第八話 稽古開始
『パレス・セイレーネス』の開店は夕刻からのため、日中のホールは無人であることがほとんどだ。
その中央で、イーリスが大きく伸びをした。
「ああーっ! 楽しーい!」
ここが実家同然のギュムベルトにとってその感覚は解らない。
むしろ、これから体験するであろう未知の試練に対する緊張感に具合が悪いくらいだったりする。
ギュムはイーリスに問い質す。
「楽しいって、それ言葉のチョイスは合ってるの?」
「合ってるさ、我々はこの空間を自由にする権利を得たのだ!」
彼女は両手を最大限に広げると、まるで神にでもなったかのような口調で答えた。
ニィハが交渉を頑張った成果として、開店前の清掃を条件に日中のホールを自由に使わせて貰えるようになったのだ。
二ヶ月後にここで演劇を公演する前提の下、ギュムベルト、イーリス、ニィハ、オーヴィル。そして、アルフォンス。
これだけのスペースを四人と一匹で占有しているとなると、おのずと気分は高揚する。
なにが始まるのかを全く理解していないギュムにさえ、得体の知れないわくわく感は伝染した。
「まずは自由に動けるスペースを作ろうか」
イーリスの提案に従い、一同はテーブルや椅子の類を部屋の隅へと追いやり始める。
飲食スペースとして使われているエントランスである。
配置されている家具を撤去するのはけっこうな重労働だ。
「これから毎日、撤去と清掃と設置を繰り返すのか?」
「うん、事故の原因になるからね」
ギュムの確認に対してイーリスは返答した。
演劇の稽古を行うには、まず相応のスペースが必要ということらしい。
ギュムは気を引き締めて臨んだが、作業は想像よりも遥かに迅速に進んだ。
それを感じさせるのは彼らの異常なまでのチームワークだ。
重い荷物の前に立てば指示ひとつなく反対側を介添し、進行方向に障害物があれば、別の人間が先回りして撤去する。
ギュムベルトがイーリスと協力して大テーブルを運んでいると、同じものをオーヴィルがひょいと一人で担ぎあげ、残された椅子はニィハが手際よく撤去した。
掛け声すら必要とせず、談笑しながらスムーズに作業を完了させていく。
あっという間に空間は確保されたのだった。
「今後も使わせて貰えないかなぁ」
言いながら、イーリスは剥き出しになった床を掃いた。
ズラリと並んでいた家具を撤去してしまえば、そこは極めてフラットな空間である。
エントランスとしては広大で、ちょっとしたダンスホールにも使えそうだ。
一階の先は厨房や倉庫などのスペース。洗濯室や支配人室も設置されている。
左右の階段は二階へと繋がっており、その先はプレイルームになっている。
「吹き抜けの構造が想像力を掻き立てるんだよねー」
イーリスはまるで空でも掴もうとするかのように手を伸ばした。
フラットな空間は見つかるだろうけれど、天井の高い施設は貴重だ。それこそ宮殿か美術館くらいのものだろう。
「そうは言っても、おれの十年分の稼ぎに相当するわけで……」
何度も都合できる額ではない。使用できるのは今回限りの特例なのだ。
家具の撤去からの床掃除を終え、準備が整った所でオーヴィルが訊ねる。
「演目はどうする?」
どんな物語を上演するのか――。イーリスは答える。
「決めてない、悩み中」
ストックしてある台本をそのままでは使えない。
「少年が主人公のあたらしい物語が必要ね」
ニィハがイーリスに確認した。
今回は受験者かつ出資者でもあるギュムベルトありきの公演だ。彼のキャラクターに沿ったものが好ましいだろう。
しかし、仲間たちはまだギュムのことをよく知らない。
「ああ、おれのことか……」
真剣に聴いているつもりが、ギュムは演劇についてはまったくの無知である。
イーリスたちのやり取りは記憶中枢を素通りし、やはり赤髪のいけ好かない女がリーダーらしい。くらいの漠然とした印象を抱くのみだった。
「でね。すっげー悩んだけど、一時間くらいやろうかと思ってる。てる? た」
歯切れ悪くイーリスが宣言したのは上演時間についてだ。
人々に一時間程度の物語を観させるということになる。
観劇中はおとなしく――。
それがマナーとしてよっぽど浸透していれば話は別だが、世間はまだまだそんなにお行儀が良くはない。
「……暴動が起きるんじゃないのか?」
オーヴィルの反応から、それが無謀な提案であることは想像できた。
吟遊詩人が廃れた原因として、他人の話を聴くという行為が基本的には苦痛だという事実がある。
じっとしている事は肉体的にも精神的にも苦痛なのだ。
読み書きが普及した現在。物語は書物や雑談によって能動的に、かつ適した分量で摂取することが可能になった。
『語り』などという愚にもつかないことは、もはや娯楽たりえていないのだ。
「この空間で演劇ができるってことはスペシャルなことだよ。
この機会に目指す完成系に近いものを試しておかなきゃ、未来は無いと思うんだ」
「正念場ね」
ニィハは当然のようにイーリスの提案を承諾し、オーヴィルもそれ以上は何も言わない。
「ちょっと待って!」
決定ムードを遮ったのはギュムベルトだ。
「ん、なに?」
「公演時間の延長って、打開策としてその決断は合ってるの?」
詳しいことは分からなかったが、ギュムベルトは危機感を訴えた。
「これまでと違うことをしようとするのは解る、ギリ解る。
だけど五分もったことないのを、じゃあ一時間やろう! って、その発想が解らない!」
その矢面に立つのは今回が初舞台である自分なのだ。
イーリスは答える。
「五分で終わる楽しみが一時間に延長されたら嬉しいだろ。
一回の公演のために全財産はたいた漢がそれくらいでビビんなって」
「十メートルの高さから飛び降りる覚悟を決めて来たのに、なぜか百メートルの高さに連れて行かれるんだからビビるだろ!」
話が違うってやつだ。
「じゃあ、どうしろって?」
「そりゃ、時間の延長よりも内容を見直すべきなんじゃ……。より面白い物語を用意するとか?」
「ぷふーっ、物語なんて何をやっても同じですぅー」
ギュムの怒りが頂点に達した。
「くっ、かっ、はっ、ぬっ、ふっ、ふぬーっ!!
そんなこと言う奴は物語の再現を生業とするのなんて辞めてしまえ!!」
――からかわれているのだろうか。
ギュムにとってイーリスの言葉はまったくもって不可解だ。
自分は物語などに造詣もないし思い入れもない。
それでも、この人たちが『物語の再現』に執心するなら、きっとそれだけの価値があるのだと興味を惹かれて財産を投じたのだ。
それなのに、よりにもよって当事者が『物語の力』を信じていないと言い捨てた。それが少なからずショックだった。
物語はなにも語れない――。
『殴られ屋』をやっている時点で『劇団』は半ば廃業状態だった。
例えば剣闘士時代、例えば殴られ屋、例えばこの娼館がそうだ。
殺し合いや、ギャンブルや、セックスと比べたら、『他人の人生語り』などはあきらかに退屈だ。
物語は体験に敗北する。
だから演劇は儲からない。なぜなら、演劇は誰にも必要とされていないから。
「他人の人生に一喜一憂していられるほど、人々は暇ではないのだ――」
イーリスが語りだす。
「人は前線で死にゆく数千人の命より、恋人の今日の機嫌が優先される生き物だよ。
世界を揺るがす秘密よりも、彼女の下着を誰が脱がしたのかに興味があるんだ」
世界は物語で溢れている。
栄華を極めた皇帝が失脚し、なぜ無能の女王が誕生したのか。
死霊術士によって百万人もの命が失われた大災害、その真相とはなんだったのか。
古代竜の庇護により栄えた都市が滅びた裏で、どうやって神竜が討たれたのか。
女王は何故。命を天秤に掛け、剣闘士との愛を貫いたのか。
ここ数年の出来事を、当事者以外には誰も語らない。
それらは他人事であり、他人事とはつまり無関係ということだから。
「女の機嫌とかパンツとか、そんなことに興味はないんだよ!!
もう、ウンザリなんだ……」
ギュムはさめざめと言った。
先程までの溢れるような期待感から一変、重い空気が立ち込めた。
「おれは、いったいなんの為にここに来たんだろう……」
大金が失われたことはどうだっていい。
ただ憧れるに足ると確信していたものが、初めから存在しなかった。
そう考えるとどうしようもなく虚しくなった。
「おい、ギュムベルト!」
意気消沈する少年の両肩を掴んでイーリスは向き合った。
「た、なんだよ……」
「こっちを見て。目を反らすな」
同じ高さにある視線は力強く、何かを訴えかけてくる。
「な、何が始まったんだ?」
何事かもわからずにギュムは困惑する。よく知りもしない女性が唐突ににらめっこを強要してきたのだ。
意図はわからない。ただ、反らすなと言われた視線を必死に合わせた。
「人と向き合うことのストレスがわかる?
ただ人がいる。というだけの負荷に対抗するため、自分がどれだけのエネルギーを使っているのか」
反らすな、と言われた視線は泳ぎ。掴まれ固定された両肩は身じろぎを抑えられない。
それを我慢しようとすれば、首が張って腹筋が震えた。
「……べつに、なんてことない」
しんどい、逃げ出したい。
「逃るな! 感じて、息づかいを、体温を、循環する生命力を――。
キミにとってのボクの価値を、キミはゼロにすることだって百にすることだって自由なんだ」
「だから何の話だよっ!!」
大声になるのは誤魔化しだ。動いたら負け、と判断した少年の悪あがき。
「ボク、今から嘘をつくよ。ちょっと考えなくてもわかる純度百パーセントの物語さ」
「あのな――!」
「キミが好き」
「――――」
視線に射抜かれていた所を追撃するように、言葉が深く突き刺さった。
少年は呼吸を忘れ、思考を停止する。
見物する二人の「おお」だとか「まあ」だとか、ケモノの欠伸の音が静寂に響いた。
「……はあっ!?」
精一杯の抵抗と、チンピラよろしく声を張った。
もはや完全に逃げに入ったギュムの顔を両手でガシリと押さえつけ、イーリスは告げる。
「こっちを見て、ボクの眼をよく見て。
――キミが好きなの!」
ストンと膝が折れて、ギュムが尻もちを着いた。
「はい、ボクの勝ち!」
「ち、ちが! だ、なんで!」
勝負なんて約束はしていないが、状況的にみてそれは完全敗北だった。
嘘の告白に取り乱し、膝が崩れ、挙句の果てには腰を抜かし、それを見下ろされている。
どれもこれもない。何重にも恥ずかしい。
「勝ち負けは関係ないだろ!!」
「その格好で言われてもな」
「腰が抜けて立てないのね……」
「ヒソヒソ話をやめろ!!」
ギャラリーから見ても勝敗は明らかだった。
「思い知ったか! 存在することの破壊力! そして体験することの説得力を!
物語を特別たらしめるのは、受け手が当事者になり得るかどうかなんだ」
ギュムに向かって、イーリスは一連の行動の理由を説明する。
「物語と体験の境目を無くす術こそ演劇だとボクは思ってる。
読み聞かせに飽きたっていうなら当事者になってもらう。物語を知るではなく体験してもらうんだ」
芸に感心させる。ネタで笑いをとる。それならば五分で足りた。
しかし『現場に居合わせてもらう』にはそれでは短すぎる。
だから、『五分』もたない世界で『一時間』の上演をやらなくてはならない。
それはまるで不可能なことのようにも思えた。
「どうして、そこまで?」
演劇に拘るのかとギュムは訊ねた。
剣闘士が儲かるなら殺し合えばいい。
殴られ屋が儲かるなら博打をやればいい。
売春が儲かるなら体を売ればいい。
それでも演劇がやりたいと言うなら、その答えは一つだった。
イーリスは断言する。
「無力な物語を、それでも愛しているからさ」
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