魔法士とウィザード

@kagemaru3

第1話 太平洋戦争の亡霊と囚人番号8番①

                  ※※※                  


                『不可は不可也』                


                  ※※※                  

 ――1945年7月20日――

 激しい雨が東儀忠虎の眼下に広がる大海を強かに叩いていた。

 東京より南西におおよそ百海里の海上はまるで嵐のようだった。視界はすこぶる悪い。だが雲が切れ、僅かに差し込む朝日が、忠虎の前にいた美しい少女を照らす。

 嵐渦巻く海上で忠虎と少女は宙に漂っていた。

「見なよ、トラ。雨が強くなってきた」少女はまるで世間話でもするように言った。

 初めて眼の前の少女と出会った日も雨だった。あの日も彼女は同じことを口にした。ただあの日と違うのは、言葉を交わす二人の間に笑みがないことだった。

 改めて少女へ視線を向ける。彼女の年は忠虎と同じく一六。身を包む真っ黒な軍服は米国海軍のものだ。腰には漆黒の鞘に収められた日本刀が差さっている。

 腰まで伸びた艷やかな黒髪に、透き通るほどに白い肌。鼻筋は通っていて、形の良い唇は鮮やかな桃色。静かな美しさは一見落ち着いた印象を与えるが、それが見た目だけだということを忠虎は知っていた。それを証明するように澄んだ蒼眼からは、固い矜持と、漲る才気が見て取れる。

 七篠ななしのシノ。

 それが少女の名だ。彼女は大日本帝国海軍に属する忠虎にとって、憎き敵である米国の魔法士であった。

 白い軍服と黒地の外套に身を包んだ忠虎は、桜に錨を掲げた軍帽をかぶり直す。その下にある顔はまだ幼い。だが、腰に佩いた白鞘の大太刀と、氷のように冷たい双眸、血と汗が滲んだ軍服に身を包む姿からはどこか悲壮感が漂っていた。

「キミ《日本》の敗けだ。もう諦めるんだトラ。利口なキミなら分かるだろう?」

「分からんな。何も。負けんよ、この国も。私も。貴様米国にだけは絶対な」

 ど田舎の糞餓鬼だった自分たちが、今こうして一国の行く末について言葉をぶつけ合っている。願わくば同じ方向を見ていたかったと、忠虎は叶わぬ夢を想う。

「なぜ戦う? まさか人も物も心も失ったこの国のためなんて言わないよね?」

「そうだ。偉大なる大日本帝国のため私は戦う」

 嘘だ。

 そんなもの戦う理由の一厘にも満たない。忠虎は深く息を吸い込み、魔力を熾す。

「地獄を生き抜いたキミに奴らが一つでも報いてくれたかい? 〈万能の英雄〉とまで呼ばれたキミには価値がある。沈みゆく泥舟には勿体ない程にね」

「世界最強の〈終焉の魔女〉が何を言う。価値がある? 部隊の中で最弱だった私に? 冗談を言うな。共に任務をこなしていた頃を忘れたか?」

「忘れたね。愚かだった頃のことなんて」

「では今の自分も覚えていないのか?」

「……昔から肝心なことは何も言えないくせに、軽口だけはよく出てくる」

 的を射た言葉に忠虎は笑い、白鞘から大太刀――古代級霊装〈国崩し〉――を抜く。

「さて死合おうか。早く帰らねばらならないのでな」

 ふとシノの見る者全ての心を奪うであろう美しい顔に、苛立ちが浮かんだ。

「……夜夜ややか」

 シノが一人の少女の名を口にする。それは忠虎が戦う理由の何割を満たすのだろうか。自分でも分からなかった。代わりに胸に収められた白いお守りに手を触れる。

 この戦いのために不要なものは全て置いてきた。それでも残ったお守りは出撃前に同僚の神代夜夜から貰ったものだ。それに触れてようやく気づいた。

「……そうか。やはり私は」

 その時忠虎の顔に浮かんだ笑顔は、戦場には似つかわしくない優しいものだった。

「……キミは非情な人間だね」

「どういう意味だ?」

 忠虎は首を傾げる。だがシノは答えることなく、話題を変えた。

「トラ。アメリカにキミの席を用意してある。ボクと一緒に来るんだ」

「どういう意味だ?」

 今度は意味が分かった。その上で同じ言葉を続けた。同時に忠虎の持つ国崩しが淡く炎を帯びる。その二つがシノに対する返答だった。

 自分には戦う理由があった。それはシノが言うようなものではない。国も愛も勿論大事だが、それ以上に大きなものがあった。

 ため息を吐きながらシノが言った。

「死を選ぶ、か」

 忠虎に言葉はなかった。当然兵士たる以上いつでも死ぬ覚悟はできていた。しかも目の前にいるシノは世界最強の魔法士でもあった。凡百の魔法士である自分が刺し違えることができれば大戦果。命を落としたところで戦没者名簿に一つ名が増えるだけだ。

 忠虎は死ぬために戦っている。それが刃を振るう理由であり、問いに対する答えだ。

「幼い頃からキミは何も変わらない。下手くそな魔法も、愛への無頓着さも、生への執着も。何もかも」

「そのようなことはない」

 軽くて薄っぺらい言葉だった。いや言葉とも言えない。何の価値もないただの音の塊だ。

 ふとそこに小さな鈴の音が聞こえた。

 耳を澄ます。それは胸に仕舞っていたお守りからだった。どうやらただのお守りではなく、通信機能も付随した霊装だったらしい。

「出ないのかい?」誰からの通信か、分かっていながらシノが言った。

「止めておこう」

「それは無理だね。夜夜は人とは違う。軽口しか言えない臆病者でもない。大事なことを何も言えない天邪鬼でもない」

『……輩。…………先輩! 忠虎先輩!!』

 胸から取り出さなくともはっきりと声が聞こえた。忠虎は静かに耳を傾けた。

「残酷なくらいの正直者だ」


『死ぬおつもりですか?』


 シノと夜夜の声はほぼ同時だった。そしてお守りからの通信もそれっきり途絶えた。もしかすると聞こえなかった部分で、それ以外の言葉があったのかもしれない。だが聞こえたのは奇しくもシノが先ほど口にしたものと同じ言葉だった。

 忠虎は一度、深く目をつむった。

 目を開く。世界は何も変わらない。雨は変わらず強く降り注いでいた。

 もはや退く道はない。進むしかなかった。

 忠虎は足場もない空の上で、確かに地を蹴り、強く疾く前へ踏み出す。それはまるで後ろへ引きずる想いから逃げるようだった。

 二人の距離はまたたく間に縮まる。

 刃と刃が触れる瞬間。間近に迫ったシノの顔には笑みがあった。

「それじゃあボクには勝てないよ」

 言うな。そんなこと自分が一番よく知っている。


 強烈な浮遊感が忠虎の身体を包んでいた。今自分は海に向かって落ちている。それは死と同義であるはずなのに、なぜか呑気に考えている自分がいた。

 死闘の勝利者であるシノが上空でこちらを見下している。

「……今までで、一番善戦したじゃないか」シノが自らの腹部に突き刺さっていた国崩しを抜くと、血が吹き出る。「次、こそは……勝てるさ。その機会は……なさそうだけど」

 忠虎は五月蝿い、と口にしようとしてそれすらもできないことに気づく。

 ぼやけた視界の先でシノは黒い靄を残し、虚空へ消えた。瞬間的に別の地点へ移動する魔法〈空間転移〉だった。死体に用はないらしい。

 置き土産はたった一つの言葉だけ。

「……キミの望みは遂に叶う。ねえ……今どんな気分だい?」

 もっと苦しいと思っていた。もっと幸せだと思っていた。けれど何のことはない。寝床の上で微睡む感覚と変わらない。

 思考に徐々に靄がかかりはじめる。たった今何を考えていたかさえも忘れていく。

 それでも一つだけ、はっきりと浮かぶ顔があった。忠虎の最も大切な人。

 夜夜だ。

 走馬灯に映る彼女は意志の強い瞳で何か言っている。やがて少女の声が徐々に遠くなる。

 海はすぐそこだった。

 ずっと追い求めてきた死はその少し先にある。

 ふと忠虎は、僅かに朝日が差し込み始めた空に向かって、無意識に手を伸ばしていた。それはまるで死に抗うかのような行動だった。

 その理由に気づく。戦闘の最中落としたのか、白いお守りも空を舞っていた。それを掴もうとしていたのだ。

 それは夜夜が救いの手を差し伸べているようにも思えた。生きろとそう言っている。

「…………す、まん」

 けれど、止める。もう全ては終わった。

 上等な人生だった。暴れることでしか自分を表現できなかった糞餓鬼が、魔法に触れ、騙し騙しで生き延び、いつしか大層にも〈万能の英雄〉などと呼ばれるようになった。

 そして今お国を背負った戦いの中命を落とすのだ。

 消え行く意識の中、お守りがそれを否定するように、光を帯びたような気がした――

                   ※※※                  

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     死 亡 告 知 書

 帝国海軍第二〇五特殊遊撃小隊大尉 東儀忠虎殿

 右昭和二十年七月二十日 東京南海域方面ノ戦闘二於イテ戦死セラレマシタノデ、通知致シマスト共二謹ンデ敬弔ノ誠ヲ捧ゲマス。

                    昭和二十年七月二一日


                       魔法省参謀部課長 胡桃坂 八郎


 神代 夜夜殿

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 忠虎の遺体はついぞ発見されることはなかった。

 東儀忠虎中佐・・は死亡と断定され、翌日に神代夜夜の元には彼の死亡告知書が届いた。

 同胞の死を前にしても夜夜は、気丈にも表情を一切変えることはなかった。名門神代家の強き当主であることを、劣勢に陥った日本の最後の希望であることを周囲が求め、夜夜自身もそれが自らの役割だと知っていたからだ。

 だからその時、夜夜が目尻に溜まった涙をこっそりと拭ったことを誰も知らない。

 それに気づける人はもうこの世にはいない。

                   ※※※                  

 太古の昔から人は異能の力が存在することを知っていた。

 時として世界には神の怒りとしか思えないような天災が引き起こされた。

 森羅万象に宿る力――魔力が、安定を欠いたゆえに起こった現象だった。幾度となく悲劇に見舞われた人類は決心する。この手で神の御業を起こせればと。

 夢は叶い、人類は超常の力を手に入れることとなった。

 それをいつしか人は魔法と呼ぶようになった。時を経て、次第に解明の進んだ魔法は一つの科学として体系化された。

 同時に魔法使いは、魔法士と名を変えた。一八世紀初頭のことだった。

 けれども人類は超常の力を、決して幸福のためだけに使うことはなかった。

 軍事利用された魔法は、世界各国の文化や宗教、思想に科学を組み込まれつつ実践的に洗練されていき、

 第二次世界大戦という悲劇の引き金を引く。

 世界の全てが結集された大戦は、当時の世界人口の2・5パーセントの戦死者を出し、ようやく集結を迎えた。

 人類はこの惨劇を忘れぬよう、軍用魔法の定義を定め、これの使用を制限、禁止する――〈ローザンヌ条約〉を締結した。

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