ストーリーと「面白さ」(ネタバレ注意)
けものフレンズ2 「取りに行く・会いに行く」
ケーススタディではネタバレ全開で行きます。鑑賞していない方は先に鑑賞することをお勧めします。
第一回は最近話題になっている「けものフレンズ2」を反面教師として取り上げてみました。もう批判は食傷気味、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、独自視点で分析してみますので、お付き合いいただけると幸いです。
●メインの「面白さ」
けものフレンズ2のメインの「面白さ」は「取りに行く・会いに行く」です。この作品の場合、それはうまく機能していません。その理由を探りたいと思います。
●「取りに行く・会いに行く」
「取りに行く・会いに行く」に必須の要素は、対象物への強い切望と、旅の中で遭遇する様々な妨害に負けない意志です。主人公のキュルルはそれを満たしているでしょうか。
1. 切望
・旅の発端はキュルルが第一話でサーバル・カラカルに「おうちを探して」とお願いすることです。ここでは涙ぐんでいますが、以降、あまり切望している様子はありません。また、あくまで「お願い」であって、自発的に探すという意志に欠けているように見えます。
・第九話で「おうち」が見つかりますが、探していたものとは違いました。それでも多少の未練や名残惜しそうな演技が必要だったのではないでしょうか。しかしそれはありませんでした。
・第十話でカタカケフウチョウとカンザシフウチョウに「おうちは存在しないかも」と指摘されますが、特に動揺するそぶりは見せませんでした。
2. 困難克服の意志
・障害として描かれるセルリアンの襲撃は、お供のサーバル・カラカルが簡単に倒してしまい、主人公はほとんど何もしていません。
・スケッチブックに描かれた絵の場所も簡単に見つかってしまいます。
以上より、「取りに行く・会いに行く」の要件を満たしておらず、キュルルが何をしたいのか分からないため、感情移入することができません。第十二話で「おうちを探すのはやめた」と言われても、いや最初から大して重要視してなかったじゃん、としか思えないでしょう。
●イエイヌと「取りに行く・会いに行く」
実は「取りに行く・会いに行く」の要件を満たしているキャラがいます。イエイヌがそれです。イエイヌの場合は「おうち」ではなく「人」がその対象です。
1. 切望
・探偵を雇う、人を探していることが他のフレンズの噂になる、という切実に人を探している描写があります。
・第九話でようやく人に出会うことができたイエイヌは抱きついたり、お茶を用意したり、遊んだりと喜びを表現します。
2. 困難克服の意志
・ビーストに襲われたキュルルを身を挺して守ろうとします。
・人の意志を尊重して、自ら身を引きます。
このように、「取りに行く・会いに行く」の要件を満たしており、視聴者は感情移入することができます。感情移入が可能なほぼ唯一のキャラのため、イエイヌが去るとき、同情の声が多く集まりました。
まとめると、主人公が達成すべき、「取りに行く・会いに行く」という「面白さ」をイエイヌが奪ってしまっているという構造になっています。これがけものフレンズ2が抱える最大の欠点です。
●「知識を得る」
けものフレンズシリーズはいろいろな場所を旅して、固有の知識を得るという、ロードムービーの「面白さ」を取入れています。これは成功しているでしょうか。
第一期を視聴しているという前提で書いていますが、一期には魅力的な場所がたくさんありました。遊園地、迷路、遺跡、図書館、雪山など。そしてその場の特色を活かして問題解決をするという工夫がありました。二期にそれはあったでしょうか。……ないですね。違う場所に行っても、すぐフレンズとの会話に移行してしまい、最後はセルリアンが襲ってきてワンパターンに倒されるだけになっています。場所の移動の描写も乗り物に乗っているか徒歩のどちらかしかありません。
いろいろな場所で出会えるフレンズの動物習性を活かした描写も一期に比べて薄すぎます。ツンデレとか百合みたいなテンプレを当てはめただけのような感じです。
場所・地元キャラの特色がほとんど活かされていないのでロードムービーとして成立していません。よって「知識を得る」も不成立です。
●「友達になる」
第十話で全員集合の絵をリョコウバトに渡しました。第十一話でキュルルは突然、カタカケフウチョウとカンザシフウチョウに「フレンズのみんなと友達になりたい、ビーストと和解したい」という趣旨の発言をします。これは最終話の直前で提示できる「面白さ」ではありません。第一話でやるべきでした。
また、この時点で「取りに行く・会いに行く」が未解決のままフェイドアウトしている印象があるなか、関連性の薄いこの「面白さ」を提示し、ストーリーの一貫性が損なわれています。
第十二話で、キュルルが「大好きなんだ」と叫ぶシーンがありますが、そもそも旅の中で友達になることを阻むものは何もありませんでした。いえ一つだけ、直前の、かばんがサーバルたちに任せて逃げようと提案したところだけです。叫ぶ直前の回想で、絵を描いたのは最初からそのためだったと後付けで説明してしまっていますが、まずいやり方でしょう。この「面白さ」も成り立っているようには思えません。
●「取り戻す」
第十話でキュルルの絵がフレンズ型セルリアンを生み出していることが明らかになりました。つまりキュルルのせいでジャパリパークの平和が脅かされているということです。元凶の集合絵を取り戻すのは相変わらずサーバル・カラカルのお膳立てで達成し、たいしたことはやっていません。
またキュルルが災難を引き起こしたにもかかわらず、贖罪は特に何もしていません。一応悪いとは思ったようですが「STEINS;GATE」などに比べると明らかに努力不足です。よって「取り戻す」も不成立です。
●その他
第一話と第十二話で溝を跳び越える描写があります。これは何だ、と多くの視聴者が思ったのではないでしょうか。私の推測では脚本作成術の一つ、三幕構成の第一幕の最後に置かれる、「ファーストターニングポイント」(引き返し不可能点)と第三幕に置かれる「変化の証明」だと思います。しかし形だけで機能してはいないようです。
回収されない伏線、説明されない謎が大量に放置されています。
●まとめ
この作品が成功しなかった原因はひとえにキュルルがひたすら受動的であることにつきるでしょう。「面白さ」に関しても、イエイヌによる「取りに行く・会いに行く」しか成立していません。この作品をきれいにまとめるには、第九話でキュルルが「君の熱意には負けたよ。もうイエイヌのご主人でいいや」と心変わりしてハッピーエンド、が一番良かったのかもしれません。
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