第35話 削いだ後の処理と久しぶりの歌
もう一つ持ってきていた石も試してみたが、やっぱりこの石が使いやすい。何と言ってもこの掴みやすさ、自分の手に合わせたかのように手にフィットしている。心の中で奇妙な石語りをしながら石でついている油や肉を削ぎ落とす。一回ではなかなか取れている実感は無くても確かに石には油がついていて、何回も何回も繰り返していくと徐々に綺麗になってきた。ここには確かにやりがいがある。自分は単純作業最高ですという人ではないと思うがこうやって苦労した結果がちゃんと顕れると自分が胸を張って油を取ったと思うまで止められなくなってしまう。一回止めてしまうとすぐ復帰できるか、いつエンジンがかかるかが分からないので止めないほうが自分にとって都合がいいのか。幸い魔力を使った作業ではないので没頭しているうちに少しでも回復することを望む。
疲れたぁ~。油まみれだった皮が本当に綺麗になった。どれくらい変わったかちゃんと確かめる為にビフォーアフターの写真が欲しい。でもここには無視してはいけない現実がある。こことは下、皮から削いだ油を落としていた場所のことである。どう処理しよう。外でやればよかった。後のことを何も考えずせっせと汚してしまった地面が目に映る。後片付けが憂鬱で仕方ない。
なかったことにしたくてもできない。そんな存在感を放つ油達の処理方法を考える。持ち運び?無理無理。べとべとは断固拒否します。皮から脂取ってるときに付いたのとは精神的になんか違う。油そのものを手で掬う行為を回避するために頭を働かせる。正直手で掬っても取りきれない油汚れがありそうなことも掬いたくない理由の一つだ。
よっしゃ、回避可能!自分の頭は今日も逃げ切りました。方法は簡単。全部氷で覆ってしまえ。それだけである。
既に油には触れまくっている手であるが、ここで触れると負けた気がするので落ちている油のすぐ傍の地面から氷を走らせる。覆うというよりは魔素同調のときのように押し流す感覚で魔力を氷に変えていく。
ここまで来ると後は少しだ。身体強化をした足(主に爪先)で氷をただただ蹴って蹴って蹴っていく。何回か蹴っていくと氷が地面から離れていき、はがれた跡にはほんの少しの氷混じりの油と肉が残るのみとなった。それををもう一度仕上げに氷を纏わせ、じゃりじゃりと蹴って崩していく。崩してできた氷屑を足の内側で蹴って一カ所にまとめそれをまたまた凍らせて一塊にする。そうしてできた氷達をコツコツ蹴りだしていこうかと思ったがまた割れても面倒なので両手で抱えて迷宮の入り口のところで外に放り投げる。全部投げ終わったときには氷によって熱を奪われ顔やお腹に当てるとヒャッと声を出してしまうこと必定の両手と皮から脂を取ったとき程ではないが達成感が残った。
さぁこれからどうしようか。ふとそう思ったが直ぐに皮の処理がまだ終わっていなかったことを思い出す。内側の油はほとんど取ったものの所詮まだこの皮は生ものだ。このままだと腐ることは想像するまでもない。かといってどうするか。煮沸すればいいのか。否、わざわざ煮えた湯の中に放り込まなくても生もので無くさせるなら乾燥させればいい。自分は"脱水"が使えるので大方この魔法で水分を取り除き、最後は日光消毒も兼ねて天日干しさせてみよう。とは言っても、もうそろそろ日が夕暮れ時に差し掛かる頃なのでそれは明日になる。今日は肉と同じ場所で"保凍氷"の中で眠ってもらうとしよう。
となれば今日の皮についての作業はこれで終わり。作業が終わるとなるとよりはっきりとお腹が減っている事が感じられるわけだが、そのまま空腹時の肥大した食欲にいつも従う訳じゃない。おもむろに外に出て真っ赤な空を眺める。綺麗だという月並みな台詞しか口からこぼれないがそれでいい。しばらく紅く染まった空を眺めたら好きな歌をいくつか、スライドショーのように一定時間ずつ歌う。壁画のときに痛感したが自分には憶えている景色や人の顔を写真のように模写することはできない。ただ、自分は歌が好きだった。好きな歌の歌詞を動画サイトで十数分かけて歌いながら覚え、音程もしっかりと覚えることはもはや趣味の一つと言っていい。長い時間をかけて作り上げたレパートリーの数は、しっかりと把握してはいないがおそらく五十は超えるだろう。そうして覚えている歌を風化させないことぐらいは自分にだってできる。経験上、歌詞を一度ちゃんと覚えたら歌っている限り忘れることはほとんど無かった。カラオケこそ行かなかったが家でいつも大きな声で歌っていたおかげで堂々と歌えている。人がいないのも大きいかもしれない。それにしてもさすが変声期前。封印していた曲が難なく歌える。高音が自由に発声できるってなんか素晴らしいとしみじみ思う。そうして意図せぬ開放感を覚えながら歌を歌い続ける。
満足。満足。余は満足じゃ。久しぶりに歌ったことによる充実感が胸を満たす。歌を歌うのを止め、迷宮に踵を返す。さぁ待ちに待った御飯のとき、腹を満たしに行こう。
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