夢見沢楓の長~い一日(後編)

「ごめんなさい! マフラー代は、きちんと弁償するから」


 合格発表の会場から少し離れたベンチのある木の下でボクは頭を下げる。

 ボタンに絡んでいたマフラーをようやく外すことができたけれど、そこにはくっきりと真っ赤な血がしみ込んでしまっている。


「あっ、弁償なんていいのよ。そもそも私があなたを巻き込んではしゃいじゃったことが原因なんだから」


「でも、そういうわけには……」


「まあ、その話の続きは後でいいから、早くどこかで顔を洗ってきなさいよ。私、ここで待ってるから。そして、あなたの番号を一緒に見に行くわよ」


「えっ……」


「あなたは私の結果を見た。だから私もあなたの結果を見る権利があるでしょ?」


 あ然としたボクの顔を見て女の子は笑った。

 緊張感から解放された彼女の顔はとても穏やかで可愛らしかった。


 ▽

 

 鼻血で汚れた顔を洗って戻ってくると女の子はいなかった。

 周りを探し回ってみたけれど、見つからない。


 ボクがトイレに入っていたわずか五分間のうちに、彼女は忽然こつぜんと姿を消してしまっていたのだ。


 突然に人がいなくなることは珍しいことではない。

 こういう現象を神隠しというらしい。

 神隠しに遭った人はふらっと戻って来ることも多いのだけれど、まるで性格が変わってしまったかのようにボクによそよそしい態度になったりする。



 ――本当に不思議な現象なんだ、『神隠し』というものは――



 それにしても、ボクの血が付いてしまったあのマフラーが気になるな……

 あの女の子にとって大切な物だったらどうしよう。

 笑って許してはくれたけれど、せめて新しいマフラーを弁償したかったな……

 

 そっか! あの子、合格したことをあれだけ喜んでいたんだから、絶対にここに入学するよね! だったら、また必ずここで会えるよね。

 

 ……ボクも合格していたらの条件付きだけれど。

  

 ボクはポケットから受験票を取り出してつばをごくりと飲み込む。

 少し回り道をしてしまったけれど、いよいよここが運命の分岐点だ。

 

 発表から15分あまりが経過したというのに、まだ人でごった返している会場。

 仲間同志で記念写真を撮ったり、親に撮られたりしている人もいる。

 それとは対照的に、何度も何度も受験票と掲示板を見比べて、やがて肩を落として去って行く人もいる。

 そんな中を、ボクは一人で歩いている。

 

 ずらっと並べられた移動式ホワイトボードに貼り付けられた無機質な数字が印刷された紙。

 でも、ボクたち受験生にとってはこれからの人生を左右する羅針盤でもあるのだ。


 あの女の子は自身の番号を見つけた瞬間、ボクに抱きついて跳び上がって喜んでいた。ボクも自分の番号を見つけたら、同じように跳び回るのだろうか。


 1100番台の掲示板の前で深呼吸をし、薄目をあけてのぞき見る。



 ――――あった!――――



 ボクは手をぎゅっと握り絞め、膝を曲げて前屈みになり――――


「やったぁ――――ッ しょうちゃんおめでとー!」


 喜びを爆発させる寸前に、何者かによって後ろから抱きつかれていた。

 そして、ピョンピョンと跳びはねる度にボクの後頭部に大きくて柔らかいものが当たっている。

 振り向くまでもなく、それはボクの大好きな姉である。


「お、お姉ちゃん、やっぱり来てくれたんだ!」


「はあ、はあ……うん、用事を無事に、はあ、済ませてきたところよ、はあ、はあ、でも、ぎりぎり間に合ってよかったぁー!」


 姉はものすごく息が上がっていた。


 学校が休みな姉は、ボクの合格発表についてくる予定だったんだけれど、何か緊急の用事があって来られなかったんだ。

 でも、最後にはこうして駆けつけて来てくれた。


「お姉ちゃん……ううん、生徒会長さん!」


「ふえっ?」


「分からないことだらけのボクですが、これからよろしくお願いします!」


 ペコリと頭を下げると、姉は変な声を上げながらまるで腰を抜かしたようにその場でへたり込んでしまった。


「お、お姉ちゃん大丈夫!? あわわっ、どうしよう……」


「大丈夫だからしょうちゃん! お姉ちゃんはしょうちゃんの尊さにハート心臓を撃ち抜かれただけだから――」


「し、心臓を!? 全然大丈夫じゃないじゃん! 誰か先生を……」


「だ、だめぇぇぇー! この状態を先生に見られたりしたらお姉ちゃんの星埜守ほしのもり人生がTHE END終了だからぁぁぁー!」


 姉はボクの腕にすがりつくように叫んだ。



 ▽



 ああ…………

 今日のしょうちゃんも可愛かったなー……


 

 しょうちゃんとお揃いで買ったウサギの抱き枕を足に挟んで私は一人、ベッドの上で悶絶している。

 じつはこれ、時々しょうちゃんには内緒で交換しているの。


 悦に入り顔を埋めて深く息を吸っているとき、突然耳元で声がした。


「お嬢さま、例の件についてご報告を――」


「はっ、喜多!? アナタいつからそこへ?」


「今来たところでございますゆえに、決してお嬢さまのあられもない姿を、じっと観察したりしてはいません」


「そ、そう……それならば…… えっ? 私のあられもない姿って?」


 ベッドから慌てて起き上がると、喜多は何事もなかったようなすまし顔で立っていた。

 彼女は伊賀忍者の末裔であり、現在も忍者修行を欠かさないスーパー家政婦。

 ポーカーフェイスはお手のものなのだ。


「例の女生徒は最高級ブランドのカシミヤ製マフラーを買い与え、更に中丸デパートの商品券十万円ほどを手渡すと目を丸くして帰って行きました。今後一切、祥太お坊ちゃまには近づくことはないかと思われます――」


「そう、それは良かったわ」


 なら、これ以上手を回す必要もないわね。

 私のしょうちゃんに許可もなく近づいたという罪は一生かけても償えるものではないけれど、私だって鬼ではない。

 

「それから、奥様は無事に旦那様の元にお帰りになりました」


「ふうー、それはどうでも良かったわ」


 私は嘆息する。

 結局のところパパの浮気というのはママの被害妄想に過ぎなかった。

 今朝、私が事務所に乗り込んだら顔面蒼白のパパが待っていた。

 事情を聴けば聴くほどにどうでもいいような話ばかりが飛び出してきた。


 そもそもの原因は、ママの残念な性格。

 それに加えてパパの浮気癖。

 実際、パパはこの世の全ての女を魅了するほどのイケメンなのだ。


 今回の件がママの被害妄想であったとしても、これまでに起こした数多の離婚騒動が真実を物語っている。


 ああ…… 私たち姉弟は完璧なのに…… 両親が残念だなんて……

 運命の神様は世の中の平衡をこうして保っているのだろうか。


「ではお嬢さま、お休みなさいませ」


 喜多は一礼し、本棚の奥にある隠し扉から出て行く。


「さあ、明日から新入生歓迎会の準備で忙しくなるわよーっ!」


 私はウサギの抱き枕とともにベッドにダイブした。


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