藤野林檎 その4




 その日の夜。


 帰路についていた私は駅前の路上でギターを弾きながら歌を唄っている彼女を見つけたわ。

 自分と同じぐらいの年齢のその女の子は、時に楽しそうに、時に切なそうに、感情の全てを音に乗せて奏でているかのようだったわ。


 私は、何気なく足を止めて聴き入ってしまった。

 聴き惚れてしまったわ。すごく素敵な演奏だったんだもの。

 気づけば全ての演目を終えて撤収作業に入っている彼女に、私は思わず話しかけていたわ。

 普段の私は見知らぬ他人にこんな気安く話しかけるような子じゃないのだけれど。こんなにも心を揺さぶる演奏をする彼女と、知り合いになりたかった。

 彼女を知りたいと思ってしまったの。


 拍手を送り、感想を述べたら、彼女は無邪気に喜んでいたわ。

 一見クールでドライな印象の女の子だったけれど、本当は純粋な子なのかしら?


 それでも、演奏する姿は凛として美しく、飾らない佇まいは細く力強かった。

 そんな素敵な姿に、アイドルとしての参考にしたいだとか、その技術を少しでも盗み取りたいだとか、そういう打算的な気持ちが生まれてきたわ。

 意地汚いわね、恥ずかしいわ。


 ねえ、質問してもいいかしら?

 あなたは、音楽をやっていて、どういう時に喜ばしいと感じる?



 彼女は私がその質問をすることを期待していたかのように目を輝かせて、熱っぽく語り出したわ。



「全部だ。喜びを感じない時なんてない」


「私は、「音楽」の全てが嬉しい。楽器を弾けば音が出る。声を出せば歌になる」


「そうすれば私は世界と繋がって、身体が内側から熱くなってきて、最高の気分になれるんだ」



 …………。


 ……言葉が出なかったわ。

 いつかと似た、それでいてその時をずっと上回る熱量に圧倒されてしまって。


 音が出るから楽しい、だなんて……なんて純粋で原始的な喜びなの。

 確かにそれは楽しいことだけれど、私はベースの弦を弾いただけで、そこまでの興奮を得られているかしら?


 それを想像したら、急に怖くなったわ。

 改めて強く意識しなければそれを喜べない私の感覚の鈍さに。

 反射的なまでの速さで喜びを感じてしまえる、彼女の極限まで研ぎ澄まされた感性に。



 ……じゃ、じゃあ、あなたは、音楽をやっていて、苦しいって感じる時は、いつ?


 気がついたら私は、そんなしなくてもいいような質問をすがるみたいに投げかけてしまっていた。

 舌は乾いていて、私らしくない、まとまらない言い方の言葉だったわ。


 彼女はその問いかけに、心底不思議そうな表情を浮かべてこんな言葉を返したの。



「苦しいって……なんだ?音楽をやっていて敢えて言うほどの苦しさなんてあるのか?」


「私は感じたことがないんだが、みんなはそうなのか?確かに、色々と苦労はあるけど、音が鳴るだけでこんなにも楽しいんだぞ?」


「その喜びに比べたら、そんなの全部くだらないことさ」



 ……。


 音が鳴るだけで嬉しいのだから、苦しさなんて感じている暇がない。


 それはそうなのでしょうね、と私は思ったわ。

 それぐらいしか浮かばなかった。




 たまたま道で知り合った新しい知人である、恐ろしい彼女の話はこれでおしまい。




 そんな感じで、


 色んな人が、色んな風にして、喜びだとか苦しみだとかを感じているわ。

 私だってそう。

 でも、色んな人の話を聞いていたら、なんだかどうでもよくなってきてしまったの。



 悩みはあるわ。辛いことだって。

 でも、楽しいと感じる時があるならそれでいいじゃない。


 だから私も余計なことは考えずに、自分の好きなように音楽をやろうと思ったの。

 私が話を聞いたみんなも、私と同じようにそれなりに楽しくやってくれたら素敵だと思うわ。




 それじゃあ、私のお話はこんなところにしておこうかしら。

 続きは、それぞれの人に聞いてみるのが良いと思うわ。




 あ、そうそう、最後に私の恋人について紹介するわ。

 彼の名前は――といってね、彼のとにかく素敵なところは――――




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