だった。一つ一つの席のスペースが広いし、結構大きなク

 ルーザーなのにもかかわらず、乗客がたった9人だ。そのほか、船員や旅行会社の人間も乗ってはいるが、乗客席にはいない。これだけのスペースをたった9人で利用できるのはありがたかった。


 成田から南米某国の空港までは直行便がない。そのため2度飛行機を乗り継がなければならない。まぁ、地球の裏側へ行くようなものなのだから仕方がないのだが、窮屈なエコノミー席での約30時間に及ぶフライトは、熟年に片足をつけている身にはかなりきつい。


 彼、高田浩史は現在57歳の開業医である。美容外科医で、その技術はなかなかの折り紙つき。収入も相当あるし、非常に人気の高い医者だ。彼の美容整形を受けたいと願う患者はひっきりなしで、正直、彼には休む暇もなかったし、1週間以上も海外旅行に出るなんて余裕はなかった。

 しかし、彼には充電期間が必要だった。約1ヶ月前、彼は妻を亡くした。がんであった。がんが判明したときには時すでに遅く、足の付け根の骨に巣くったがん細胞は、破裂し、骨を砕くと血液に浸潤し肺などに転移していた。


 こうなるまでには相当な痛みをともなったはずだ。なのに妻は私の前では一切、痛いと弱音を吐くことがなかった。それどころか、足を引きずったり、さすったり、痛み止めを飲んだり、少なくとも私の前では一度もそんな姿を見せなかった。どうして、私の前で弱みを見せなかったのだろうか


 高田はちょっとしたことで妻を思い出すと、いつも、この問いにぶつかる。


 私が家庭を顧みることをしないほど多忙なのを理解していて、心配をかけないようにと気遣ってくれていたのか?それとも、妻は糖尿病を患っていたから、そのせいで神経系統がやられていて、酷い状態にがんが進行するまで、本当に気がつかなかったのか?(そんなことはありえないだろうが・・)


 それとも、私が、ある女性患者と不倫の関係にあったことを感づいていて、あてつけのつもりで我慢していたのか?


 彼女が病気に侵されたと知るまでは、彼にとって妻の存在は、あって当たり前程度でしかなかった。恋愛の対象だなんて、すでにちっとも思っていなかったし、男女の営みももう何十年もしていなかった。彼女は医者としての知識も、病院経営の知識もなく、仕事に干渉してくることも一切なかった。そのためパートナーとしても特に意識はしていなかった。

 だが、もはや病気を隠しきれなくなり、倒れ、病床についた彼女は、高田を見ても、恨み言ひとつ言わず、力なくも一生懸命笑顔を見せようとする。その姿に、彼は激しい愛おしさと哀れみを抱き、彼女への懺悔の気持ちが激しく胸をこみ上げてきた。


 私だっていっぱしの医者なのに、妻のがんを気づくことすら出来なかったなんて・・。


 高田は一人になると、すぐに妻のことを考え、心の中で懺悔を繰り返す毎日を送るようになっていた。そのため、以前にもまして仕事を入れ、こなしていた。仕事をしている間は、妻への思いを断ち切ることができる。

 しかし、仕事に没頭するあまり疲れが溜まったせいなのか、心に隙が出来たせいなのか、手術中に不意に、妻が苦しむ姿が頭をかすめた。体中から汗が吹き出し、目の前がかすむ。握ったメスが、患者のあらぬところに触れた。幸い大事には至らなかったが、もし、数センチ、メスが違うところを切っていたらマスコミ沙汰になる医療事故になるところだった。


 また、そこで傷心なところへきて、一部週刊誌が、高田の不倫を知り暴きに来た。いや、正確には、高田のというより、不倫相手への攻撃であった。その相手は40代の人気女優で、高田とは医者と患者の間柄だったが、いつしか二人は恋に落ち、深みにはまっていた。高田の妻の病気を知ってからは二人は関係を解消したが、週刊誌はずっとあざとく狙っていた。しかも、高田の妻ががんに侵されているというときに、不倫の逢瀬を重ねていたと、事実とは違うゴシップネタを書き散らす。高田の医者生命以上に、貞淑なイメージを売りにしていた彼女の女優生命が風前の灯とさせられてしまったことに、また罪悪感を抱いたのである。


 そうして、妻は亡くなった。彼と女優との不倫が発覚して騒動になっていたことも、きっと知らぬうちに。彼女はそのころはもうずっと意識が混濁していたのだから。

 彼女が死ぬ直前。高田は声を音にすることなく、心の中で、彼女に感謝と懺悔を叫んでいた。彼女は静かに息をひきとった。


 もう今は、一切のことを忘れ、無心になれる時が必要であると彼は考え、今回のツアーに参加した。普通の旅行じゃない。大自然の息吹を感じ、心をすべて洗い流そう、そんなことが出来そうなツアーはこれしかない。そう考えての参加だ。妻も、不倫相手もいない。仕事でもない。純粋な一人旅だ・・。

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