喜多の引退宣言(後編)

「私は祥太しょうたお坊ちゃまが義務教育を修了するまでの間の世話係としてこの家に派遣されていたのです。そのお坊ちゃまも晴れて高校生になられましたゆえに、私の引退は当然のことなのですよ?」


 そう言いながら、喜多はふところから巻物を取り出し、テーブルの上に広げた。

 古く色あせた和紙に達筆な毛筆で書かれた、契約書のような物。

 そこにはパパと喜多の名前と赤いインクで拇印が押されている。

 ……ちがう。これ、インクじゃなくて血液だ。

 いわゆる血判状という物だった。

 内容は彼女の言うとおり、私たち姉弟の世話係を命ずるというもので、その期限もしょうちゃんが義務教育を修了するまでと明記されていた。


「つまり、それが……」

「この三月末日まで、ということでございます」

 

 なぜこの時代に血判状かということはさておき、契約の話しになると私には何も言い返すことができなくなる。

 あくまでも雇い主はパパであり、喜多との契約がそういう風になっているならば仕方がないことなのだ。


「……でもさ、あまりにも突然過ぎるよ」


 うるうるした瞳を喜多に向けるしょうちゃん。

 涙をこらえるようにウサギの抱き枕を握る手にギュッと力を入れた。


「――っく」


 喜多は明らかに動揺し、しょうちゃんの視線から逃げるように血判状をくるくる巻き始める。

 彼女には珍しくその手がぷるぷると震えている。

 巻物を懐にしまい込むと、そそくさとエプロンを外しながら。

 

「そ、それでは皆様、どど、どうぞ健康にお過ごしくださいませ。あっ、朝食の下準備はできていますので、あとは並べるだけで大丈夫ですよ。て、では私はこれにて失礼――」 


「だめだ!」


「――っく」

「ふえっ!?」


 しょうちゃんが両手を広げて喜多の行く手を阻んだ。

 思わず私まで変な声を上げてしまった。


「ボクがパパに頼んでみるよ! 喜多さんが家政婦を続けられるように、ボクがパパを説得してみせるよ! ボクは喜多さんを絶対に手放さない!」


 小っちゃいしょうちゃんが、おっきい声を張り上げて宣言した。

 その堂々とした立ち振る舞いは、神々しい光に包まれて私の目に未来永劫焼き付いて消えることはないだろう。 

 彼の足下には、こてんと横たわるウサギの抱き枕。


「ずるい……ずるいですよショウタ様・・・・・……ますます旦那様に似てきました……これでは一度は諦めたかけた旦那様の代わりに……という淫らな想いが……私の身体の奥底から沸々と……ああっ……」


 壁に両手をついて、喜多が何やら不穏な内容を呟いているけれど、ぺたんと床に座り込んでしまっている私にはその一部しか聞き取れなかった。

 私は天使のようなしょうちゃんの姿に腰砕けになっていたのだ。


「分かりました。ショウタ様が私を必要と言ってくださる以上、私も契約の延長を申し出ることにやぶさかではありません」


「ほんと? やったー! ありがとう喜多さん」


「ふふ、私の方こそありがとうございます。ところで、こちらの寝具はどうなさるおつもりだったのですか?」


 喜多がしょうちゃんの抱き枕を取り上げた。

 それをしょうちゃんは両手で受け取ってギュッと抱き抱える。


「あ、これね、だいぶ汚れて匂いもきつくなってきたから洗おうかと思って……」

「ハッ! そ、そんなもったいない!」


 床にぺたんと座っていた私は、思わず手を伸ばして声を上げていた。

 キョトンとした顔のしょうちゃんと、ゆっくり振り向いた喜多の視線が痛い。


「では、旦那様のところへ行く前に、洗濯をしていきますね。悪い虫が付く前に……」

「えっ、抱き枕に悪い虫が付いたりするの?」

「付きますよ、わるーい虫がね、お坊ちゃまを狙って忍び寄るのです」

「うわっ、怖い。ねえ、お姉ちゃんも知ってた?」

「ふえっ?」


 まん丸お目々を向けてくる天使のしょうちゃん。

 その隣でジト目で見てくる悪魔の口の端が微かに上がっている。


 私は―― 何か―― とんでもない間違いを犯してしまったのかも知れない。


「い、いいのよ喜多。しょうちゃんの抱き枕はいつものように私が綺麗にしておいてあげるから……」

「いえいえ、お嬢様は今日も学校ですよね。皆の憧れ生徒会長ともなると春休みもままならず、大変ですねー。お仕事ご苦労様です」

「ぐぬぬ……」


 まずいまずいまずい!

 このままでは、せっかくため込んだしょうちゃんの香りが洗い流されてしまう。

 こんなことになるんだったら、昨夜のうちに私のと交換を済ませておくべきだった!


「でも、不思議なんだよね。この抱き枕って、中身はただのポリエステルなのに、洗い立てがすごーく良い匂いがするんだよね」

「はふっ!」


 私は思わず変な声を上げて、両手で口を押さえた。


 しょうちゃん……

 それ、お姉ちゃんの匂いなんだよ。


 伝えたい。

 

 ギュッと抱きしめたい。


 挙動不審になっている私を、キョトンとした顔で見ている天使。

 一方の悪魔は、呆れたような顔でため息を吐きながら、


 しょうちゃんの大切なウサギの抱き枕を私に向かって投げつけてきたのである。

 

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