第1章 出逢い
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# # #
「さようなら」
帰りの号令を掛けられた途端、一斉にクラスの人が教室を出て行った。
先生もそのまま、職員会議があるから、とクラスの人のあとを追うようにして、教室を出た。とすると、教室には必然的に私だけになる。
窓の外を見ると、今にも雨が降りそうな曇り空。
そんな中クラスの人を含む、多くの児童が靴箱に押し寄せているのが見える。
それを眺め、思わず声が出た。
「——死ぬ。マジで死ぬから。何で学校は人が多いの。少なくっても良いじゃん。だから学校は嫌いなんだよ」
人がいたら言えない事を、私は人がいなくなった教室で暴露する。普段、私は猫を被っているというか、大人しくて優しい人を演じているのだ。そんな私が「学校嫌い」と言ったのを聞かれると、今まで造った信頼が崩れてしまうと考えている。それだけは避けたい。
家では言いにくいし、学校は多くの人がいる。だとしたら、人がいなくなった教室で愚痴る方がスッキリするだろう。誰も、聞いていないから。
「……これ聞かれたら終わりだわ」
靴箱から人が少なくなったのを見て、一言呟いた。そして自分の荷物を手に取り、ドアに近づいた。
六年になってもう二ヶ月だが、今の所、誰も気付いてないと思う。うん、良かった。
「——そうだね。ボクしか聞いてないから、セーフだね。先生やクラスの人間にはバレたくないもんね」
「そうそう。先生やクラスの人にはバレたくな、い……、は?」
当然のように頷いたが、今教室には誰もいないはずだ。いなかったはずだ。それなのに何故。私以外の声が聞こえるのだろうか。それも、窓の方から。
「ボクさ、一回キミと話したいと思ってたんだよね。だからそれが叶って嬉しいよ。あれ、聞いてる? おーい」
向きたくない向きたくない。
心の中がそう訴えているのに、首はその声の主の方向へと、動いていく。
「あ、良かった。聞こえてたんだね。なら早くこっち向いてくれれば良かったのに」
そう言ったのは、柔らかそうな銀髪に強い意志が宿ったような黒い瞳の男。黒色のスーツを着ている。
……うん。私は何も見てない。
「あれ、どこ行くの? あっ、もう帰るの? ついて行っていい? いいよね」
何も見なかった事にして教室を出て行こうとしたが、それは失敗に終わった。
家について来るなんて冗談じゃない。絶対、ついて来ないようにしなくては。
「あの、貴方は誰ですか? この学校の人じゃないようですが……」
つか、人間じゃないよね。開けられた窓の外に居るんだよ? ここ、三階。窓の近くに立てるような場所ないし、……宙を浮いてるって事になる。
「あぁうん。この学校の人じゃないよ。ボク、見ての通り小学生でも、人間でもないからね。こことは別の学校なら通ってるよ? 今年最後のね。ボクもうすぐで高等学校三年を卒業するんだ。キミも小学校六年を卒業するでしょ? 同じだね」
何でそんな個人情報を知ってるの。やはり人間じゃないのだろうか。
ただ、人じゃないならこの男は何者なのだろう。
「名前を
「名前? ボクにそんなの無いよ。でも、キミの名前は知ってるよ。
私の名前を知っているのに驚きを感じたが、それよりもこの男が名前がないと言った事に対し、更に驚いた。
すると男は何を勘違いしたのか、
「あ、やっぱり驚いた? そうだよね。知らない奴に名前当てられたら、怖いもんね。驚くもんね」
と嬉しそうに笑った。
何で嬉しそうに笑ってんのこのヒト。怖がられるのが好きとか? それは、「変態さんですか」
「違うけど!」
おっと、口が滑った。
「キミがそんな人間だって知ってたけど、流石に傷つくよ……」
シュン……と肩を落としわざとらしく悲しそうに言う男。
あれ、私がそういう人間だと知っていた? 何か引っ掛かるような言い方をするな。
思わず眉をひそめた。
「それで貴方は何者ですか?」
名前が分からないなら、せめて何者なのか知りたい。不審者なら直ぐに逃げよう。
「ああ。ボクは、ん〜、そうだなあ」
男は少し考える素振りを見せ、口を開いた。
この世界で言う、"死神"だよ。
殺すと言われている訳でもないのに、脅されているような感覚に近くて、途端に体が金縛りのように動かなくなる。恐怖心から来る影響なのか、ピクリとも機能してくれない。
「キミ反応薄くない? もうちょっと驚くかと思ったのに。ボクが宙を浮いてるって事にも、そんなに驚いてなかったようだし。なんで?」
しかし男が余りにも軽い口調だったため、拍子抜けして体の緊張が
「……なんででしょうね。私もよく分かりません」
ほっと安堵の息を漏らした。
ここまで誰かに恐ろしいと感じたのは初めてだ。だからそれが男が本当に死神だと物語っている気さえする。
だが男の言う通り、私は何故こうして落ち着いているのだろう。普段なら多分、もっと驚くはず……いや、今それを考えても分かりそうにないな。
「それで、死神さんが私に何の用ですか。余命宣告でもやりに来ましたか」
「半分正解で、半分不正解だよ」
「じゃあ私、近い内に死ぬんですね。……なんて納得するとでも?」
「思ってないよ。人間は『死』を恐れる生物だからね。……で、キミは来年の春に死ぬ。これが正解の部分で、不正解の部分は、それまでにやりたいと思う事を幾つか、ボクが叶える事になってるという事。そこまで考えてなかったかな? まぁそれはいいとして、この意味、分かるかい?」
私がやりたいと思う事を、死神さんが叶えてくれる……。
「それは死神さんと契約する、と言う事ですか。ならばその話、受け入れます」
「物分りが良いのはキミの良いところだよね。じゃ、今から契約サインしてもらうから。右手出して」
言われた通り右手を出す。
するとどこから取り出したのか死神さんが、ビーズが埋め込まれている金属で作られたような腕輪を私の右手首にスッとはめた。
はめてみて思ったより軽いことに驚いていると、死神さんが「重くない?」と心配気に尋ねてきて思わず笑ってしまった。
「大丈夫です。むしろ軽くてびっくりしました」
「そう? 良かった」
本心だろうその言葉に、私が知る死神のイメージが砕け散った。
「今からボクが言う事に同意し、『デス・チャレンジャー』と気持ちを込めて言ってね」
分かりました、と気持ちを込め頷く。
死神さんはゆっくりと口を開いた。
「一つ、その腕輪はボクにしか外せない。二つ、全部で四つ、願いを叶える事が出来る。でも寿命を
えっと。一つ目はこの腕輪は死神さんにしか外せないで、二つ目が全部で……四つだっけ? え、待って混乱してきた。
「一つ、その腕輪はボクにしか外せない。二つ、全部で四つ、願いを叶える事が出来る。三つ、心の底からボクを求めれば、ボクは何時でもキミの元へ飛んで来る。ただし、命に関わる願いは禁止されていて、ボクを求めればそれも願いの一つに入る」
私の様子を見て死神さんがもう一度契約内容を口にする。
「ちょっと待って下さい、メモ帳に書きます」
一度背負ったランドセルを近くの机に下ろして筆箱とメモ帳を出す。
一 腕輪は死神さんにしか外せない。
ニ 四つ願いを叶えてもらえる。
三 死神さんを呼べば飛んで来てくれる。
注意
命に関わる願いは禁止。三つ目も願いの一つに入る。
書き終わったものを読み上げると、死神さんに「正解」と言ってもらえた。
「じゃあこの決まりに同意する? 同意しないなら腕輪を外してボクに返して。同意するなら『デス・チャレンジャー』と"気持ちを込めて"言ってね」
気持ちを込めて。
その言葉を妙に強調する死神さん。何か企んでるような気がしてならない。
「デ、『デス・チャレンジャー』」
恥ずかしさを隠して放った言葉。それを聞いた死神さんの顔が段々、笑みを浮かべていった。
「ホ、ホントに言うとは思わなかったよ。……ぷっ。そんな恥ずかしい言葉、言わなくても契約したのに。ぷくくっ」
必死に笑いを堪えようとする死神さんに、もの凄い殺意が芽生えた。
冗談だったのかよ。騙された。言うんじゃなかった……!
羞恥心と騙された事の怒りで顔が熱くなるのが分かる。
「ま、キミが同意するってコトは分かったし、……これから、よろしくね。沙夜」
笑いが収まって私に近寄った死神さんが微笑んだ。
「え、あ、はい。よろしくお願いします、死神さん」
怒るタイミングを逃してしまった。そう思う反面、死神さんになら素を出しても良いかもしれないと小さな希望を抱いた。
来年の春。私は死ぬらしいし、残りの時間を有意義に使って悔いのない人生にしよう。
その思いを込め、死神さんから貰った腕輪に左手を乗せた。
* * *
なんでこんな思いしなきゃいけないんだ。
家からは少し遠い公園のブランコに座りながら、家であった事を思い出す。
母さんや父さんに言われた通り、一人称を『俺』に変え、喋り方も変えた。——なのになんで、俺を否定する。
兄さんが居なくなって、その変わりにと俺が兄さんのようになれだ、女の子らしさを捨てろだ、うるさいんだよ。挙句、ちゃんと兄さんのようになれないと知ったら、女の子らしくしろ、一人称を私に変えろだぁ? 意味わかんねぇよ
「自分勝手すぎんだろうが……!」
そもそも兄さんとは性別が違うんだ。兄さんは男で、俺は女。いくら双子でも俺は兄さんじゃないから代わりになれる筈もない。
もっとも、この事を言えばまた怒鳴られ、ヒステリックに叫ばれる。父さんや母さんは兄さんを溺愛してたからな。
一度髪を切り、その時から放ったままだから肩までは伸びた。……家に帰れば、なんでそんなに髪が短いんだ、と言われた。
お前らが切れっつったから切ったんだろうが。全部俺が悪いように言いやがって。
「っざけんな、クソが……!」
地面に転がる石を一つ蹴った。
この公園は普段から使われていないため、こうして俺は溜め込んだものを吐き出しに足を運んでいる。住宅街の中にあると言っても必ずしも人がいるわけではないのだ。
だから家での生活から少しでも逃れようとするには、最適な場所だと言える。
「どうしてそんなに荒れてるんです? 何か、恨みごとでも?」
「?!」
声が聞こえた。後ろから。男の声だ。……聞かれたのか。さっきの、俺の言葉を。断片的な言葉だったと思うし大丈夫だろうけど、一応。
俺は振り向かずにただ一言を口にする。
「聞きましたか」
「ええ、まあ。聞こえてしまいましたね。それはもうばっちりと」
やっぱり聞かれたか。普段が普段なため、周りを見るという初歩的なことが
「誰?」
「私ですか?」
「…………」
それ以外に誰がいると言うのだろう。
「私はですね、『悪魔』です」
平然と言ってのける男の声に、俺は暫く呆然とした。
何を言っているのだろう。変な人に捕まってしまったのかもしれない。だったら逃げるべきか。
「まあ待って下さい、逃げようとしないで」
ばれてる。
ブランコの鎖を掴む手が強くなった。
「私と契約しませんか? 恨み、晴らすことが出来ますよ」
何かの勧誘に聞こえるのは何故か。
「そういうの結構なんで」
いざとなったらブランコを揺らして……いやそれだと直ぐ避けられるか。
逃亡の計画を考えていると、男が俺の前に回り込んだ。急なことで体が固まる。
男は
そして、一際目を引くのは髪の長さ。腰よりもやや下まである、黒く艶やかな髪が風に
「……コスプレ?」
「違います。信じられませんか? 私が悪魔ということ」
「まあ。証拠もねえしな」
「証拠があれば契約してくださるのですか?」
そんなの内容によるよな。
俺は悪魔と名乗る男に尋ねる。
「契約って内容は何だよ。それによるぞ」
「六つの願いを叶えると引き換えに、
随分と物騒な契約だな。そういう設定ならちょっと考えたい。
「とりあえず証拠を見せてくれ。契約するかどうかはそれからだ」
「分かりました」
そう言った男の体がふわりと浮いた。一、ニセンチとかそんなレベルじゃなく、俺の身長よりも高い位置に。そこから男は地面に向かって手をかざし、何かを呟いた。
瞬間、その手から放たれた光線によって地面に穴が開く。
「うわ……」
宙から降り立った男はもう一度手をかざし、今度は何も口にせずその穴を綺麗さっぱり直した。
「信じてもらえましたか」
俺に向き直ってにこりと口元に笑みを浮かべる。
「あーうん。信じる。でも契約
遠慮させてもらえねえか。そう言うより先に、頭に両親の顔が浮かんだ。
男は恨みを晴らすことが出来ると言った。ならば計画を立てて、親の言いなりになるしかない日々を終わりにしようか。そうしたら自分の好きなことも制限されずに自由に生きて死を迎えられる。
「分かった。内容はさっき言ってたやつで間違いねえんだよな」
男がええ、と頷いた。
「いいぞ、契約する」
「決まりですね。あぁ、そうでした。私にはまだ名前が無いんですよ。呼び方は貴女の自由で大丈夫ですので、今ここで決めてくれませんか? 悪魔との契約は、人間が悪魔に名前をつけるという、簡単な事で成立するものですから」
悪魔には名前が無いのか。それともこの男だけが名前が無いのか。まあどちらでもいい。これで解放されるかもしれないんだ。いや。絶対に終わらせてやる。
それより名前か。どんなのがいいだろう。少し考えて、ある文字が頭を過ぎった。
「ルカ。あんたの名前はルカだ」
気付けば勝手に口が動いていた。
「ルカ……良い名前ですね。気に入りました。では、これから私を『ルカ』とお呼び下さい」
言いながら、ポケットでもあるのか外套の裏から赤みを帯びた宝石が付いている指輪を取り出す。
「ではこれを。契約の証として、左手の親指にはめて下さい」
指輪を受け取ると指定された指にはめた。サイズはぴったり合う。
「これで貴女と私は契約している事になりました。一年間、よろしくお願い致します。ところで名前は?」
「
それにしても、だ。なんで俺は母さんや父さんに溺愛されている、もう居ない兄さんの名前をこの男につけたのだろうか。
これだと自分で自分の首を絞めているようなものじゃないか。……でもこの男が気に入ったのなら、別にいいかもしれない。
この男と兄さんは、別人なんだから。
2
# # #
学校の帰り、強い雨が降ってきた。幸い傘を持っていたので上は濡れなかったが、靴下や靴はグッショリと濡れてしまった。
私が通う
住宅街では雨のおかげでか、誰一人見かけなかった。まあ、元から人気の少ない道だしね。当然だと言えば当然か。
家に向かって足を進めていると、ふと死神さんにある疑問が湧いて問いかけた。
「死神さんは普通の人にも見えるんですか? それに、こんな土砂降りの雨が降っても、何故濡れないんですか?」
死神さんは私の隣に並んで歩いている。だが死神さんは傘を持っていなく、それでも濡れていないのだ。
「うーん。普通に人間にはボクは見えないと思うよ。霊感が強い人間とか"何か"と契約した人間なら見えるかもしれないけど、実際はどうなんだろうねぇ? なんせ、ボクが人間と関わる事が出来るようになったのは、ついこの間だしね」
ついこの間って……死神さんは人と関わる事を禁止にでもされてたの? と聞きたい。聞かないけど。
「何故濡れてないのかっていうのはよく分かんないや。今までそれが当然だったからさ。今更"何故か"って聞かれても答えられないかな。ゴメンね」
「そういうものなんですか。なら、今後は深く考えないようにします」
「うん。そうしてくれるとボクも嬉しいよ」
本当にそう思ってるんだ、と思える表情や声音。
それが作り物なら、死神さんは相当な"嘘つき"だな。死神さんの事は信じるようにしてるけど、何か隠してる気がする。……変に詮索するな、って事にしとこ。
そしてこの流れだと死神さんは私の家に来る。
さて、どうしようか。このまま立ち止まっても、雨が強くて濡れるだけだろう。つまり風邪を引くかもしれない。だからと言ってこのまま進めば家に着く。つまり死神さんが家の中に入る。多分。
どっちも最悪じゃないか。他人を家に入れるのは正直嫌だ。でも雨で濡れて風邪を引くのも嫌だ。二つに一つ、って訳か……。
迷うなあ。
「あ、言っとくけどボク、キミの部屋で過ごす事にしたから。安心して、二十四時間ずっと居るってわけじゃないし、多分居ないことの方が多くなるから」
「え」
先手を打たれた。だが反論はしたい。
「ちょっと待って下さい! 死神さんって男ですよね? だったら私もそう易々と家に、というか部屋に入れるわけには行かないです」
「……確かにそうだね。じゃあ基本的にキミが居る時以外は外に出とくよ」
何故そうなる!?
くっそ。死神さんを家に入れるしかないのか。
「……ま、まあ、別にそれでいいですけど。私の部屋にいない時は、話しかけないで下さいね? 周りからは独り言になるんですから、変な子って思われます」
負け惜しみのようになってしまったが、死神さんは気付いていない。
「了〜解」
あまりにのんびりとした口調に少しイラッときたのは、ここだけの秘密。
自分の家を前に私は待ちわびたような気持ちになった。
学校から家までの距離が妙に長く感じたのは、私の気のせいだろうか。
「ここがキミの家か〜。二階建てなんだね」
「はい。でも見た目ほど大きくないですよ?」
「え、そうなの? 中も大きいと思ったんだけど」
「はい。というか基本、私一人なので。両親は仕事で忙しいですから。広過ぎても困るだけです」
主に掃除とかが大変だ。私だけだと出来ないところだってある。
両親が居ない間は自分で出来る事はしないと迷惑をかける。そう思って行動したのが初めで、それ以来私は自分の事は自分で解決しようと決めたのだ。
「今日も一人?」
死神さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「いえ、今日は二人とも仕事が休みなんだそうです」
親と会えるのが嬉しくて、でもこんなこと言うのは少し照れくさくて。思わず視線を落とした。恐らく今の私は死神さんに嬉しいという気持ちがだだ漏れだろう。
「へ〜。良かったね」
淡々とした口調のわりに表情は優しくて、笑われなくて良かったとほっとする。
「一人って寂しくないの?」
唐突に訊かれる。
「寂しいか、ですか」
誰も居ない家に一人で一日の約九割を過ごして、それが寂しくないと言えば嘘になる。だがもう慣れてしまったから、最近は寂しいより暇だと思う事が多い気がするな。
「どうでしょう、私にもよく分からないです。寂しいって思ってた時期もありましたけど、今はそういう感じじゃなくて……」
諦めたからだろうか。もう充分愛情をもらってるのにまだ足りないと泣き喚くくらいなら、現状で満足するしかないと、そう考えてしまったから。
「ゴメン、ボクが変なこと聞いたから。雨、強くなってきたようだし気にしなくていいよ。早く家の中入った方が良い」
言われて気づいた。確かにさっきよりも雨は強くなってきている。
「ホントだ! 風邪引いちゃう」
焦って思わず敬語がとれたのは、言うまでもない。
私は玄関扉を開け、「ただいま」と声を出した。
* * *
「最悪だ。俺傘持ってねえし。どっか雨宿り出来るとこ探さないと……」
天気予報を確認するべきだったと後悔しながら、雨宿り出来そうな場所を探す。
段々と強くなっていく雨に気を取られ、近くにいるやつのことを放ったまま。
「波瑠さん! あそこの遊具の下に雨宿りしましょう! このままでは、波瑠さんが風邪を引いてしまいます!」
何故か俺よりも焦っているルカを見て、俺は落ち着きを取り戻した。自分じゃないやつが焦ってると自分は逆に落ち着くんだな、とつまらんことを考える。
そしてルカが指したのはどの公園にもある、
滑り台の下に二人入れたとしても、雨には当然あたって濡れる。絶対に。これは断言できる。
「あの遊具って、滑り台のことか?」
「はい! 多分それです! あそこならなんとか濡れずに……」
「濡れるよ。すごい濡れる。あんな狭いとこに、しかも壁がないとこに入っても濡れるよ」
「で、では、どうすれば……」
完全に取り乱している。俺でも気付けることに気付かないとは、相当混乱しているようだ。さっきの澄ましたような口調を思い出すと、すごい変わりようだと笑ってしまった。
とまあ、半ば現実逃避に近いことを考えている俺は、もう既にビチョビチョに濡れている。
どうしよう。流石に俺もまた焦ってきた。
この公園にある物で何か雨宿り出来そうな場所を思い出そうと、思考を巡らせる。
滑り台は当然、却下。ブランコ、シーソー、ジャングルジム、……この公園にある遊具は全部無理だな。雨をしのぐことが出来ない。
「早くしないと!」
「分かってる!」
あとはなんだ? この公園にある物……トイレか? いや駄目だ。あそこは物凄く虫がいる。虫がいるとこに行くくらいなら、風邪引いたほうが断然マシだ。
「……あ」
思い出した。
「ど、どうしました?」
あるじゃないか、雨宿り出来る場所が一つ。
できるだけ水分がなくなるように、自分の服の端を絞った。ちょっとシワになるけど……、まぁなんとかなるだろ。
「ビチョビチョになっちゃったなぁ。早くここを思い出したら良かったんだけど」
「私も結構濡れてしまいました。って、波瑠さん。それでは服が透けて見えてしまいます。これ濡れていますが……」
とルカは着ていた、というか羽織っていた外套を脱ぎ、俺に渡してきた。
え、これ着るの? という言葉が浮かんだが、『透けて見えてしまう』と言われたら着るしかない。
「それにしても、まさかこんな所に休憩所があるなんて思いませんでした。これも波瑠さんのお陰ですね」
ここは公園の木が沢山ある中に、ひっそりと建っている休憩所だ。もちろん、こんな公園誰も使いやしないから、覚えてる人はいないだろうけど。
俺だって今日思い出したようなもんだ。
「着たぞ。この外套、大きいな。体全体隠れるなんてさ」
手を広げても、自分の手は袖から出てこない。地面に外套の裾がつき、引きずることになってしまう。
「それでは転けてしまいますよ。直しますから、少し近づいて下さい」
言われた通り近づき、されるがままになった。
悪魔の力で雨を止ませる事は出来ないのか。しないだけだとしたら願いとして頼もうか。どうせ六つも叶えてくれるんだし。
ぼーと考えているとルカから出来ましたと声がかかった。
「ほら、これで引きずる事はなくなるでしょう。袖は捲ればいいだけですし。ところでぼーっとしていましたが何か気になることでもありましたか?」
外套は袖以外は丈が小さくなっていた。
どうやって地面につかないようにしたのか不思議に思ったが、別にそこまで気になるわけでもなかったから聞かなかった。
「ああ、ありがとう。別になんでもねえから、気にしないでくれ」
「? そうですか」
よく分からないというような表情を浮かべるルカに、本当に悪魔なのかと疑ってしまう。
雨はまだ止みそうにない。
地面を叩きつける雫が水溜りを作り、その領地を広げていく。
休憩所にいても、雨のせいで冷んやりとした空気は変わらない。おまけに今は濡れてる状態で、一層寒かった。
ルカは悪魔だから分からないが、俺は多分、風邪引くだろうな。
公園に響き渡る雨音が強くなるのを耳で拾って、俺はそう思わずにはいられなかった。
3
# # #
「お帰り、沙夜」
玄関で靴を脱いでいる時に、足音と共に聞こえたお母さんの声。
「あら、結構足が濡れたのねぇ。着替え用意するから、早くお風呂で体を温めなさい」
「うん、分かった」
確かにお母さんの言う通り、足から冷えてきている。風邪は引きたくないな。
「ボクはどうすればいいかな? ここで待っとこうか?」
死神さんの声はお母さんに聞こえていないよう。死神さんの言った通り、普通の人には見えないんだ、と改めて思った。
お母さんには聞こえないように、小声で死神さんに「あとで来るのでここら辺で待っていて下さい」と伝えると、死神さんの返事はやはり「待っとくよ~」という軽い言葉だった。
私は自分の持っている荷物をお母さんに預け、洗面所に向かう。そこで服を脱ぎ、洗濯カゴに放り込んだ。お風呂場に入って蛇口を捻ると、冷えた体にお湯が降り注ぐ。まるで温かい雨が降っているようだ。
「…………」
目を瞑れば死神さんの顔が浮かぶ。私は死神さんを信用して良いのかと不安に思った。
そもそも死神とは何なのだろう。イメージとは大分かけ離れた容姿に性格で、私も状況に戸惑うしかないのだ。だが冷静さはまだ失っていない。それだけは良かったと言うべきか。
願いを叶える事ができると言われて易々と契約を受け入れたが、それはつまり自分が死ぬ未来を見据えて生きていかなくてはならないということだ。
実感が湧かない今は何とも思わない。しかし春になると、もう直ぐ死ぬのだと自覚するのは時間の問題で。死神さんの言う通り『死』に恐怖を抱きそうで、思わず身震いする。
「……そう言えば、何で私の名前を知ってたんだろう」
あの時、死神さんに名前がないという方に興味を惹かれていたが、普通に考えればおかしい。今日で初対面のはずなのに、知っているわけがないんだ。
死亡リストのような物があるのだろうか? だとしたら納得だが。
それにまさか死神に『高等学校』たるものがあったとは。
死神さんの言葉を思い返して感心する。
そういう施設的なものが死神のいる世界にも存在するなんて衝撃だった。高等学校があるなら中学校、小学校もあるはず。なら警察組織などもある……?
未知なものについて思考を巡らせるのは嫌いじゃない。
蛇口をさっきとは逆向きに捻る。キュッと擦れたような音が浴室に響いた。
洗面所には既に、私の服が置いてあった。
お母さんが来たのに全く気づかなかったが、それほどまでに考え込んでいただろうかと首を傾げる。
洗面所を出るとリビングに入る。左手には階段がある廊下が、右手にはバラエティ番組がつけられたテレビがソファの前に位置している。そのソファには眠ってしまったお父さんがいびきをかいていた。キッチンカウンターの向こうでは夕食を作っているお母さんが規則的な音を鳴らし玉ねぎを手頃な包丁で切っている。
お父さんは仕事で疲れて寝ちゃったんだろうな……。
お母さんが私に背を向けている内に、気付かれないよう注意を払って死神さんが待っているであろう玄関に向かった。
「あ、早かったね。もう少し遅く来るかと思ったよ。って、あれ。髪、乾かしてないの?」
死神さんは目を瞑り、腕を組んだ姿勢で壁にもたれていた。私が来たのに気付くと閉じていた目を開け、笑って話しかけてくれる。
「はい。死神さんを待たせてるのに時間をかけるのは、少し駄目かな、と思ったので。髪を乾かすのは別にあとでも出来ますし……。乾かして来た方が良かったですか?」
両親には聞こえないように小声で言った。
「いや、別にボクはどっちでもいいんだけどさ、風邪引いたりとかの心配はしないのかなって。濡れたままだとまた体冷えるんじゃない? 気をつけてね」
……少しくらいならいいと思ったが、確かに早めに乾かしておいた方が風邪を引く確率は少なくなる。
うわ、それなら髪乾かして来た方が良かったかも。……いや、これは仕方ないか。死神さんを待たせるのもなんか失礼だし。
「あとで乾かして来ます。その前に死神さんには私の部屋に入ってもらいたいんですが」
いつまでも玄関にいるのは嫌ですよね? という嫌味を含めた事に死神さんは気付くだろうか。
「了~解」
気付いてなさそうだなー。まあどうでもいいや。
死神さんを後ろに階段を上がり、自室の扉を開ける。
机の上にはランドセルや手さげが置いてある。荷物を預けた時、お母さんが運んでくれたんだろう。
「ここが私の部屋です。そんなに広くないですが、くつろぐ程度なら問題ないでしょう」
「そっか。なら良かったよ。……まあ、夜はキミが居てもボクは外に出とくから、いつも通りにしといて大丈夫だよ」
「え、雨はまだしも寒いんじゃないんですか? 風邪引いたりとかは……?」
「ボクは死神だから、寒くても暑くても、風邪引かないの。もう人間じゃないからさ」
へえ。死神って風邪引かないんだ。
人は風邪引かないように努力しても、少しの油断で引いてしまう。それに対して死神は寒くても暑くても風邪引いたりはしないなんて、
「羨ましい……」
無意識に心の声が口からこぼれた。
「羨ましいと思うの?」
意外そうに言う死神さん。
「思いますよ。風邪引かないってことは、健康ってことですし」
健康ってことは、お母さんやお父さんに、風邪引いて迷惑掛けなくて済むということだし。
「……ちょっと、髪を乾かして来ます」
話を切り上げてさっさとドアノブに手をかける。その際死神さんには部屋にいるように言いつけた。もしものためだ。
階段を下りてもう一度洗面所に足を運ぶ。
「沙夜、六時になったら夕食だから。宿題、終わってないでしょ?」
髪を乾かす前に、お母さんが洗面所に顔を出す。
「うん。六時には宿題が終わるようにするよ」
お母さんはそれを聞くと洗面所から出て行ってしまった。
別にいいんだけどね。お母さんも夕食を作る以外にも、何か仕事があるのかもしれないし。
髪が乾いたのはそれから十分後だった。
部屋に死神さんを待たせているから、お母さんとはそれ以外何も話さなかった。
「おかえり~。どう? 風邪引きそう?」
死神さんは部屋の窓から外を眺めていたのか、窓とは反対側にあるドア、つまり私の方に振り向いて、やや心配しているという表情を見せた。
「どうでしょう。多分、大丈夫だとは思いますけど……」
万が一の確率で風邪を引く事はないと思う。
「まあ、深く考えなくても良いってことですよ。熱っぽいわけでもないですし。それより私は宿題があるので、しばらく話しかけないでいてくれませんか? 集中したいんです」
私の言葉を聞き、死神さんは「それなら深く考えないようにしとくよ。で、」と一旦言葉を切り、
「話しかけないでってのは"願い"? それともただの"頼み"?」
それが気になるのだろう。死神さんは願いと頼みを強調して言った。
「もちろんただの"頼み"です」
「…………なんだ、頼みか」
少しの間のあと、そう呟いたのが聞こえた。
死神さんは気付いていないかもしれない。けれど、確かにその言葉には、"願いじゃなくて残念"という意味が込められているようだった。
実際、死神さんは呟いた時だけ目を細め、つまらないといった表情を浮かべていたのが見えた。
……やはりこのまま死神さんを信用して良いのだろうか。
不安には思ったが、決して表情には出さなかった。
宿題は思ったよりすぐに終わった。算数と漢字の二つで、算数は復習プリント。漢字はまだ習ってない漢字四文字を書くだけ。中学生になったら勉強で忙しいだろうなあ、と
部屋では、死神さんがトランプで遊んでいる。
何故トランプなのかと一度問いかけたが、返ってきたのは「そこにあったから」というものだった。
そういえばそこらへんに置きっぱなしにしていたかもしれない。そう納得し、宿題に向き直った。が、宿題が終わり、よくよく考えてみれば、トランプなんて最近全くしていないのだからそこらへんにあるのはおかしい。
そんな事を考えていたら「トランプってさ、」と話しかけられた。
「トランプってさ、一人でできるものあるの? ボクババ抜きと
ほら、と綺麗にトランプが並べてある場所を指差した。
……ずっとしていたのだろうか。神経衰弱は普通、一人でするものじゃないはずだが……。
「あ、そうだ。宿題終わったんだよね? だったら一緒にしようよ」
「え、一緒にですか?」
「うん。一緒に」
「……分かりました」
六時に夕食だから、それまでには終わらせないと。
4
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「えーと。何か、……うん。ゴメンね」
私のカードの数と自分のカードの数を比べた後、謝られた。
死神さんも少し困ったという表情に。
「いや、謝らないで下さい。私が弱いだけですから」
と言いつつも、流石に少し凹む。
今死神さんが数えていたのは、三回目のジョーカーを含めたカード数。
一回目は忘れようとしても忘れられないカード数だった。
衝撃的な一回目は私が一組だけで、死神さんが二十六組。二枚揃えばそれを一組と数えていたが、私がその一組だけだったのだ。
流石に何かの間違いじゃないかと思い、二回目をすることにしてもらった。
結果は見事に負けた。さっき私が一組だったのがもう一組増えただけで終わった。死神さんはそんな私を知ってか知らずか、ニコニコと神経衰弱を始めた時と同じ表情。
少し悔しくなってつい「もう一回」と言ってしまった。
そして三回目。結果は二回目より二組多く取れた。けれどやはり死神さんが二十三組で、死神さんの勝ちに。
二組多く取れたからいい、なんて思えるほど、私はポジティブな考えを持っていない。
「神経衰弱は止めよっか。ババ抜き……は二人でじゃつまんないか。キミ、何か二人で出来るもの知らない?」
全敗した私を気遣ってか、神経衰弱は止めると言ってくれた。が、
「二人で出来るものですか……」
まあ正直、神経衰弱は死神さんには勝てないし、違うものに変えてくれて嬉しいとは思う。
トランプって何があったっけ? ホント最近してないから、よく覚えてないんだよ。
二人で出来るものなんてスピードしか思いつかない。
そう死神さんに伝える。
「スピードかあ。どっかで聞いた事あるよ。赤と黒で分けてカードを出していくってヤツだよね? やってみようか」
死神さんはルールを知っていそうだ。ババ抜きと神経衰弱しか分からないと言っていたが、聞いた事があるものならだいたい分かるのかもしれない。
そういえば今何時だろう。
ふと気になり時計に目を向けた。すると死神さんも時計を見る。
「あ、もうこんな時間なんだ。なら今日はトランプやめよっか」
「そうですね。あの、死神さん。死神さんは何も食べないんですか?」
今聞くのは違うかもしれないが、なんとなく気になったので口に出した。
「ん? 食べないよ。食べなくても大丈夫だしね。だから気にせず夕食を済ましてきてよ。今日はもう、疲れたでしょ?」
……分かるんだ。私が思ってた事。
死神さんはお母さん達には見えないからといって、私の部屋に居てもらうのは、なんだか申し訳ないような気がしていた。
それをあっさり見破られ、私を気遣う一言も。
「分かりました。遅くなると思うので、」
「大丈夫だよ。ゆっくりしてきて。ボクの事は放っといてさ。勝手に部屋をあさったりなんかしないから。ね、安心して?」
死神さんは私の言葉を遮り、ニコニコと言い切った。
これ以上言わせるなと睨まれた感覚に
一旦死神さんのことは忘れよう。じゃないと、お母さんとお父さんの前で平然としていられない。
「あら、今呼びに行こうとしたところなのよ。宿題は終わった?」
階段を下りるとお母さんとぶつかりそうになった。
「うん。今日のご飯って何?」
「今日はハンバーグよ。……沙夜の好きな物じゃなくてごめんね」
「大丈夫だよ。お母さんが作ったものは全部おいしいから」
「嬉しいこと言ってくれるわね〜。ほら、冷めないうちに早く食べましょう」
お母さんと一緒にリビングに向かう。リビングのドアを開けるといい匂いが広がっていて、いつの間に起きたのか寝起きのお父さんはもう席についていた。
「沙夜、宿題は終わったのか?」
「うん。今日は早めに終わったんだよ」
「そうか。こうしてお前と久しぶりに一緒にご飯が食べれるなんて、お父さん嬉しいぞ!」
そう言ってお父さんは私の頭を撫でた。
お母さんとお父さんは基本、ほんわかというかゆるいというか、穏やかな人だ。その分、怒ったら人が変わったようにはきはきと話し出してそのギャップが恐ろしいけど。
「今日は学校でどんな事があったの?」
私は死神さんのこと以外の学校の出来事を話そうと口を開いた。
「友達と今度遊びに行こうって誘われたんだ。日にちは決まってないけど、最近できた雑貨屋さんでお揃いの物を買おうって言われてて。それから——」
* * *
凍りついたような空気が肌を刺す。
「これはやみそうにない、ですね」
「ああ……」
やばいな。やっぱり風邪引くぞ、これ。
寒さで震える体を抱きしめるようにして腕を組む。
もう暗いし家に帰らないと怒られる。でも雨が降ってて移動出来ないという現状、成す
「どうします? もう暗いですし、風邪引くと困るでしょう?」
「……ああ。困るな」
風邪のことは心配いらない。明日になれば風邪の症状が出るだろうから。それより"今"寒いってことの方が、俺にとって重要なんだ。
ルカが何の行動も起こさないということは、つまり願えと言いたいのだろう。それなら望む通りに願ってやる。
「なあ、ルカ。ここから俺の部屋まで濡れずに帰りたいんだ。それと服も乾かしてほしい。これを願いの一つとして叶えてくれないか」
要求は二つ。実際は二つの願いになるかもしれないところを、あえて一つの願いとして頼んだ。
「濡れずに帰る方法も、服を乾かす事も出来ますよ。一つの願いとして、問題ありません」
そう言いながら、ルカは優しく笑みを浮かべた。
筋が通っていれば受理されるのか、と新たに発見したこの情報は今後も使えそうだ。
「では、——貴女の願い、聞き入れました」
言い終わった後、ルカは俺の肩をトンと優しく叩いた。
すると、不思議な事に服が軽くなっていくのを感じた。少し触れてみると、さっきまで湿っていた服は、完全に乾いていた。寒くて仕方なかったのに逆に今は暖かく感じる。
それからルカは「目を閉じていて下さい」と言い、俺から離れた。
見たら駄目なものでもあるのか。
どれくらい目を閉じていればいいんだ? と疑問に思ったちょうどその時、「もういいですよ」と声がかかる。
意外と早かったな、と目を開ければ目を瞑る前と何ら変わりのない景色が視界に入る。
「これでもう濡れる事はありませんよ。波瑠さんの家がどこにあるか確認したいので、私もついて行きます」
ついてくるのはいい。それより雨が止んだわけじゃない、傘代わりに出来る物もない。そんなので何故濡れないって言えるんだ? どう考えても濡れるだろ。
「本当に大丈夫なのか? 何も変わってねえような気がする……」
「まあ、疑うのも無理はありません。傘代わりになる物も持っていませんし、特に変わった様子がありませんからね。ですが、騙されたと思って雨が降っている場所に行ってみて下さい」
ルカは大丈夫と言うように、俺を見て頷いた。
不安はまだあったが、ルカがそう言うなら大丈夫だろう……願いを叶えてもらったはずだから。
休憩所の屋根から少し片手を出した。でもそれだけじゃよく分からなかったから、一歩ずつ前に進んで雨が降っている場所に移動する。
「え、マジか……」
驚いた事に濡れなかった。雨は未だ降り続いているのに、体をすり抜けるように、全く当たらない。普通なら勿論、そんなことある訳がない。俺は幽霊じゃないんだからあり得ない。
だがルカは悪魔だ。悪魔の力を持ってしてみれば容易いのかもしれないと、思い直す事にした。
深くは聞かない。聞いても理解出来ないだろうし、俺が真似する事なんて出来る訳がないから。必要とあらば聞くが、今は別にその時じゃない。
「濡れなかったでしょう、波瑠さん」
いつの間にか俺の横に立ってルカが感想を求める。
「すごいな、ルカ。……悪魔ってこんな事が出来るのか……」
後半は独り言に近い。本心がそのままぽろりと口から出てしまったのだ。
「当然ですよ。これくらいの事は私にとって、とても初歩的な事ですから」
少しも威張らずさらりと言ってのける。
これが初歩的か。ならルカにとって一番難しい事が何なのか気になる。まあ、これも聞かないが。
「とりあえず帰るか」
今は何時だろう。雨が降っていていつもより暗い。それにここは古い公園だから、時計が壊れて針が動いておらず、元より時刻を確認する事が出来ないのだ。
俺は自宅を頭に浮かべて思う。
母さんと父さんが仕事に行っていることを祈ろうと。
5
☆ ☆ ☆
夕方の四時ごろ、母さんの代わりに弟を迎えに、保育所に行った。
そして家に帰って、自分の部屋に入った時、
——うるさい。近寄るな。話しかけないでくれ。
そう言って昨日追い出したはずの男がいた。
「なんでまた居るんだ……!」
当然驚いたが、それよりも出て行って欲しいという感情の方が幾分も大きかった。
「まあそう言うなって。オレだって用もないお子様に会いに来るかっての。分かれよ」
ニヤリと口元に不敵な笑みを浮かべ、僕を上から見据える男。名は"
戒里は人外だ。それは格好で分かる。和服を着ていて頭に角と、口を開くとよく分かる、牙があるんだから。
「お前さ、小さい時からオレ達が見える貴重な人間なんだってな。兄弟で長男のお前だけが。しかも親も見えねェらしいなァ。……可哀想に」
「……るさい」
そんな事思ってもないくせに。 つーかどっから聞いたその情報。
「昨日は話も聞かずオレを追い出しただろ。だからまた来た。悪ィか? 悪くねェよなァ。話聞かなかったお前が悪い」
確かに昨日は話を聞かずに追い出した。
それを考えると、戒里がまた来たのは僕のせいでもあるのか……?
「……何の用だよ」
仕方ないと思い放った僕の言葉が嬉しかったのか、戒里はパッと明るい笑顔になった。さっきはあんなに自信満々という感じの不敵な笑みだったのに、その素早い切り替えに戸惑う。
「直球で言うな。オレの手伝い役やってくれねェか?」
「……は?」
"手伝い役"ってなんだ。妖怪からそんなの初めて聞いたぞ。
「いやァ、これでもオレ、鬼なんだけどな?」
逆にこいつの容姿を見て鬼以外で何と表せばいいのか。それ程までに戒里が鬼だというのは明白だった。
「実は最近まで人間に封印されてて、やっと封印解けたばっかなんだよ。でも、オレの力がまだ完全に回復してなくってさ。それが結構生活に支障が来て、この有り様」
と、和服の裾を捲った。
そこには白い包帯が巻かれていて、少し赤い血が滲んでいる。
どうやったらこんな怪我するんだよ。
「な? これが意外と痛くてよ。だからお前には、オレの力が完全に回復するまでの手伝いを頼みたいんだ。鬼として力は大切だからさ」
「………………」
何が『な?』だよ。つまりこいつのパシリになれって事だろ? 冗談じゃねー。嫌に決まってる。いつ回復するか分かんないのに手伝いなんかするか。
「なァ、頼むよ。人間じゃないと出来ない事ばっかなんだよ。お前しかいねェんだよ」
さっきの笑顔とは打って変わり、泣きそうになりながら僕に頭を下げる。
……そこまでされても良心は揺らがない。
妖怪は僕に悪影響を及ぼす存在だ。人外は他人には見えないが
あんな
そして昨日、こいつが部屋に現れた。
これは手伝うべきなのか? 手伝わなければ
「——分かった。手伝いするよ」
心に浮かび上がった疑問もあるが、妥協に近い判断で要求を受け入れた。
「……っ本当か!」
戒里は勢いよく頭を上げた。
「まあ、うん。僕に出来る範囲だけだけどな。僕にだって都合があるんだから」
「分かってるって! ありがとなァ。あー、えっと……」
「
思わず顔を
「すまねェ。——じゃ、これから手伝いよろしくな、一翔! 頼りにしてるぜ?」
最初の時のように、戒里はニヤリと不敵な笑みを浮かべてそう言った。
「……よろしく」
でも期限とかないのか? ずっととかないよな? なるべく早くに回復してもらわねえと。
「一翔ー!」
一階から母さんの声が聞こえた。
「ここに居ろよ。絶対部屋から出るなよ?」
「…………分かった」
最初の間はなんだよ。本当に分かってるのか? いや、納得しにくいが、今は早く母さんの所に行かないと。
「呼んだ? 母さん」
階段を下りてリビングに行くと、母さんと四歳の弟、
「ええ、呼んだわ。悪いんだけど、研人の世話を頼んだわ。お母さん、空羽の世話で手一杯なの」
そういう事だろうとは思っていたさ。いつもの事なんだから。
「うん。研人の事は任せてよ」
「いつもありがとう、一翔。それじゃあ頼んだわ」
母さんはそう言って、空羽を連れて洗面所がある方向に歩いて行った。
「かけうにい! なにいてあおぶ?!」
くいっと僕の服の端を引っ張り、遊ぶ気満々という表情の研人。
研人はまだ少し、舌足らずなところがある。そして声が大きい。うるさい訳ではないが、耳元で泣かれたら、たまにキーンと来るくらいだ。
「研人は何して遊びたい? 何でもいいよ」
「うー……、だっこ! だっこいて!!」
「いいよ。ほら、おいで」
研人の「だっこ」は、抱きしめてから抱き上げるという意味がある。そうすることで不機嫌だったとしても、研人の機嫌は良くなり、テンションが上がるのだ。甘えん坊という言葉がしっくりするその様からは、どうも喜怒哀楽が激しい四歳児とは見えない。
「ギュウ〜〜!!」
研人が僕に抱きつき、満面な笑みを浮かべる。そんな弟を抱き上げ、僕が頭を撫でてやるとキャッキャと嬉しそうな声を上げた。
「——随分と楽しそうだなァ」
「?!」
聞こえるはずがない声が聞こえ、研人を抱き上げた形で思わず体が固まった。頭の中は混乱中だ。
理由は簡単、部屋から出るなと言ったはずなのに、戒里が目の前にいるからだ。
「かけうにい? どちたの?」
「え、ああ、何でもないよ」
「? ちょっか〜〜!」
……弟に心配はかけさせたくない。だがその為には、こいつをどうにかしないと……。
「一翔ゥ。無視は良くないだろォ」
と言いつつも戒里の顔は、僕が悩んでる姿を見て楽しんでいるのがはっきりと分かる。
腹が立つからその顔止めろ。そう言いたいが、研人がいるので口を噤んだ。
「……次、何して遊ぶ?」
戒里が僕の部屋に戻るように、最初はやっぱり、無視を決め込む事にした。
「オレは今からでも、力を回復させたいんだけどなァ」
お前に言ってねーよ。っと、我慢、我慢。
「なにちようかな〜??」
そう研人が悩んでる時、静かな足音が聞こえてきた。
「にいちゃーーーーん!」
空羽を抱きかかえた母さんが、もう大丈夫、というように微笑んでいる。
……助かったな。研人と遊ぶのは別に嫌いじゃない。が、戒里が目の前にいるなら、研人と遊ぶのは出来るだけ遠慮したい。というか、弟と遊ぶのは、か。研人だけじゃないからな。
「もう良いのかァ? まだ……、っておい!」
母さんに研人と空羽を任せて、ついでに言うと戒里を無視して、自分の部屋に向かう。
そう言えば宿題終わってねーんだった。
「おい、まだ無視するつもりかよ? いい加減無視すんの止めてくんねェか?」
「…………」
「無視かよ!」
耳元でうるさい奴だな。こっちは自分の部屋の中に入るまで、喋らないようにしてんだよ。
「……お前は、家族が大切か?」
僕が部屋に足を踏み入れた直後、唐突に後ろで戒里が呟いたのが耳に入った。
家族が大切かってもちろん大切だが、何なんだ急に。話に
人が来ないことを確認し、僕は戒里に体を向ける。そして問いかけた。
「僕に聞くのか、それを」
妖怪はみんな同じだと言うつもりはない。僕ら人間だってそれぞれ違うんだ。そこら辺はきちんと、頭では理解している。
だがやはり脳裏に
「僕は三年前、弟と一緒に公園に遊びに行ったことがあるんだ」
自室に視線を戻し、床に放り出されたランドセルを引っ掴んで勉強机の上に乗せる。
「そこで襲われた。僕は背中に大きく、弟は額と腕、足に切り傷が出来た。戒里、犯人は誰だと思う?」
返事はない。
明日の時間割通りに教科書を入れ替えながら、僕は口を動かす。
「妖怪だよ。お前と同じ。だから犯人は未だ逃亡中ってなってる。違うのにな」
声が震えそうになるのをぐっと堪える。
「なあ、家族が大切かって聞いただろ。もう一度言うけど、それを僕に聞くのか」
戒里に言ったってどうしようもない。分かってはいるが、家族に危害を加える可能性を捨てきれないがため、結果責めてしまった。
「…………悪ィ」
一言が、部屋に響いた。
やってしまったと、後悔する。感情のままに言葉を吐き、戒里の心理を考えるより先に口を滑らせた。
「ごめん、八つ当たりした。……気にしないでくれ。さっきの質問な、答えは『はい』だ。僕は家族が大切だ」
気まずさが残る中、口早にそう言い切った。これ以上は何も話すまいと口を結ぶ僕に対し、戒里は「そうかァ」とだけ。
なんとなく振り返り戒里に目をやった。
その顔には怒りも悲しみも、喜びもなく、何かに思考を
やがて戒里は満足したのか俯き気味の顔を上げ、笑みを浮かべた。
「驚いただろ? オレが部屋から出て」
悪戯が成功したかのようなワクワク顔に僕は苛立ちが湧き上がるのを抑えられなかった。
ああ、そうだ。忘れかけていたがこいつは僕の部屋から出たんだったな。
「驚いたさ。部屋から出るなって言ったのに、隠れる気もなく、ただ堂々としていたことにもな。……ふざけてるのか?」
睨むように戒里の目を見た。それでも、戒里は笑顔を崩さない。
「ふざけてるぜ。じゃねェとこんな事しねェよ。オレが真面目に言う事、聞くと思ったのか?」
「思わなかったよ。ああ思わなかった! けどそれでもって、ちょっとは信じたさ。なのにお前ときたら……!」
「信じてくれんのは嬉しいけどよォ、オレはそういう性格だから。……この性格は変えれねェんだ」
だからって、……いや、言っても無駄か。僕がこいつに文句を言ってもなかなか反省の色を見せない。なら、いくら言っても時間の無駄になるだろう。
「分かった。これに関してはもういい。……僕は宿題するから、邪魔だけはしないでくれよ。絶対に」
「そんじゃあ、暇潰しになるもん、何か貸してくれねェか? それで邪魔はしないようにするから。ほら、何かないのか?」
暇潰しになるもの……? そんなもの僕の部屋にあったか。
僕が一人で遊ぶことなんて小さい頃だけだったし、今じゃ、弟たちと遊ぶのが日課になってる。静かに遊べるものはなかったと思うが……。
「あぁ、そういえばトランプがあったな」
「"とらんぷ"? 何だそれ」
「知らないのかっ?」
嘘だろ、と思うが、戒里の表情はどうも嘘というような表情じゃない。
トランプを知らないって言うなら、遊べるものなんて、もう何もないぞ。僕の部屋には。
「とらんぷって何だ? どんな遊びだ?」
「トランプって名前のカードで遊ぶんだけど、色々な遊びがあるな」
「"かーど"……? あ、とらんぷって、なんか模様とか数字とかが書いてある、あの紙切れか? それならオレ、見たことあるぜ」
合ってるようで合ってない気もするが、合ってるか。口で言うより、見せた方が早いな。
トランプってどこに置いたかな。机の引き出しに入ってなかったら、違う遊びを考えなきゃいけない。
「あ、あった。ほら、これがトランプだ」
机の引き出しの奥のほうに入ってあった。見つかって良かったな。
「へェ、これがとらんぷか。……それで? どうやって遊ぶんだァ」
首を傾げて「こうか?」と、トランプを箱から一枚一枚、丁寧に取り出し、僕のベッドの上に綺麗に並べていく。
時々戒里の爪が長いせいで何度もトランプが破れかけた。鬼はみな爪が長いのだろうか、と首を捻る。
僕がそんなつまらないことを考えていると、全部並べ終わったようで、戒里は僕を見て「これでどうするんだ?」と問いかける。
そこで僕は気付いた。トランプで一人で遊べるものなんてあるのか、と。今僕が思いつくのは、ババ抜き、ジジ抜き、神経衰弱、スピードくらいだ。大富豪というのもあるそうだが、僕はルールを知らない。
こうなったら、適当に言っとくか。
「そのカードあるだろ。それを全部裏返して、めくる。めくったカードは、一から十三までの数字があるから、その順番に重ねていくんだ。マークも揃えるようにして」
よくこうスラスラと噓が吐けるな、と自分に感心する。
「ヘェ……。一回やってみる」
意外にもやる気がある態度で、戒里はトランプをめくっていく。その眼差しは真剣だ。
そんなに真剣にやるようなものでもないような気がすると思うが、このまま放って置いても問題なさそうだし、僕はさっさと宿題を終わらすことに集中した。
6
☆ ☆ ☆
「なァ、これ楽しいのか?」
「え?」
宿題を無事終わらせ休憩だ〜と思った矢先、戒里にそう聞かれた。
楽しいのかって言われても、適当に言ったものだし、そう言われたら困るな。
なんて言おうかと迷いながら戒里の方に体を向けると、僕は驚いて目を見開いた。
「な、なんだよ、それ」
動揺を抑えきれず、少し途切れるような言葉になってしまう。
「えと、その、……」
戒里はまるで言い訳を考えるように目を泳がせ、次にゆっくりと口を開いた。
「……すまねェ。普通に触って、めくってただけだと、思ってたんだけどな。その、……オレの妖力が少しだけ、注がれてたみたいなんだ。それでこうなっちゃって……ホントにすまねェ!」
正直に話してくれて、その上謝罪してきた。
だが、許すことは難しい。
トランプは、ごく普通の数字にごく普通のマークだったのに、何故か数字が赤と青に光りを放ち、浮かびあがったりしている。マークはハート、スペード、ダイヤ、クラブの四種類が、鬼火らしき絵と、雪の結晶の絵、葉っぱの絵、白い花の絵に変わっていた。
どれをどうすれば、ここまで変わるのだろう? 手を伸ばし、トランプを一枚触れてみる。
「……?」
肌触りに違和感を覚えて裏返してみると、見事に模様が変わっている。何故平面な
もうこれは僕のトランプじゃない。完全に別の物だ。
「ああでも、二枚とも分かんねェかーどあったんだけど、それは模様、変わってねェぜ!」
「なあ、戒里。必死そうな言い方をするが、戒里は本当に申し訳ないと思ってるんだよな?」
疑いの目をかけてみる。
「あァ、思ってる」
思いの外真剣な表情で言うものだから、鬼としての凄みを感じて言葉が喉に突っかかった。
わざとではないようだ。無意識でトランプの模様を変えてしまうほどの妖力なんてあるわけないと思ったんだが。封印されていたらしいから実は大物の可能性もある。
「これは直せないのか?」
「無理だろォ。一度妖力が注がれたら、それ専門の人間に妖力を消してもらうしか……」
そんな知り合いは居ないし無理だな。直すのは諦めよう。
確か戒里は二枚とも分からないカードがあって、それは模様が変わってないとかなんとか言ってたよな。
二枚の他とは違うようなカード……、それってジョーカーしかないだろ。僕の個人的な意見だが。
「模様が変わってないのが二枚あるんだよな?」
「え? あァ、あるある。これだよ」
そう言って戒里が指したのは、やはりジョーカーだった。
そこでふと疑問が湧いた。
「このトランプ全部さ、害はないのか?」
「あー、多分。害はないと思うぞ。手を刺されたりとかもしねェと思うし……」
手を刺されたりとかって、怖すぎるだろ。想像してぞわりと鳥肌が立った。
「害がないなら、もういいよ。どうせ直すことは出来ないだろうし、このまま使えるんだったら別に……」
許さない訳でもない。と言いかけたが、それを遮り「許してくれるのかっ」と、戒里が驚いたというように声を出す。
「許さないほうが良かったか?」
「いや、許してくれて嬉しいぜ!」
即答……、まあいい。そもそも僕がトランプで遊ぶなんてことは基本ないからな。柄が変わったところで使わないだろうから戒里を許すことに決めた。
「——一翔って弟何人いるんだ? てっきり二、三人かと思ったけどよォ……」
突然話題が切り替わる。僕の弟が何人いるかは戒里はもう知ってるんだと思っていたから、それに対して驚きつつ答えると。
「弟は四人いるけど……急にどうしたんだ?」
「え、四人?! っていうか聞こえてないのか? さっきからお前の母親が呼んでるぞ。えーと、ナントカとナントカを迎えに行って、みたいなことを言ってたような……? まァ、とりあえず呼ばれてるみたいだぞ」
一瞬、何言ってんだこいつ、と思ってしまったが、その"ナントカ"が何か理解した途端、僕の心に現れたのは焦りという感情。
もうそんな時間だったのか、気付かなかった。母さんが僕を呼ぶ声にも気付けなかった。急がないと。
時計を見ると、五時十五分前。
「今からでも大丈夫……!」
五時になるまでに迎えに行かないと!
「なんでそんなに焦ってんだよ? オイ聞いてんのか」
「うるさいな。こっちは
「ヘェ。後の二人の弟、きせきとこうたって名前なのか。……じゃなくて。そんなに困ってるならオレがなんとかしてやろうか」
その言葉に僕は体の動きを止めた。
「どういう意味だ?」
少し警戒しながら聞く。
「だから、オレがなんとかしてやろうか、って言ってんの。どうする? この話、受け入れるか?」
「……信じて、いいんだな」
僕がそう言うと、戒里はニヤリと笑う。
「実は単純なのかお子様くん?」
「やっぱり嘘だったのか!」
「やっぱりって何だよ失礼な。嘘じゃねェよ? その証拠を今から見せてやる。その前に靴を履きに行くか。オレもお前ん家の玄関に
なに勝手に置いてんだよ、僕は気付かなかったぞ?
そんなことを思いながら玄関に向かう。途中で母さんと研人、空羽とすれ違った。
「じゃあ、頼むわね。ちゃんと傘を持っていくのよ」
「うん。分かった」
母さんと話したことはこれだけ。
靴を履き、傘を持って外に出る。戒里も傘がいるのかと聞こうとしたが、戒里はもう自分の傘をさして外に出ていた。
よく時代劇とかで見たことあるような傘だな……。周りからは見えないよな? 見えてたらホラーだ。誰もいないのに傘が浮いてるとか。
「どこ行きたいんだ?」
戒里は袖に手を入れ、ゴソゴソと何かを探している。
「ここからちょっと遠い市立図書館。そばに公園があるけど雨降ってるから人は居ないはず。人に見つからないようそこに連れて行ってほしい」
「あーあそこか。それなら分かるぞ、ここに来る前に通ったからなァ」
これは本当に嘘じゃないっぽい。
「まだか?」
「もう少し……っと、あったあった、これだ」
その声が聞こえた直後、視界が真っ暗になった。
別に気を失ったんじゃない。戒里の手で両目をおさえられたんだ。
なんで目を隠すのか。それはだいだい予想できる。僕に見られたくないんだろう。
ここは大人しくしておくべきと判断し、叩いてやろうとした腕を下ろした。つーか戒里は証拠を見せてやるって言わなかったか? 見せられてねーんだけど。
それにいきなり目を塞がれたから傘を落としそうになったじゃないか。この大雨の中で傘を落としてみろ、びしょ濡れだ。
「おお、できた! やっぱこれ便利だなァ」
ここで合ってるか? と言う声と共に、視界が明るくなった。
目をおさえられたことで少しチカチカするが、何が変わったのか確認するために目を凝らす。
するとそこは、弟がいるであろう市立図書館の近くの、公園の木の下だった。
「あっ、兄ちゃん!」
「輝汐兄、静かに。ここ図書館だよ」
落ち着きがない十歳の弟、輝汐と九歳なのに落ち着き過ぎている弟、浩太が、歩いて僕に近付いてくる。
輝汐の背負っているリュックの中身は、おそらく浩太が借りた図書館の本だろう。
「今日は何冊借りたんだ浩太。輝汐も何冊か借りた?」
「十二冊だよ。十二冊しか借りれないのが、ホントにざんねんだよ。もっと借りたい……」
「一冊も借りてねーよー? 借りたところで、本なんて読まねーもん!」
浩太は本が好きだ。理由は『物語だから』と言っていた。つまり、本ではなく、物語が好きだということだ。だから浩太は、将来のための本には見向きもしない。
輝汐は運動が好きだ。普段外に遊びに行くことが
「そろそろ帰ろう。外は雨が強くなってるし、二人共、お
「空いた。おかし食べてないし」
「浩太の言う通りだぜ。腹へって、兄ちゃん待ってたんだからな!」
図書館におかしはダメなんだったっけ? と考えながら、図書館を出た。
「……一翔ゥ、オレ、ちょっと用事できたわ。夜まで出掛けるから、お前の部屋の窓、開けといてくんね? んじゃ、頼んだわ」
戒里はそう一方的に言い残して、僕の家とは反対方向に歩いて行った。
傘で目元を隠していてよく見えなかったが、何かを警戒しているようだった。
「兄ちゃん?」
「どうしたの?」
傘をさした後、立ち止まった僕を見上げる弟。
「……なんでもないよ」
少し間ができてしまったが、なんでもないと言えた。
「じゃ、さっさと帰ろうぜ!」
「そうだな」
輝汐と浩太と、家まで話をしながら歩いた。学校であった面白かったこと、楽しかったこと。図書館で見つけた、面白そうな本のこと、それ以外にも、いろいろ話した。
やっぱり戒里がいないから、弟達と楽に話せる。思わず口元が緩んだ。
そうこうして家に着いた。傘をさしていたにも関わらず三人揃って、足が濡れてしまっている。
「ただいま」
「ただいま!! 腹へった!」
「ただいま〜」
僕、輝汐、浩太と続いて、それぞれ家に帰ったことを母さん達に知らせる。
ドタドタという音と共にいち早くきたのが、研人だった。
「おかえりー! にいたち!」
「ただいま〜」
浩太は、お腹空いたよ、とテンション低く言い、研人の頭を撫でる。
あとから母さんが、タオルを左手に、空羽を右手に抱えた状態で来てくれた。
「足が濡れたでしょう? ほら、靴下を脱いで、これで拭きなさい」
「分かった」「うん」「りょーかい!」
ほぼ同時に放った三人の言葉を聞き、母さんは輝汐が背負っているリュックをリビングの方へと持って行った。
空羽が静かだったのは、多分眠いからだろう。目が半開きになっていた。眠いのを耐えている時の顔だ。
「……っ! この匂いはカレー!」
「え、ほんと? やったねっ」
いつものように、家に漂うごはんの匂いの食べ物を当てる輝汐。
カレーは浩太の大好物だ。前に、「カレーなら三日、いや、五日くらい続けて食べれるよ!」と、勢いよく母さんに言っていたのを、聞いたことがある。
「父さんは?」
リビングに行くと父さんだけが見当たらない。
「お父さんは、仕事が長引いてるらしいわ。だから先に食べていいって」
「そうなんだ。まあ、みんなお腹空いてるだろうし、僕もお腹空いてるし、先に食べていいなら、先に食べとこうよ」
「ええ、そうしましょう」
母さんのその言葉を聞いた輝汐は、素早く席についた。浩太は、僕がリビングに入った時から、もう席についていた。研人は空羽と眠そうに、それぞれ椅子の上にいる。研人は、空羽の眠気が移ったのか?
僕も席につき、全員で、「いただきます」と言う。因みにこの「いただきます」が揃ったことは、一度もない。
空羽と研人は眠そうにしながらも、カレーを口に入れる。輝汐と浩太はおかわりをしたいのか、手が忙しそうだ。
僕はというと、急いでるといえば急いでるが普段通りを装って食べている。
理由は、戒里が去り際に「夜まで出掛けるから、窓を開けといてくれ」と言っていたからだ。それだけ聞くと、ご飯を食べる前に開ければ良いと思う人もいるだろう。しかし開けっ放しだと何かが入って来る恐れがあるのだ。それを阻止するためには僕がその場にいないといけない。
ご飯をゆっくり噛みしめる暇さえくれないとは。これは手伝いの
「あ、そうだ、一翔兄。今日借りてきた本さ、難しい漢字が多かったから、また一翔兄の部屋で読んでいい? 一翔兄が暇な日っていつ?」
「ん? ああいいよ。暇な日か……」
今日は駄目だ。戒里が邪魔をしてくるのは目に見えている。
「日曜はどうだ?」
「え、土曜は用事あんの。日曜でいいけどさ」
「土曜は母さんの手伝いで忙しいからな。な、母さん」
「そうなのよ、ごめんなさいね」
「あーそういうことか」
浩太は納得した様子でまた止めていた手を動かす。
「ごちそうさま」
数分経って食べ終わった僕は、急いで食器を洗い、タオルで拭き、片付ける。
「え! 兄ちゃんもう食べたのか!? おかわりは?!」
いつもゆっくり食べている僕が早くに食べ終わったのを見て、輝汐が大きな声でそう言う。
「静かにしろよ。研人と空羽が寝てるんだぞ」
言いながら研人と空羽を見る。二人のお皿にはまだカレーが残っている。母さんは研人と空羽を抱き上げて、あらかじめ敷いておいたであろう布団に、研人と空羽を優しく寝転ばせる。
「ごめんなさい……。でも兄ちゃん、食べ終わるの早くない?」
「今日はやる事があるんだよ」
「……思ったけどさ、兄ちゃんなんか、おれに厳しくない?」
気のせい? と首を傾げる輝汐に、僕は「気のせいだろ」となんでもないように言う。
まあ、確かに。少し輝汐には厳しくしているかもしれない。輝汐は次男で、僕の次に"兄"だから。ただ、そこまで厳しくしてはいないと思うが……。僕のちょっとした対応で、そう感じてしまうのか?
「まあ、とりあえずそういうことだから」
「わかったよ。お風呂の順番がきたら兄ちゃん呼ぶから」
「ぼくは部屋で読める本を読んどくよ」
母さんは僕を見るだけで、何も言わない。ということは、好きにしていいということだ。
それが分かったから、僕は二階に向かう。これで戒里が来ても、弟や母さんの前ではないから、返事もできる。でも出来るだけ文句を言われたくないので、足はせわしなく動く。
僕が窓を開けるまで帰ってこないでくれ——と思いながら。
7
# # #
夕飯を食べ終え、お母さんとお父さんとも話せた。
いつもなら、お母さんとお父さんが家にいることが少ないから、もっとたくさん話そうとする。けれど、今日は別だ。死神さんが私の部屋に居るから、お母さんとお父さんと話していた時も、死神さんのことが頭から離れなかったのだ。
部屋が荒らされている、というのは無さそうだが、それでも何故か、気になって仕方がない。
「あら、もう部屋に戻るの?」
「うん。ちょっとやることがあって……」
「そうか。それは残念だな……。だけどそれが気になって、仕方がないんだな? なら、それを確かめに行けばいいさ。少しでも、心を楽に出来るだろうしな」
気にしていたということが、バレてたよう。
「そうね。沙夜、それが終わったら、また降りてくればいいわ」
「うん、そうする!」
お母さんとお父さんにそう言われ、早速、自分の部屋に向かう。
ドアを開けようとした、その時。
『——順調です。……今から、ですか……はい。承知しました』
話し声がする。が、その声は死神さんのだけ。電話だろうか?
何を話してるんだろう? と気になり、ドアの向こうに、そっと耳を傾ける。……盗み聞きだよねー、と思いながら。
『え? ——ああ、分かっていますよ。もう二度と、同じ
相手は誰だろう。敬語だから、偉い人かな。それに、"同じ過ち"ってどういう事? そういえば死神さんは『人間と関わる事が出来たのも、ついこの間』って言ってた。あの時は人と関わる事が禁止されてたのかと思ったが、それと何か関係が……? もしかして『人と関わる事を禁止されていた』の考えは、あながち間違いではないのかも。
『はい。あの子には適当に言って、早急にそちらへ戻ります。書類はその時、渡してもらえればと……、ええ。そうしてくださると……。では……』
死神さんがそう言い終えると、部屋は静かになった。
考えても、死神さんの言葉の意味が分からない。……直に、わかるかな。
そう思い、私はドアを開けて部屋に入った。死神さんは笑顔で私を出迎えたが、その笑顔は怖いと思うものではなく、ただ普通の優しい笑みだった。
さっきのを私が聞いてた事には、気づいてなさそう。とりあえず、ほっとした。
「ボクさ、今から出掛けなきゃいけないんだ。明日には、キミの元に戻れると思うから」
「はい、分かりました」
「……急な事なのに、驚かないんだね」
あ。……そうだ。私はさっきのを聞いたから、驚かずに返事ができたけど、死神さんはそれを知らない。驚かないという事に驚くのは、当然かもしれない。
どう答えれば正解だろう。
「……えっと、あのさっき……」
「さっき」って言っちゃった! 誤魔化さないと。
私が言い訳を口にしようとすると、死神さんは納得したように頷く。
「ああ、夜は外に出るって言ったね、ボク。だからか。なんかごめんね」
「え、あっ……はい」
思ったよりあっさりと言ってのけた事に戸惑い、そんな私を知ってか知らずか、死神さんは「じゃあ、また明日」と言って、窓から外に出た。
「…………ん?」
窓から外に出た? ——え?
慌てて、もう閉ざされた窓を開ける。雨や風が強く、そして今は夜。視界が暗くて見えにくいが、そこには確かに、死神さんの姿がなかった。
「消え、た……?」
嘘だろ、そんなこと、あり得ない。今さっき私の部屋を出て、その数秒後にはもう、いなくなるなんて……。いや、でも『死神』なんだし、それくらい簡単にできるものなのかな? すごいな、人外って。……これは失礼か。
窓を閉め、死神さんのある言葉を思い出す。
順調とは、一体何の事を言っているのだろうか。
死神さんはもう出掛けたから気にする必要はないだろうけど、違和感を拭いきれない箇所が幾つかある。一言でその違和感を表現しようとして、何かを隠すために嘘を吐いているような気がするという、何ともまとまらない文になったため一時的に考えることを
母と父は仲良くソファに座ってテレビを見たりしているだろう。明日はまた二人とも仕事に行くと言っていたから、今日はもうちょっと話したいな。
そう思うと、私はすぐにドアを開けて階段を駆け降りた。
* * *
「波瑠! 帰ってくるのが遅いわよ! 今何時だと思ってるの?!」
帰って早々投げかけられた甲高い声が頭に響く。
「あなたは流風のスペアなんだから、勝手に居なくならないでちょうだい!!」
ドンっと派手な音を立てて玄関の扉を閉める母さん。どうやらご機嫌が斜めだったらしい。俺の顔を見てもいつもはほとんど反応しないのに、と顔を
「……大丈夫ですか? あんなに叫ばれて」
母さんにはルカのことが見えなかった。目の前にいる怪しい出で立ちの男に何の反応も示さなかったのがその証拠だ。
「あー大丈夫大丈夫。いつものことだから」
「いつものこと……」
いつものこと。その言葉に何かを感じたのか、ルカは少し考え込んでいるように見えた。
「そ、いつものこと。それよりルカはご飯食べるのか?」
「人間が作ったものは食べませんね。食べなくても平気なので」
「……そうか」
悪魔は人間の魂を食べる。そう、聞いたことがある。それが本当だとしたら俺は一年後、殺されて
頭を振って手を洗いに洗面所に行く。それが終わればキッチンカウンターに足を運んだ。
冷蔵庫に何があるか確かめていると、ふとルカの気配が消えたのを感じた。振り返ると本当にルカはいなくて、探そうかと思ったがお腹が空いてたからご飯食べてからでいいや、と考え直す。
そしてささっと作った夜ご飯をお皿に適当に盛って食卓に運び、椅子に腰を下ろしたとき。
「それは何という食べ物ですか?」
突然なことでびくっと肩が揺れる。いつの間にか背後にルカが立っていた。気配を感じ取れなかったこともあり、恐る恐るといった様子で俺は振り向く。
「波瑠さん? どうしました」
不思議で仕方がないと言いたげな表情に、思わず曖昧な笑みを浮かべる。
「え、と…………何でもない。気にしないで」
「何ですかその間は。まあいいです。それで、これは何という名前なんですか?」
再度問いかけながら指を差したのは、長方形の黄色いあれとキャベツや人参、豚肉などを炒めたもの。
「そっちが卵焼きで、もう一つのは野菜炒めだけど」
卵焼きも野菜炒めも冷蔵庫にあるものを手繰り寄せて適当に作っただけ。
「たまごやき……やさいいため……」
俺の言葉を繰り返すように呟く。
「人の食べ物とか詳しくないのか?」
「あ、いえ、その。……はい。実は人間の作ったものは食べなくても平気ですから、私は人間の食べ物についてよく知らないんですよ」
研究しているわけでもないですし、と付け足す。
「…………」
へえ。悪魔ってそういうもんなんだ。まさか人間が作った食べ物も知らないなんて。じゃあ、普段はどこにいるんだろう。人間が作った食べ物はどこに行ってもあると思うけど……。
ぼんやりルカを見つめながら思考を巡らせていると、ルカが艶やかな黒髪を揺らして口を開いた。
「そう言えば波瑠さん。会った時とは口調が少し、柔らかくなりましたね」
「え?」
驚いて思考が止まる。
「別に変わってなくないか」
「いいえ。ほんの少し変わったと言いますか、雰囲気が棘のないものになったと言いますか。上手く言葉に出来ませんが、そんな感じがします」
俺が、変わった……。
——駄目じゃないか、それは。
『流風になれ』『スペア』『要らない』『出来損ない』そう言われ続け、やっと手に入った『俺』が壊れかけているという事だろ。壊れたら、父に暴力を振るわれるかもしれない。母に泣き叫ばれて物を投げつけられるかもしれない。それは嫌だ。
取り繕わなければいけない。波瑠は要らない子で、流風は居なくてはならない存在だ。流風が居なくなってから演じて来た化けの皮が剥がれてしまう前に、早く戻らないと。
「やっぱり気のせいじゃ……」
喉が乾く。声が震えそうだ。
「女性なのですから、変わった方が良いのでは?」
否定しようとする俺にルカが不思議でたまらないと言葉を重ねる。
「男らしい口調でいても、性格が根本的に変わるということはないですよ」
真っ直ぐな目を向けられて、耐えきれず視線を外した。
その通りだ。俺は波瑠で、いくら双子だからと言っても兄にはなれない。だから男口調が定着したんだ。一人称も変えた。形からでもいいから、真似しようと。そうして過ごしていたのに、今日ルカと会ってから変化していっているらしい。
なら今ここで出来ないのに、ずっと演じるなんて俺には無理だ。最初から難しいことだったんだ。
「許されるなら、やめたいよ」
はっと口を閉ざした。幸いルカには聞こえていなかったようで、小さく安堵の息をつく。
相手は悪魔なのに俺は気を抜きすぎたな。これからは気をつけよう。
「どうしました? 気分を害してしまったのなら謝罪します」
不安な表情を見せるルカに何でもないと返す。それを最後に、この話は終わった。
コップに注いだ水で喉を潤し、俺は食卓に向き直る。心の中で「いただきます」と唱えてお箸を動かし始めた。卵焼きも野菜炒めも冷めてしまっていたが、唯一白飯だけは辛うじて温かかった。
不意に血管が脈打つような痛みが頭に走り、眉をひそめた。
あー、やっぱり風邪引いたな。明日学校に行けるかどうか。
「………………」
いや、まあいいか。この痛みは我慢できる。だから学校には行こう。
今日は親に言われて問答無用で休まされたし、家に居てもいつ何を言われるか分かったものじゃない。
言ってしまえば、家より学校の方が安全なんだ。
☆ ☆ ☆
カレーを食べ終わり、自室へ戻った。そこで戒里がいないかすぐ確認。
どうやらまだ帰っていないようだ。ひとまず安心した。が、僕にはやることが残っている。そう、窓を開けることだ。簡単なことなのに何故か緊張にも似た感覚が僕を襲う。
つーか今思ったけど、こんな雨降ってんのに窓開けて、大丈夫か? 部屋が濡れるとかマジ勘弁だぞ。
「それに濡れて帰ってくんなよ」
妖怪だし雨で濡れるのはないのかも、なんて考えたが、戒里は傘をさしていた。それは、戒里も濡れるってことだと思う。用事ができたって言ってたから、もともと用事があった訳ではなさそうだし、濡れて帰ってくる可能性も考えておかないと。
僕は窓を五センチほど開けた。窓を全開にしといてくれ、なんて言われてないし。これなら部屋に雨が入ってくることは、少ししかないだろう。
自分のベッドの上に乗ってるものを見る。それは戒里の妖力とかで、絵柄が完全に変わったトランプ。そしてもう一度、窓の外を見る。すーと風が入り込んで、少し鳥肌が立った。ちなみにこの行動に意味はない。
——妖怪、か。
手伝いをする決意をしたものの、未だに警戒が残る。僕に守るなんて大それた事が出来るのかわからないからだ。
きっと三年前のあの日と同じような事が起こっても、僕はまた何もできないと思う。
妖怪が見えるから虐められてた、あの時期。妖怪が僕だけじゃなく弟の輝汐と浩太をも襲った、あの最悪の日。自分も怪我を負ったからと心で言い訳して、何が起きてるのか分からなくてただただ怯えて泣く弟達の声が、今でもまだ耳に木霊する。
幸い、二人の傷は浅かったから死ぬということはなかった。……僕は、助けられなかったんだ。あの妖怪が恐ろしくて、足が
たまにその時の光景が、夢となって現れる。
忘れたかった記憶。でも、忘れたらいけない記憶。
戒里の頼みを断ってしまったらまた同じ事が起きるんじゃないか、と思ってしまった。そう思うと、断るのが怖くなった。
なんて弱いんだろう。
なんて無力なんだろう。
惨めで悔しい癖に、何も出来ない自分が嫌いだ。
「窓から離れねェけど、そんなにオレが恋しかったのかァ?」
「は!?」
振り向くとふざけたことを抜かした声の主が立っていた。
「いつの間に……」
言いながら、窓を閉めた。といっても、五センチほどしか開けてなかったのだが。
「いやな、オレも窓から部屋に入ろうと思ってたんだよ。けど、オレには便利なモノがあったのを忘れててさ」
「便利なモノ? それってもしかして、図書館に一瞬で移動できたやつ?」
「あァ、それそれ。図書館じゃなくても移動できるんだぜ。な、便利だろ?」
「便利だな」
何していたのかは聞かない。聞いても答えてくれなさそうだし。
そんなことを考えていると、戒里がニヤニヤと笑いながらこう言った。
「そんで? 一翔は何で窓から離れなかったんだァ。やっぱりオレの帰りをまっ……」
「違うからな。誰がお前の帰りなんか待つんだよ」
「即答かよ。オレまだ言い終わってねェぞ」
「知るか」
床が濡れていないか視線を落として慎重に確かめる。
「なァ、一翔。手伝いを頼んだのに悪ィけど、」
さっきとは少し雰囲気が変わったこともあり、僕は顔を上げて真剣に聞く準備をした。
「まだ手伝いはしなくていいから、ここに居させてくんねェか?」
「……は?」
思わず目が点になった。
何か事情があるんだろうけど、戒里はもとよりそのつもりだったんじゃなかったのか。
僕の家に入ってきて、さも当たり前だというように僕の部屋にいて。僕が宿題をしている間、トランプをしながら思いっきりくつろいでいたのを、僕は知ってるぞ。
完全に僕の部屋に居座るような態度だったのに、それは違った、と……。
はあと呆れを含むため息を吐いて頭をガシガシと掻いた。
くそ。分かりにくい事この上ない態度をしやがって。紛らわしい。
「いいぞ」
こっちは戒里と関わることに覚悟を決めたんだ。じゃないとトランプさせる前にさっさと追い出してるわ。
大体妖怪にだって良いやつはいるだろう。僕は、戒里はその"良いやつ"だと思いたいのだ。少なくとも戒里を『悪いやつじゃない』と判断したのは僕だ。多少自分勝手で意地悪なところがあるが、本当に悪だったら、さっきみたいに僕の意見を聞こうとなんてしないはずだから。
「ありがとな、一翔!!」
それに、無邪気という言葉が良く似合うやつに、悪いやつはいないだろう。……と、僕は思う。
——信じてるんだ。だから、裏切らないで。
そんな僕の本音は、口に出すことなく消えた。
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