異世界に行ったら働かなくて良いって聞いてたのに!

扇 多門丸

第1話 

水溜まりに足を突っ込んだ。

革靴に水が入り、靴下が濡れて重く冷たくなる。ストライプ模様が入ったスラックスの裾口が足に張り付いた。

仕事からの帰り道で良かった。仕事中にこんな目に合ったら、ただでさえげんなりした気分がさらに落ち込む。

幸いにも明日は休みだ。洗濯して乾かして、ズボンのプレス機にかける時間はある。2日も休みがあればそのぐらいはできるだろう。

明日が休みとわかったとたんに、足取りが軽くなる。その足取りのまま、傘立てに閉じた傘を放り込んでコンビニに入った。時刻は24時を過ぎたところだった。入り口でカゴを持ち、売り場に行く。

今晩のカップ麺を1つ、今日の引きこもり用カップ麺を2つ、おやつのポテトチップスを2つ、ペットボトルのコーラを2本、いや3本、カップのコーヒーを1つ。小さいカゴがいっぱいになった。最後にホットスナックのケースからフライドチキンを注文した。二つ折りの財布から紙を2枚出して、返ってきた小銭を小銭入れに収めた。

「なんてこった」

傘が無い。

このわずかな買い物の間に誰かが傘を持って行ってしまった。

入り口の横に売っている傘が悪徳商法のように見えてきた。靴を片方だけ盗んでまた買わせる手法のように、店と傘をパクる人間がグルになっているのでは?

傘は500円していた。家までは5分ぐらいだった。

傘を買って雨をしのぐか、濡れて帰って風呂に入るか。

店の外で温かいフライドチキンを食べた。この一口目に溢れる油がたまらない。どっかから油だけ持ってんだろってぐらいジューシーだ。作法に乗っ取り、3口半で食べきった。食べきる頃には、傘を買うか買わないか決めていた。

僕は大粒の雨の中に飛び出した。

歩いて5分、走ると3分ぐらいだろう。吊るしのスーツで雨の中、マンションが乱立する住宅街を走る。雨音よりも俺の走る音のほうが勝っていた。左手に黒いビジネスバック、右手に食料のたっぷり詰まったコンビニの袋。右と左を交互に動かしながら走る。中に入っているコーラ、家に着いたら爆発しないよな。そんな事を考えていた。

マンションだらけのベッドタウンに、小さな公園があった。危険という理由で野球もキャッチボールもできず、ブランコも無くなるような公園だ。

なにかが光った気がした。

「ひと、か?」

アスファルトに咲く一輪の花の様に、都会にある小さな自然公園。そこを拠り所にするように人が居た。

雨の日の公園に、木の下で小さく体を丸めている。女性だった。金髪の外人さんのように見えた。

風邪をひいてしまう。そう心配した。けれど、すぐにありふれた光景だとも思った。駅に行けば、雨をしのいで寝ている人がいっぱいいる。そんな人、ひとりひとりに大丈夫ですか?と声を掛ける人なんて僕は知らなかった。

都会は人が多すぎる。そのくせひとりひとりに配慮する余裕も時間も無いのだと思っていた。

僕も都会の人間だ。これは都会では、よくある光景だ。だから、僕の見慣れた光景だ。

髪を金髪に染めた家出少女が行き場を無くしているのかもしれない。

旅行中の外人さんが、ホテルを見つけられなかったのかもしれない。

どうせ、そんなところだろう。

だから、靴を履いてないのも知らないし、まして雨の中で寒がってるのも俺には関係ない。白いワンピースのような恰好でずぶ濡れになっていても、こんな辺ぴな場所で終電が無くなる時間に行き場に迷ってるのもきっとそれは自己責任だ。

俺には関係ないし、寒さやその身の上の境遇にも共感はしない。してたらキリがない。

ああ、そうさ。

僕はそう思う自分が本当に嫌いだ。

「すみません。大丈夫ですか?」

怯えないように、ゆっくりとした足取りで遠くから声をかけた。

目と目があった。暗い中でもわかるほど明るい綺麗な目の色をしている。顔の整った女性だった。長い髪が水にぬれて張り付いている。

「―ァ――ウ――ッ」

女性が何か言った。

僕には聞き取れない言語だった。

顔を横に振って、わからないと表現した。

日本語や英語で話しかける。携帯電話を差し出して、友人に電話させる。

思いつくコミュニケーション手段に、良い反応は得られなかった。

女性は口を一文字に紡ぎ、下を向いた。

参った。言語の壁が厚い。

ただ、他の人を待っているような印象も受けない。打ちひしがれてここに居るような印象を受けた。

できることは一通り試したと思う。もう僕にできることは無い。

警察に身元不明の人がいると通報したら保護してくれるのだろうか。

「すみません」

そう言って僕は立ちさろうとした。

「―――アッ」

言葉は通じないけど、いま言った言葉はわかった。

助けて、だ。

「僕の家、来ます?」

立っている僕は、座ったままの彼女に手を伸ばした。

伸ばした手が触れ合った。ようやく少し通じた気がした。

繋いだ手を引く形で歩き始めながら僕は思った。

これ、誘拐になったらどうしよう。

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