けむり

紫波 秋

害虫

仕事を終えて事務所を出ると、暖房が効いていたからなのか面倒な先輩の暑苦しい絡みに捉まってしまったからなのかはわからないが、いつもより冷たく感じた風が気持ちよかった。


北海道の十月は木々たちが黄や紅にその葉を染め始め秋を知らせている。

道路わきでは背丈ほどある三脚に長いレンズを装着したカメラを乗せ山々を撮影する写真家もどきをよく見るようになった。


中身のない鞄を助手席に放りエンジンよりも先にたばこに火をつけた。

今日一日のモヤモヤを煙と一緒に吐き出す。

うまい。これのために生きてるとさえ思える。

煙が薄くなると窓の向こうに同じエレベーターに乗っていた今年の春入社した新人が車の前を通りかかったが、一瞬こちらを見て口をへの字に曲げて過ぎ去った。

まるで気持ちの悪い虫を見るような目だった。

そういえば挨拶もなかった。完全に先輩をなめている。


最近ではどこも禁煙ブームだ。

非喫煙者たちはたばこを吸う人間を文字通り執拗に煙たがる。

会社や喫茶店はもちろん東京では居酒屋ですら禁煙で外に出される店があると誰かから聞いた。仲のいい先輩はとうとう家でも唯一の居場所だった換気扇の下を追い出されたらしい。

さらに追い打ちかと言わんばかりのタイミングでたばこの値上がりだ。僕が高校から吸っているセブンスターは四六〇円から五〇〇円になった。社会人三年目でヘビースモーカーの僕には厳しい値上げだ。

テレビではニュースキャスターがベランダに追い出された喫煙者たちを「蛍族」と紹介している。ついには虫扱いだ。そう、また虫。


気づくと灰が落ちそうになってた。

灰皿代わりのコーヒーの空き缶に灰を落とし、やっとエンジンをかける。

二〇万で買った中古のワゴンRはひどいエンジン音がする。

車内はラジオがかかっているがエンジン音で所々聞こえない。


車を出して駅に向かう。

今日は話があると付き合って二年の彼女に呼び出されていた。

二人はうまくやっていけていると思っている。

喧嘩もないし、不満があるわけでもない。

明日は僕の誕生日だからサプライズかなんかだろうと思いながら車を走らせた。

嘘が下手だからすぐに気づいてしまうだろうなんて思っていた。


駅に着くと真っ白のコートを着た彼女が待っていた。

階段を降りてくるその表情に笑顔はなかった。

鞄を後部座席に放り彼女を助手席に座らせた。


「ごめん、遅くなって。また先輩に捉まっちゃって。」

「んーん。」

「・・・。」


無言が続いた。

明らかによくない雰囲気であることに耐え切れず車を出そうとギアを握ろうとしたその時。


「別れよ。」


はっきりとした声で確かにそう言った。

彼女は普段物静かで声もあまり大きくない子だ。


「え?」


驚きとショックで声がほとんど出なかった。

おそらくエンジン音にかき消され彼女には届かなかっただろう。


「ほかに好きな人ができたの。」


もう声が少しも出なかった。


「だらもう別れてほしいの。」


彼女がはっきりと言葉を発したのはそこまでで、それから二度ほど発した声はほとんど聞こえなかった。

そして彼女は一度も目を合わせないまま車を降りてまた駅に戻っていった。

ただただその姿を見届けた。姿が見えなくなるまで。


彼女が消えた先にはガラスで覆われた小さなスペースにぎゅうぎゅう詰めになった喫煙者たちが険しい顔をしながら必死にたばこを吸っていた。


なるほどあれは確かに虫だ。まるで虫かごだ。


そう言いながらたばこに火をつけた。


もう一度彼女が消えていったほうを見るとそこには白い煙と涙でなにも見えなかった。


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けむり 紫波 秋 @shiba_1003

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