妖しい女子高生
河村 珀
プロローグ
オバケのことを言ってはいけない
この世に生まれて十七年。
すり傷から骨折まで、数えきれないほどのケガを乗り越え、ここまで生きてきた。そんな私の一番古い記憶は、病院での診察シーンだ。
当時、私は五歳だった。ということは、十年以上前の体験なのに、やけにはっきりと覚えている。
白くかすむ視界と真っ赤な血、響き渡る叫び声。
そのすぐあとに起こった辛い出来事と相まって、いまだに脳裏にこびりついて消えない。
淡いピンクの壁紙に囲まれた診察室。デスクの隅にはウサギのぬいぐるみが置かれていた。
私はイスに座った母に、すっぽりと抱かれている。目の前の医者は、ピンクの白衣を着た女の人だ。ケガの治療を終えた私の左手には、真っ白な包帯が巻かれていた。
「この程度なら大丈夫。しばらく経てばきれいになりますよ」
先生が微笑み、診察は終わった。
それなのに母は動かず、先生に向かって訴えかけ始める。
――この子は、オバケにやられた、と言っている。こういうことは初めてではなく、しょっちゅうケガをしては、そのほとんどにオバケが出てくる
そんな感じのことを切々と。
カルテに目を落とし、うなずきながら聞いていた先生は、私に視線を移した。彼女はぐっと腰を折り、私と目の高さを合わせると、にっこりしながら問いかけてきた。
「お名前、言えるかな?」
とても優しそう。
「
「おりこうさんね」
それから先生とオバケの話をした。
すでに周囲の大人たちは、うんざりした顔をするようになっていた話だ。それなのに先生は、私の目の奥をのぞき込みながら、じっと聞いてくれる。すごく嬉しかった。
しかし話の途中で、私の口は唐突に止まってしまう。先生の机の下から、なにかが飛び出すのを目にしたからだ。
骨ばった赤黒い腕。
それが机の上に伸び、醜い爪の生えた指先がバッとカルテを払う。
ひょいと頭を下げてのぞき込むと、暗い影の中に潜むモノがいた。
猫が立ったほどの大きさだ。頭の
「今ね、ちっちゃい鬼が紙に触ったんだよ」
すでにその頃、私は鬼というものを知っていた。絵本にだって登場する悪いヤツ。
せっかく教えてあげたのに、床に落ちたカルテを拾い上げた先生は、ふうと息をついて困ったように眉を下げる。
「見夜ちゃんは今、鬼の夢を見ているんだよ」
「夢? でも、そこにいる」
私が指差すと、鬼は「キキッ」とかすかな声を立てた。
「ね? 今、キキッて笑ったよ」
先生がお尻を左右に動かすと、イスがキイッと鳴る。
「イスの音だねぇ」
困り顔の先生は、そう言って私の頭をなでた。
やっぱり先生も……。
私は心底がっかりして、分かってもらえない恨めしさを込めた目で先生を見上げた。
「見夜ちゃん、寝ているときに夢って見るでしょう?」
私は口をへの字にしたままうなずいた。先生もゆっくりとうなずいて続ける。
「今、見夜ちゃんの目は先生を見ている。でも、頭の中は鬼の夢を見ているの」
「寝てないのに?」
「そう。まだ子どもだったり、頭を強くぶつけたりするとそういうことがあるのよ。起きていても夢を見て、目で見ているモノと、夢で見ているモノが一緒に見えちゃうの」
さっき見た小さな鬼は夢?
今は奥に引っ込んだままで見えない。
あれって本当はいないの?
そのときドアが開いて、看護師さんが入って来た。
すると、机の下から鬼がピュッと飛び出し、看護師さんの足元をすり抜け、すごいスピードで診察室から走り去った。あまりのすばしこさに目を奪われる。
私が
「見夜ちゃん、どうしたの?」
先生はクイッと口角を上げて笑顔を作り、診断結果を告げてきた。
「オバケの正体は夢よ。鬼も夢なの。そのうち見えなくなるわ。わかった?」
私はきつく唇を結んだまま、うなずくことはできなかった。
先生は母に顔を向けると、やはり口元に小さな笑みを浮かべて言う。
「小さなお子さんには、まれにあることです。まだ脳が発育途中なんですね。もう少し大きくなったら
「はあ……」
母が不満げな声をもらし、診察は終了した。
診察室を出ると、母はすたすたと歩を進めて
ぐっと涙を飲み込んで、母に追いつこう、と廊下を駆け出す。
その瞬間――いきなり何かに足を取られてつんのめった。右の足首をぎゅっと握られたのだ。
転ぶ直前、ピンクの長椅子の下に寝そべった鬼が、手を伸ばしているのが見えた。
バッターン! ガン、ガッコン、ゴロン、ゴン! ――ブッシュウーーーーーー。
ぶわっと目の前が煙って、慌てて目を閉じた。
きゃー、という悲鳴が耳に刺さる。
咳込みながら白い粉の中からはい出すと、目の前に母の足があった。
「ママ……」
助けを求めて母を見上げる。すると
おでこが痛い。
指先で触れると、ぬるりと滑る。私の指は真っ赤な血で光っていた。
あ、まただ。また血が出ちゃった。
私は転んだひょうしに、廊下の隅に置かれた消火器に体当たりしたのだ。それがハデに倒れ、どういうわけか消火剤が噴き出してしまった。
こうして私は再び診察室に担ぎ込まれたのだった。
その日の帰り道、険しい顔をした母は、私に命じた。
――オバケのことを言ってはいけない
足首には小鬼に掴まれた感触が生々しく残っている。
ほんとにオバケはいるのに……。
夢なんかじゃない。
どうしてみんなには見えないの?
口にすれば、母の顔の険しさが増すだけだ。
幼いながらに悟っていた私は、これ以上、母に嫌われたくなくて黙ってうなずいた。
そして、それを守っていたのに……。
程なくして母は弟を連れて家を出て行ってしまった。
原因は間違いなく私。
母はいわゆるキャリアウーマンで、彼女にとって仕事は大切なものだった。しかし、私はケガをするたびに保育園を休み、その結果、母は会社に行けなくなる。当時は
そこへ追い打ちをかけるように、周囲でささやかれていた噂が母の耳に入ってしまう。
――見夜ちゃんは虐待されている。
これが決定打となり、母は私との生活に耐えられなくなったのだ。
もちろん私と父が二人だけで暮らすことなんてできなかった。だって私がいると、今度は父が仕事に行けなくなるんだから。
こうして私は祖母に預けられ、山あいの村で二年近くを過ごすこととなった。
そしてそこで、祖母から大切なことをたくさん教え込まれた。
例えば……
オバケと目を合わせてはいけない。
悪いオバケと目が合うと、意地悪されてケガをする。
米のとぎ方。みそ汁の作り方。
首の後ろに、きれいな
御札が汚れたり、はがれたりすると、オバケは悪いことをするようになる。
食べられる山野草と紛らわしい毒草。
人間には、オバケの見える人と見えない人がいる。
その他いろいろ。
生き続けるための基本を学んだおかげで、小学校入学のタイミングをもって、私はようやく父と暮らせるようになったのだった。
祖母は
私はその血を継いでいた。
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