ある秋の日のこと

@Ryotabc

第1話

「うぜえんじゃあ、お前よお」

イキリだった男子生徒が立ち上がり、こちらを睨みつけてくる。

「お、立ち歩きだぞ」

教壇に立つ男は、数を数えるように、その骨太な人差し指を立てた。

続けて、冷たい微笑みをと共にこう放った。

「警告したぞ」

「はあ?チクるかあ?やってみろよ」

男が歩みを進め、少年に近づくほどにその生徒の表情は強張っていった。

男には、奇妙な冷たさがあり、その場を楽しんでいるかのようにも思えたからだ。

ことの一部始終を見守る他の生徒大勢には、表情がない。

「うざいっていうのは、鬱陶しいってことだよなあ。チクるっていうのは、どういうことだろうか。あと、これが一番重要。その二つに共通する主語は何なんだ?」

「はあ?主語?」

「分かんないか。じゃあ、君が主語っていうことでいいね」

あくまで、その声は優しく、そして冷たい。

男は差し出した人差し指を貼り腕を絞り上げるように伸ばし、男子生徒の額に当てた。

「あ…あ…」

「君は、鬱陶しいんだよ。そう君自身が思っている。それゆえに自分の振る舞いに無関心だ。これやるよ」

教師らしき男は、今や正気を失った少年の腹を左手で持ったカッターナイフの持ち手で突いてみせた。

少年は、多少の躊躇いも見せず、カッターを男から受け取った。

ドドッ、ドサッ

虚ろな表情のまま膝から崩れ落ちた少年の手から錆びたカッターナイフの刃が転げ落ちた。

その本体はガッチリと彼の右手に掴まれたままであった。

燃えるゴミの日の日に出されそうな、けれども傷一つ付いていないその身体を覗き込む者は、誰もいなかった。

「さて、今日はここまでです。次は何かな、また連絡します」

教壇に歩いて戻った男は号令をかけてもらうよう学級委員に命じようとしたが、

委員どころかそもそもその教室の生徒は全員、まだ目を醒ましていない。


男が自分の身に起きていることに気が付いたのは、そこまで昔のことでもなかった。

学生の頃から身体の調子を崩しやすかった男は、大学一回生のとき、ある春の木漏れ日に目眩を感じたことをも不思議には思わなかった。

しかしその目眩は毎日男のもとにやってきて、その度に異様な気分の悪さと幻覚を引き起こしていくのであった。

今思えばそれらは白昼夢であって、自らに精神が何か伝えようとしていたのか、それとも外でもない神さまからのメッセージだったのかもしれない。

しかしながら男は元来、「スピリチュアル」な考え方というのは都合の良いものだと感じていたし、節目節目にしか何かに縋り頼もうとしない人間の気持ち悪さに嫌気がさしていた。

それゆえ、自分がその超自然的な出来事の前に引っ張り出された瞬間には、とてつもなく慌てふためいてしまったのであった。

目眩とは、一線を画している現象なのかもしれない。

だが実際に眼球がぐるぐると舞っているようで、そのまま放っておくと眼球に引っ張られて顔も回ってしまいそうなのだ。

だから男は瞼を閉じる。

すると、そこには真紅と暗黒の狭い空間。

藁で一杯になっている寒く空調の悪そうな建物は、煉瓦と土でできているのか、かなり原始的で人間が生活できるところではなさそうだった。

男は、自分のことを言われているのかどうか分からなかったが、どうやらその場所に入らないといけないように言いつけられたらしい。

今でも、思い出すたびに背中にジトッと汗を感じる。

奇妙なことに、瞼を開けているときにその幻想をイメージさせるのは、採血をしているその注射器を眺めているときなのだ。


その春の日、いつもと同じように瞼を開けた男は、いつもとは違う状況にいた。

「何で落ち着いてんだ、オレ」

まさにそう、映画なんかで見る(ビルから落ちる時とかに)体感がスローになる演出みたいだ。起こったことに驚いては、いる。しかしそうしていながらも、自らと会話しては可笑しいななんて俯瞰している自分もいた。

着ていたパーカーのお腹部分に転がり落ちた球体に両手を触れさせようとするのも一苦労で、そうしたらしたで触れてしまったことに後悔してしまうような感触が遅れてやってきた。

「なんじゃああ、これ……」

手の中に収まったそれは、ぬめぬめしていて、毛糸のような赤が走った青白い水晶体だった。

もう片方は僕の顔面にまだ収まっている。

男は、ほのかに香る紛れもない自分の体液の匂いに、奇妙な安心感を覚えそしてゾッとした。

「ああ、目眩がする」

片っぽないけれど。


「ただいまー」

「お帰りなさあい」

挨拶に少し遅れてドアが自動で開く。

自動といっても、あちらからの操作が無ければ開くことはない。

自分の部屋で荷物を降ろし、コップを持ってもう一度事務所に顔を出す。

「もう食前の薬飲んでいいですか」

頷きながら、職員さんが小窓越しに笑顔を見せてくれる。

薬を飲むのが苦手な人もいるそうだが、自分は好きだった。

粉状にされた漢方薬を口に入れ、吹き出さないようにに水を口に含む。

しっかり口内を水分で満たさないといけない。

苦いけど、こうしていると、自分が生きていると感じることができた。

「今日はお風呂ですよ」

ゴミを職員さんに渡すと、そう教えてくれた。

そうだった。心が弾む。

好きなことが多いことはいいことだ。


堺さんとお風呂の時間が一緒になるのは今日が3回目だった。

月曜日と水曜日、金曜日がお風呂なのでこれで一週間このおじいちゃんの背中を見ている。

堺さんは肩から背中にかけて、立派な風神(もしくは雷神)を持っていた。

面白いなと思うのだが、その表情が毎回変わって見える。

堺さん自身は無表情で無口ゆえ、なんとも言えずそれが自然なのだが。

「堺さあん、洗濯物乾いたから置いとくよー」

「あぁ、ありがとさん」

職員さんの言葉に、そう答えたんだろうなあと僕は解釈できた。


たぶんこれは他の部屋でも同じなんだろうなあと推測してみるけど、その部屋の窓は全部開くわけではなかった。ベッドもかなり低いし、飛び降りるところも紐を引っ掛けるところもない。

僕は自分の服を多少着まわしているが、貸し出された服を着ている人たちもいた。

何だか、その館内着もかっこいい。


「いよいよいですねえ。あと一週間ですよ」

愛想笑いが得意な後輩教員は、一緒に冊子を作っている男に共感を求めてきた。

気に食わない。

だけど、楽しみなことは楽しみだ。

「そうやなあ。いろいろ大変やったけど、本番はやっぱり楽しみやなあ」

本当に、そうだ。

男は瞼を細くしながら、淡い桜色の用紙に印刷されたパンフレットの表紙を見る。

『第40回白桜祭 〜絆・響け全員の歌声〜』

男は、この合唱祭の実行委員長を務めていた。

「歌は良いよなあ。全員が一つになる」

声だけでなく、その思考までも重なるのかもしれない。

「そうですよね。こういう行事があるとクラスが団結できますよねー」

特に返事もせずに、男は手を進めた。

もうすぐ、目的を果たすことができる。


いよいよ明日が合唱祭、というリハーサルの時間だった。

男は生徒全員の様子を見て時期を図っていた。

限りなく一つに、なってもらわないといけない。

「もう一度、終わりのところの練習を」

男は音楽教員に耳打ちをして練習を続けさせた。

衣替え間近の体育館。本番は夏服で統一されるが、それもそのはず、生徒たちの額にはうっすら汗が滴っていた。熱気と共に、暖かい声色が体育館いっぱいにこだまする。


私はあなたで

あなたは私で

ならばいっそこのまま目を覚まさないでいたい


周りを取り囲んで見守る教員たちも皆、その歌詞を口ずさんでいた。

その場にいたものたちが本当に、別の世界に行ってしまったような高揚感を持っていた。

男はマイクを持ち、全体合唱をしていた生徒たち200名近くの一つ一つの眼球を見つめながら、その正面の指揮台に立った。


みんな、お疲れさま

本番の感触が掴めたかな?

僕はみんなじゃなくて

みんなじゃないとみんなのことは分からないけど

もっと自由になっていい

きっと良い歌になっていく

疑問を持って疑問をなくして

確信を探して自信を持とうよ

例えばさ

なぜ髭を剃らなきゃいけないのか

普通の道を通らなきゃいけないとか?

普通の道ってどういうんだよ

交友関係が疲れて鬱になったって心が満ち足りてる

それはどうなんだよ いいじゃあねえか

学校に行った価値 努力をした価値 我慢をした価値

その先に勝ちすらなかったからってそもそもに意味がなかったってか?違うね

耳を塞ぐなよ だって君も痛むだろう?

やりたいことじゃなくてもやりたいって顔して

そうやって自分の価値観さえも「直して」

倒してはいけない壁ができたときどうするのか

倒れるんだよ 崩れるんだよ 今度は自分の心が

涙は枯れた 溜めた言葉は溢れてった

今いる安全の先には何があるのか

完全なんてないが前の状態に後退するのは断然嫌だね

怖いし辛いし悲しいよ

でも強いていうなら、いやオレはオレの信念を曳いて生きてるんだ

マイナスなんだよ プラスに行きたいとは思うがゼロじゃダメなんだ

そこでオレの心は枯れたんだ 

オレの先は神のみぞ知る だから勝ちはせずとも身も心もstill 立っているよ


「これでリハーサルを終わります。明日は各自、時間と忘れ物に気をつけて登校するように」

男が踵を返して体育館の出口を向いても、まだ、一人一人が自分の中にある熱気と向かい切れてはいなかった。

しかし個人が動けば集団は速い。

まだ自分と向き合えてはいない子どもたちが、ただ衝動のままに男に駆け寄っていった。

男にもそのことは分かっていたので、何だか悲しいような寂しいような気持ちがあった。

しかし何はともあれ、それで前準備が完了したわけであった。


秋のある日、真っ暗な体育館で、ある男が倒れていた。

ステージには椅子と机で雛壇が作られていて、いつもよりもピアノが生き生きとして座っていた。

男は、まだその歌を聴き続けている。


青い空 雲がない程に蒼いのか

曇り空 雲があるから黒いのか

白い雲の上は蒼いのに

白い息 降る雪 途絶えない息

変わる信号 振動が伝う 鳴り響く警告音

冬の痛みが肌に触れるけど

それは生きているから

ならばいっそのこと

やめてしまおうか

血の紅さは鮮烈で

前列で 見ているあなたには寧ろ黒く

否応なくその美しさに息を取られる

止まれる者は一人もいない

留まってほしいこの夕暮れ

私はあなたで

あなたは私で

ならばいっそこのまま目を覚まさないでいたい



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