星は、はるかに

@monJ

第1話

「星は、はるかに」




 はるか、安心して欲しい。虫は入らないように気をつけて蓋を閉めたから。

 まえに話してくれたよね、虫が嫌いなんだよね。覚えているよ、君が話してくれたことは全部。

 準備は充分にしてきた。お風呂に入って体じゅう洗ってきたし、おかしなことを言って、と思うと思うけれど、浣腸もしてきた。だから安心してくれていいよ、はるか。

 もう安心していいんだ。

 以前話してくれたよね、毎朝、八時くらいにビルのポストに、郵便屋さんの配達が来るって。路地にバイクの音がして、ビルのまえに止まって、走り去る。音が聞こえると君は窓を開いて確認する。去っていったのが赤い郵便バイクだったら、大急ぎで狭い階段を一階まで走り降りて、郵便受けを開く。

 郵便受けになにも入っていないと、帰りの階段がつらい、と言っていたね。五階建ての、エレベーターのない、ひどく古いビルの最上階、階段を上り切ったところに君は住んでいる。もともとは事務所が入るような物件に、シャワーブースをつけて住宅用にも貸している部屋だ。だから玄関がない。床にはもともとは古いタイルカーペットが敷かれていて、そのうえに君はフローリング風のウレタンシートを敷いている。入ってすぐにコンロがひとつと流し台だけの簡単なキッチン、奥にベッドと洋服だんすを置いて、部屋の真ん中に折りたたみ式の楕円のテーブルと、座椅子がある。ほんとうはソファが欲しいけど、部屋が狭いから座椅子で我慢しているんだよね。

 郵便受けに封筒が入っていたときは君は、一階では開かない。

 その場で開きたい、とも思うんだけど、なんか怖いし、それにもったいなくて。それに、階段を上っているあいだだけでも、受かってるかもしれない、って、思っていられるでしょう。

 封筒を大切に抱いて君は、段差の大きな階段をゆっくりと上っていく。ビルの一階と二階にはネジの卸売会社が入っていて、ときどき階段に、小さなネジが落ちていることがある。通り過ぎる君の足元で、一番星のように光る。

 三階は住所兼住宅、おじいさんの税理士さんが、ひとりで生活している。朝、君が郵便をとりにいく時間には、お味噌汁の良いにおいがしている。朝は和食派らしい。ダイエットのために、朝は食べないようにしているのに、おなかが減ってきて困る、って笑っていたのを、おぼえているよ。

 痩せる必要なんかないのに。

 税理士さんの部屋のまえの小さな踊り場には、鉢植えがいくつか置かれている。四階はなにかの事務所、朝も夜もいつも、ひと気がない。

 五階。自分の部屋につく。

 座椅子に腰をおろして、深呼吸してから、君は思い切って封筒を開く。中にはたいてい、A4の紙が一枚きり入っている。星森はるかさま。このたびは、当オーディションにご応募いただき、ありがとうございました。慎重な選考の結果、誠に残念ながら……。

 形ばかりの激励が末尾に書き添えられている。君だけでなく、ほかにもたくさんの不特定の誰かに向けて出されたプリントだ。

 君はがっかりして、そのまま封筒とプリントをゴミ箱に放る。

 洗濯物を回しに行く。ビルの屋上には、ペンキの禿げた貯水槽のまえに住人の洗濯機が並んで置かれている。物干し竿も置いてあるけど、住人は誰も使っていないから、埃まみれで、少し錆びている。隣のビルが邪魔して、スカイツリーは見えない、夜には星が見えるけれども。

 はるか。

 この手紙は君のものだ。不特定の誰かのものではなく、君に、君だけにあてた手紙だ。

 僕の推理によれば、いま、君がこの手紙を読んでいる時間は、午前八時すぎ、予報ではこのさき一週間ほど、天気は晴れだ。君の窓辺には日が射していないかい。

 美しい朝だろうな。

 このように、江口和樹の手紙は書き出されているが、実際には手紙が、星森はるか、本名森田晴美の手で開封されたのは、手紙の投函から三日後の火曜日夕方だった。

 どうして千葉なんかに生まれちゃったんだろうって、思います。

 森田晴美は言う。キャラメル色に染めた髪をふたつにわけて結び、大きな熊の縫いぐるみのついた髪飾りをつけて、はしゃいだ口調で話すが、声質は少し低くて掠れている。長い爪はスカルプチュアだという。自爪はすぐ割れちゃうし、形が悪いんで。子どものころから土間で葱剥き手伝ってたから深爪で。葱、そう、葱なんですよーぅ。

 あたしの実家、千葉の葱農家で。知ってます、千葉って葱の生産量日本一なんだって。知らないですよね。葱がどこから来るかなんて東京の人は。

 アイドルには子どものころからなりたいって思ってました。モー娘。に憧れて。若い子たちはAKBって言うんだろうな。あたしが子どものときにはAKBとかなかったですから。秋葉原とかどこ? って感じでしたから。モー娘。オーディション会場まで行って落ちたり。クラスの子と会場で会ったけどお互い知らないふりしてね、おめーがアイドルって、正気? って顔の子だったし。なのに帰りの電車どうしてもいっしょになっちゃうの。本数ないし車両少ないから。超気まずいですよ。いすみ鉄道、知ってます? 知ってんだ。やだー、鉄っちゃんさんですか。

 これでも高校では成績良かったんですよ。学校推薦で農協に就職決まって。うわっ、て響きでしょう。の、う、き、ょ、う。でも地元じゃエリートなんすよ。

 ほんとは進学したかったんです。ファッション系の。デザインとかメイクとかお勉強できるところ。でも親が行くならうちから通えるところにしろって。千葉市とかでデザイン専門学校、ありますけど、千葉ですよ。なんかー、がっかりじゃないですか。そんなところ通ってどうすんの、みたいな。千葉ですよ。

 千葉でもね、もっと東京に近いところだったら、違ったのになと思う。浦安とかね。葱剥き手伝って爪傷めたり、家じゅう葱と泥臭かったりしなかったんだろうな。ディズニーランドですよ。年間パスポートですよ。そういうところに生れてたらあたしだって、もっと早くにオーディションとか受けられたかもしれない。十八じゃねー、遅いんですよ。最近のかわいい子たちは、みんな十二歳とかで事務所に入るから。でもうち田舎だから、小中学生の小遣いじゃ東京にいく交通費も出せないし、高校生になってもろくにバイトする場所もなくてやっぱり、いっぱいオーディションに出るにはお金なくてねー。とりあえず農協に三か月勤めてお金貯めて、東京に出ることにしました。

 東京に出てからはずっとここの部屋です。狭いしエレベーターないしお風呂がね、シャワーしかないから安かった。シャワーもね、換気扇ないからふつーに使うと、部屋中湿気で壁とか服とかべたべたになっちゃうの。ありえないでしょ。しょうがないからシャワーするときは少し窓あけて換気して。五階だから我慢できなくはなかった。それに歩いて秋葉原まで行けるからバイトにも便利だし。この場所でこの家賃ってなかなかないし、それでもさすがにねぇ……引越したいかなぁ。

 もうシャワー使えないし。うん、もう使ってない。店の近くの漫画喫茶でシャワー借りてる。嫌だもん。蛇口のお水も飲んでないし。しょうがないからトイレは使ってるけど。引っ越したいよ、引っ越したいけど、お金がねー。

 ケンチにけっこう、貸してたんですよ。返してもらいたいんだけど、あそこのママにねぇ、言いづらいっしょ、やっぱ。でもお金ないとあたしも困るしぃ。

 返してくんないかなあ、ケンチママ。

 紙? そんなんないですけど。手帳に書いてますよ、ほら、見てみて。ここにね、ケンチ、一万円、とか。返してもらえたときは赤で消して。あたし、お金数えるのはうまいんですよ。お店のレジ閉めるときも、タテカンとヨコカンできますから。そうそう、お金をー、扇子みたく開いて数えるやつ。農協の窓口で覚えたの。たまにお店でもお客さんにやったげるんですけどぉ、馬鹿うけ。

 うん、そう。ほとんど数字、消してないでしょ。返してもらってないから。ちゃんと数えたことないけど、いくらくらい渡したかな。最初はたまに渡してたんですけど、生活苦しいって言われると、やっぱ、しょうがないなって。やだー、好きだから、とかじゃないですよっ。付き合って四年も経つともう惰性じゃん。なんかー、別れてないだけってかんじ。んーでも頼られると断れないっていうか、そういうのが、いけなかったのかもね、ケンチ超おかしいかんじになってきちゃって。最初に殴られたのはけっこう最近、かな……うーん、でもけっこう付き合いはじめからキレてましたよ。腹減るとキレんだあいつ。わけわかんない。とりあえずなんか食わせれば落ち着くんですけどぉ、ポテチとか。去年あたりから、メシじゃごまかせない感じになってきたっていうか、金金金、みたいな。イベントもあんま出れなくなってたみたいだしね。声がかかんなくなってきたっていうか、詳しく知らないけど、誰かと問題起こしたの、みたいなかんじ。

 DJって横のつながりだから、どっかのハコで先輩さんと問題とか起こすと、声がかかんなくなってくるんですよぅ。インディーズのほうも、ミヨちんPさんとはあたし、いまでも連絡とってんですけど、ミックスとかエンコ頼んでもぜんぜんだから声かけんくなってきたわーとか。アキバでも仕事してないんならどこでやってんのって。でも夜はいないし。また金貸せって言われて、えーなにやってんのって。聞いたら殴られたんだよねえ、そう、この部屋で。

 殴られるのはけっこーあたし、慣れてて、やだーびっくりしないでくださいよぅ、うち父親殴るヒトだったから。ううん、虐待とかじゃなくて、しつけ、しつけ。妹も殴られてた。から、痛いのはびっくりしなかったんだけど、なんかいきなり泣きだしたからそっちに驚いて。

 俺は最悪だ、三十近いのに仕事もない、おまえのせいだ、とか、ワーワー泣いてんですよ。ボーゼンですよボーゼン。あたしもう駄目だー千葉帰るよーとか言ってもね、ケンチいつも、勝手に帰って葱でも剥いてれば、みたいに言うわけ。クールっぽく。それが泣いてるし、あたしのせいだとか言うし。はあ、なに言ってんですかこの人、てぼんやりしてたら、ケンチ立ち上がって、帰るのかなーとか思ってたら、そこから蹴られてボッコボコ。お腹すごい蹴られて、吐いちゃってもう……、気絶しちゃってね。朝、起きたら、臭いし! 臭いんですよ、吐いた物そのまんまだったから。あいつ、掃除もしねーで財布持っていきやがって。月末までの生活費入ってたのに。ひどいよね。

 うん、でもそれ序の口でぇ、それから、ときどき来ちゃあ金持ってくようになって。返してよっていうと殴るし。しょうがないから手帳にこっそり書いて。正気に戻ったら返してくれねえかなって。なんで別れなかったんでしょうねえ。なんでかなあ。

 好き……じゃ、なかったですよねぇ。もう。

 うーん、そうだなあ、夢の名残り、ってやつかなあ。てへっ。てへへへへっ。

 ミヨちんPさんとこのプロジェクトではじめて会ってー、ケンチにミックスしてもらってイベントいっしょにやって、楽しかったなあ。お客さんも踊ってくれたし。続けてれば、パフュームさんとかみたいになれると思ってたの。なれるわけないじゃん。なれるわけないんですよ。でもね正直、パフュームさんだったら、あたしのがかわいいかなって思いませんか。

 ダンスはあたし下手だけど、プロになってもっとお金かけてレッスンすれば上手くなるものだと思うし。プロジェクトは終わっちゃったけどあたし、ダンスのフリーレッスンはいまでも入れてんですよ。

 なんでアイドルになりたいか、ですか。みんな聞きますよね、わりと。なんで聞くのかなと思うけど。あたりまえじゃん。女の子は誰でも、アイドルになりたいんですよ。

 だってアイドルになれたら、可愛いって証拠になるじゃないですか。

 ほかの女の子たちより、きれいで可愛くて、価値があるから、アイドルに選ばれるんじゃないですか。

 目標に向かって頑張れる人と、そうじゃない人がいるだけです。

 もちろんいまでもなりたいですよ。グラビアなら、三十歳過ぎてブレイクする人たちもいるじゃないですか。あたしもそろそろ若いって年じゃないから、グラビアでお色気、みたいな方向にいくしかないかなあと思う。

 そんなこと言ってたら、ケンチが、中野さんに会ってみないかって。ううん、無理やりとかじゃないですよ。知り合いにグラビアに顔効く人いるから紹介してやろうかって言われたの。はじめて、あの馬鹿、飼っといて良かったなと思いましたね。馬鹿ってケンチのことですよ。ふふふ。

 森田晴美はそう語ったが、江口和樹の手紙では、少し事情が異なる。

 はるか。

 水曜日、ふぇありぃかふぇに行ったとき、君のようすがおかしいと、僕はすぐに気づいたよ。

 君の笑顔はいつもパワフルで、僕は心の底から癒される。店に行くたび、君は僕の目を見て、楽しいですか、江口さん、と聞いてくれる。江口さんクールだから、静かだから、心配になるんです、楽しいですか、泣いてませんか。

 けれどあの日の君の目は、明るさを失っていると、僕には感じられた。ふだんの君は、ほんとうに、まっすぐにはとても見つめられないほど、輝いた目をしているんだよ、はるか。星が弾けているみたいに。

 心ここにあらずというふうの君を、心配ごとがあるのだろうかと、僕は、気遣いながら見た。ふぇありぃかふぇのメイド服は、袖口がふんわりしてカフスがないから、注意深く観察するとときどき、手首から肘くらいまで、肌が見える。気持ちの悪いことをいってごめんね。でも僕は心配だったから、とても心配だったから、あるときから君の袖口や、襟首や、スカートぎりぎりの膝のあたりなんかを、よく見るようにしていた。

 ケンチくん、だっけ。

 店の入っているビルのまえで、会ったことがある。覚えているかな。彼と君はなにか言い争いをしていた。どうも雰囲気が良くない、割り込もうか、と思った、瞬間だった。

 君が笑った。

 見たこともない艶やかな笑顔で、彼の腕に、すこし触れた。

 それから君は僕に気づいた。おかえりなさいませ、江口さん、と、君は、元気に言った。瞳には、見慣れたきらめきが宿っていた。

 いつだったか、ご主人さまというガラじゃないから、名前で呼んでほしい、と頼んでから、君はいつも名前で呼んでくれてたね。ほかのメイドさんたちは、決まりだから、と、どうしてもご主人さまと呼ぶのに、君だけ。

 君はケンチくんを、友だちです、と紹介してくれた。ケンチくんはどうも、とだけ言って、店には帰らず帰って行った。貧相な男だな、と思った。

 痩せて、靴が汚れている。

 右手の指の背が、ぜんぶ黒ずんでいた。僕は震えた。

 僕の知っている男が、同じような手をしていたから。

 その晩、僕は店を退ける君を尾けた。誓って言うけど、君が住んでいる場所に行ったのはそれが初めてだ。

 鍵のない出口から屋上に出て、部屋の気配を伺った。

 君は窓をあけて、歌いながらシャワーを浴び始めた。まもなくケンチくんが来た。君の声がした。

 僕は星を見あげた。

 出会った日を思い出していた。君は覚えていないだろうな。

 とても寒い夜だった。

 家から出て、戻れなかった。僕は小銭入れしか持っていなかった。凍えてしまいそうだからとにかく歩いた。秋葉原についたのは、九時過ぎていたかな、けっこう遅かった。電気街は店じまいしていて、開いているのは牛丼屋とラーメン屋くらいだった。どこにも入らず歩いた。末広町の交差点近くで、君は、ビルのまえから店の置き看板をしまおうとしていた。僕を見て、声をかけてきた。

 やだー、そんな薄着でどうしたんですか。この寒いのに。店、すぐ閉まるけど、一杯だけコーヒーいかがですか、あったまりますよ。

 ふぇありぃかふぇの入り口に、僕を追い立てた。ドアを開きながらお辞儀しながら、君は言った。

 おかえりなさいませ、ご主人さま。

 僕は、僕は、僕は、呆然としてしまった。突っ立ってしまった。いまなら知っている、あれは、決まり文句なんだよね。けれども僕は、思いがけなくおかえりなさいなんて言われたものだから、どうしていいかわからなかった。戸惑う僕を君は席につかせて、コーヒーを出してくれた。温かい、というと、そうでしょう、と得意げに言った。

 ほかには誰もいない店の暖房温度を上げてくれた。そして、寒くありませんか、ご主人さま、泣いてませんか、と言った。

 泣いていませんか。

 本当のことを言うよ。僕はあのとき、死に場所を探していた。簡単に線路にでも飛び込めば終わると思っていたのに、踏ん切りがつかなかった。君のコーヒーを飲みながら僕は、明日もこの店でコーヒーを飲もうと思った。つぎの日も、そのつぎの日も、僕は生きた。

 はるか。

 僕はときおり屋上から君の部屋の物音を聴きにいくようになった。君は大人の女性だし、恋愛は自由なのだから、君が彼を選んでいる限り、むやみな手出しはいけない、どうしてもというときまで、見守るだけにすべきだと考えていた。ケンチくんに傷つけられても君は、あくる日には彼をうれしそうに迎え入れて、けして泣かなかったし。ただときどき、あまりにも状況が心配なときは、君の窓辺に降りて、部屋をのぞいた。殴られた君が倒れているのを、何度か見た。

 いつ、どのタイミングで君を助ければいいのか。

 水曜日、いつものようにコーヒーを運んで来ながら君は、どこかぎこちなく笑い、あたしと会えないあいだ、泣いていませんでしたか、江口さん、と言ってくれた。眼のふちが赤かった。いつもよりお化粧が、厚ぼったいなと思った。こめかみに、化粧で隠しきれなかった痣が見えた。誤魔化すように頬骨に、銀色の、星型のシールが張られていた。泣いてないよ、と僕は言った。君こそ、泣いてないのかい。

 僕からそんなことを言ったのは初めてだった。君はおどろいた顔をした。えー、泣いていないですよ、と言いながら、コーヒーとミルクをテーブルに置いた。やだおかしい、そんなことはじめて言われちゃった、あたし泣かないんですよ。子どものころとか、叱られて妹は泣くんですけど、あたしは強情で泣かないから、余計に親に怒られてー。

 よく泣く女の子のほうが、かわいいですよね。かよわくて、守ってあげたい感じするし。AKBの子とかもよく泣くもんね。あたしも泣く練習しようかなあ。

 この、きらきらのせいかな、泣いてるように見えますか。ドンキホーテで買ったんです、メイク用のシール、リサちゃんといっしょに、可愛いでしょう、リサちゃんは涙型の買ったんです、あたしは星にしたの。ウィンクして、星が飛んだみたいでしょう。キラッ。

 君は朗らかに言った。化粧で誤魔化していたけれど、はっきりとまぶたが、腫れていた。

 そうだね、星がよく似合っているよ、と、僕は言った。

 そのときが来た、と、わかった。

 店から出ていったん帰宅して、夜、僕は歩いて君のうちに向かった。まだ真冬というわけではないのに、君に出会った夜のように寒かった。雲はなく、夜空が冴えてきれいだった。ビルに着くと、部屋にはすでにケンチくんが来ているようだった。君が泣きながら叫ぶのが聞こえた。君のそんな声を聞くのははじめてだった。

 それだけは嫌だ、と君は繰り返していた。やっぱり嫌、それだけは嫌、ケンチ、お金のためにあたしに中野さんと寝ろっていうの。いまさらなに言ってんだよもー、だいたいさー違うって、おまえのためになるんだって、グラビア出たいんだろ、雑誌出たいんだろ、中野さん顔広いから紹介してもいいって言ってくれてんの、いい話じゃん。嘘、嘘だ、あんた、あの人がどんな人か知ってんでしょ、いくら借りたのよ、それともお金じゃ返せないような借り作ったの。わっかんねー女だなーそんなんじゃねーって言ってんだろ、いいから黙って行けよ。嫌よ絶対嫌。なにが嫌なんだよセックスなんかたいしたもんじゃねーだろう、俺のこと気にしてんなら平気だから俺そうゆうのぜんぜん気にしねーし、だいたいおまえ、今だってどうせ金で客とヤってんだろ。

 君のドアの近くの暗がりで、僕は一部始終を聞いた。やがてケンチくんが部屋から出てきたので、追いかけて、しかるべきところに連れていった。

 だからね、はるか。

 ほんとうに、もう、なにも心配しなくていいんだよ。君は自由だ。ケンチくんのために、泣くほどしたくないことを、しなくてもいい。

 最後に謝らせて欲しい。僕はこれから、君を困惑させるだろう、嫌な思いをさせるだろう、わかっているのにやめないのは、完全に僕のわがままだ。

 インターネットで調べたら、以前、愛知県のショッピングモールで、似たような事例があったらしい。衛生上はなんの問題も見つからなかったそうだ。先にも書いたけれど、僕は充分に準備してきた。君やビルの人たちの健康にいっさいの被害は与えないと誓う。

 えーっ、江口さんからの手紙読んだとき、ですかぁ、そりゃもう、ビビりましたよー。

 気持ち悪いですよーあたりまえじゃないですか。あの人が見つかるまではね、あたし、普通にシャワーとか水道の水とか使ってたし。うん飲みましたよ、あたし朝はコーヒーだけなんですけどインスタントの、やだー思い出させないでくださいよー死体入りの水ですよーうわーやだーやだやだやだやだやだあんま深く考えないようにしてんですようー、もう、しょーがないし。

 まさか、うちの貯水タンクに、江口さん……が、入ってるとは思わないですよねえぇ……。

 あたし毎日は郵便受け見ないから。郵便なんか来ないもん。オーディションのエントリーも返事も最近ほとんどメールかネットだし。チラシ溜まったらネジ屋のおばちゃんに怒られるから片付けるくらいで。ちゃんと毎日見てればすぐ、手紙にも気がついたのかなあ、そしたら江口さんもねぇ、もうちょっとはやく見つかったのかなあ。

 最初ねえ封筒分厚いし、お役所かなんか税金払えとかそうゆうのかなと思って開けたら中身がね、アレでしょ、どーしよーどーしよーって、ケンチに連絡したら繋がんない、繋がるわけないんだけどね、わかってなかったからそんときは、そんでミヨちんPさんに連絡したら、はるか警察に通報だ、って言われて、あーそーだ警察、いたよねそういうヒトたち、いたいたと思って電話したら最初、若めの女の人がハァなんですかいたずら電話ですかみたいな対応で切ろうとしたらなんかおじさんに替わって、いますぐ行くから部屋にいてくださいとか。手紙だけ渡せば終わるのかと思ったらー、なんかあたし、警察に連れてかれちゃって。取調べですよ。ありえないですよね。

 江口さんとの関係とか聞かれてもー、ただの常連さんだもん。お店でしか会ったことないし。向こうはあたしの部屋知ってたみたいだけどあたしは知らないし。携帯もメアドも知らないしねえ。警察のヒトたち、ケンチ殺してよって、あの人にあたしが頼んだとか疑ってんですよ。そんなんするわけないじゃん。貸した金も戻ってこなくなんのに。

 死ねって口で言うことはあるけど、本気でね、死んでほしいなんて思うわけないじゃん。よく知ってる人のこと。

 うん、ごめんなさいね、そんなに悲しいわけじゃないけど、泣きたいわけじゃないけど、うまく息とかできなくなっちゃって。はい、大丈夫です、話、続けますね。

 ケンチ、神田川で見つかったそうですね。お葬式は行ってないんです。呼ばれなかったし、あたしが行ってもケンチママもパパも微妙でしょ。棺桶の蓋の窓のとこも閉めて顔は見えないようになってたって行った人が言ってた。遺影も高校生のときのやつだったって。実家に最近の写真なかったのかな、写真くらいあげれば良かったな、アホみたいに写メいっぱい残ってるのに。笑えるやつもいっぱい。全身殴られて、何百ヶ所も骨折してたんですよね、テレビでやってました。ひどい死にかただよね、かわいそう。

 そうです、江口さん、あたしがナンパしたんです、最初。

そうだし関わり合いにならないよーにしとこって看板片づけてたら、ぐうぜんあの人の右手が目に入って。指の甲、っていうのかな、ゲンコツにすると外がわに出るほう、そこがね、黒っぽくなってたの。

 衝動的に、声をかけていました。

 うちのお父さんがね、おんなじような手、してたから。

 人間の手って、案外弱いんですよ。素手で殴ると、痣ができて腫れるの。痣が直らないうちにまた殴ると、だんだん色がね、もとに戻らなくなるんだよね。それで黒くなっちゃうの。

 お母さんが言ってた。殴る人はほんとうは、かわいそうな人だって。弱い人だって。殴るのは、気持ちが泣いてるときなんだって。

 知るかよ勝手に泣いてろよ殴んじゃねーよ、と、思うでしょ。うちの母親もねー、子どもにはこんなこと言っといて離婚して逃げましたからね。そんなのはどうでもいいんですけど、あの人の手を見た瞬間あたし、ほっとけなくなっちゃって。

 お店に誘って、コーヒーを出しました。もちろんお金はとりましたよ。

 コーヒー飲みながらあの人、うつむいていて、泣いてるように見えました。ほっぺたは乾いてたんだけどね、悲しくて涙が止まらない人のように見えたの、どうしてかな。

 それからあの人、お店に通ってくれるようになりました。格好が変だったのは最初だけで、あとは寒い日にはちゃんとコート来てました。すんごいいいコート。ぜんぜん笑わないしほとんど話さないから、ほかのメイドちゃんは怖がってたけど、いいお客さんでしたよ。静かだしセクハラもしないしおとなしいし長居しないしねー。

 江口さん結婚してたんですよね。あんなに話さない人がどうやって結婚したんだろう。奥さんテレパシー使えたのかな。テレパシー使えたら逃げるか。どんなにイケメンで金持ちでもねえ、自分のこと殺すまで殴る旦那と結婚したいとは思わないよねー。

 江口さんの奥さんもかわいそうですよね。一年近くもおうちの、ベッドにいたんでしょう。お葬式もしてもらえないで。奥さんの家族とか、お友だちとか、いるのかなあ、どうして助けなかったんだろう、気がつかなかったのかなあ、気づいてもなにもしなかったのかなあ、ありがちだなー、他の人のことなんか、ほんとはみんな興味ねーもんなー。

 あのねえあたし、江口さんが死んだとき、シャワー使ってたんじゃないかと思うんです。心当たりがあるっていうか、それで余計、シャワー使いたくなくなっちゃったんですけどー……。

 はるか。

 僕は、君に救われて、君に逢いたくて生きてきたけれど、ほんとうは一番、君に近付いてはいけない人間なんだ。

 僕は、僕の拳は、僕自身には為すすべもなく僕の、近しい人を、傷つける。

 君からは去らなければならない。わかっているのに、最後に一度だけでいい、君に触れたいという望みを、どうしても諦めることができない。

 君に触れ、君の中に入りたい。

 だから自分の最後に、君にいちばん近づける場所を選ぶことにした。

 はるか。はるか、はるか。

 はるか。

 あの日はー、ケンチがブッキングした、中野さんに会う約束の日だったんで、出かけるまえにシャワー浴びてたんです。したら途中で水の出が悪くなって、止まっちゃったの。焦りましたよー髪もちゃんと流せてないし。そのまま出たらベッタベタじゃないですかー。

 最初シャワーだけ壊れたのかと思ってたからしょーがねーな台所で洗うかって。部屋に出てきてー、水道捻ったら最初だけ水が出て、また止まっちゃったの! もうねアタマ中途半端でどうしようかと思ったけどとりあえず編んでお団子にして乗り切った。

 うん、最近も、中野さんと会ってますよ。ううん、無理やりとかじゃないですよー、手紙には、なんか勘違いしてんのかなってこと書いてあったけど。

 本人はギョーカイのヒトじゃないんだけどー、いろいろ知り合いに紹介してくれるんですよ。うん、今日も、中野さんの知り合いに会うんです。

 雑誌にコネがある人なんだって。出られるとしてもアイドル枠じゃなくて素人枠みたいなんですけどー、とにかくメディアに出ないと、なんにも始まらないしね。

 嫌がってるとか、ないですよぉ。

 お仕事ですからね。売り込みしなきゃね。頑張らないと。うん。

 やだ、ほんとですよ、大丈夫ですってばー。

 あの、いまのあたしの話し、記事になるんですか。雑誌にあたしの写真載せてくださいよー記者さん。モザイク要りませんから。名前も勤め先も書いてくれていいですよ。ほんもののアイドルだったらこういうストーカー? みたいなスキャンダルってー、マイナスだろうけどあたしには、チャンスにねー、繋がるかもしんないし。

 あたしがシャワー浴びてたとき、江口さん、貯水タンクで溺れたんですかねえ、死ぬまでのあいだ、あの人が体で給水とかのパイプ、塞いでたんじゃないかなあ。死んだら浮くもんね。うわ、やだ想像しちゃった。

 大家さんに連絡したのはネジ屋のおばちゃんみたいですよ。水が出ないって。あたしはー、だから中野さんとこに出かけたから。帰ったらビルにいっぱい人がいて、水は出るけど使うなとかって最初言われるし。テレビの取材が来たとき、どーして帰ってなかったんだろうなあたし。ネジ屋のおばちゃんテレビに出たんですよ。ありえません。あたしがいたら絶対出たのに。

 貯水タンクで自殺するって、どんな感じなんですかねえ。苦しいですよね、やっぱり。出ようと思えば出られるじゃないですか、あんな狭いとこ。なのに息ができないの死ぬまで我慢するなんて、どうしてそんなことできるんだろ。わかんないなあ。

 いまでも漫画喫茶でシャワーするとき、考えちゃうんです。この水が出てるところで、貯水タンクで、また誰かが溺れてたらどうしようって。すごい焦ってー、アタマ真っ白になってあたし、裸のまんまシャワー室から飛び出しそうになったことあった。そんなんしたら漫画喫茶のお客さんもびっくりですよね。大サービスすぎですよ。いやあ未遂で良かったぁ。

 江口和樹は両親に宛てて、もう一通手紙を遺している。江口のマンションから発見されたそれには、妻と田代謙一殺害についての詳細が書かれている。森田晴美に容疑がかからないように、江口が最後まで気遣っていたことが窺える。

 はるか、僕はいまから、水になる。

 肉も骨も皮膚もなにもかも分解されて、風や土や、人ではないものになる。怒ったり、妬んだり、嘆いたり怨んだりする心などいっさい持たない、ただの物体に。

 僕という罪深い人間はいっさいいなくなり、ネジや鉢植えの花、ひっそりと君を見守るささやかなものたち、それらと等しくなって、ようやくはじめて僕は君に触れよう。

 いま、君の窓辺に、風が吹いていないかい、はるか。

 それは僕だ。

 君の肩に落ちる雨、君の足元で跳ねる泥、君に微笑みかける花、強い日差しを遮る雲、舞い上がる木の葉、指先を温めるコーヒー、それも僕だ、僕だ。

 君の目に映るすべてが僕だ。

 あの晩、君に出会った夜、自分への呪詛と嘆きのなかで捨てるはずだった命を、いま、僕は喜びをもって手放すことができる。すべて君のおかげだよ、はるか。

 この、小さなビルの屋上で君を思い、君を見守りつづけたいくつもの夜、僕は、夜の空が美しいものだとはじめて知った。太陽は隠れ、人は寝静まり、誰に眺められなくても、星はそこにあり、ともにあり、ひそやかに輝き続けている。

 忘れないでくれ。僕が星のように、どんな暗いときでも、君とともにあることを。

 僕の命。僕の光。僕のすべて。

 はるか。

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