2 「人違いです」
誰かに呼ばれた?
思考から現実に意識を戻すと、前から身なりの良い青年がやって来るではないか。
ええと、たしか、あれは。どこかの貴族の子息だったように記憶している。
「こんなところにいたのか」
「はい。母のために花を……」
「ああ、母が死んだそうだな」
本当に、軽く言ってくれる。
「花鈴、私の妻になれ」
「……はあ」
心底ため息はつきたかったけど、ため息じゃない。生返事だ。
唐突な話運びでありながら、これも身に覚えのありすぎる話運びだった。本心はまたか、だ。
「妻、と仰られましても」
本当に。
母の生前も、母親が病気で大変だろうとかで、母が死んでからは最近は一人で心もとないだろうとかという理由で急激に増えた。
「身分が……」
と言っておく。
999年ほど、一番上の位にあった記憶を持っていると、その辺りの実感は忘却されている。
普通、平民と貴族は結婚しない。これは重要なことのはず、なのだ。
「お前は美しい。私の妻になるのに相応しい」
理由になっていないんだなぁ。
わたしは、ふっと息をつきたくなるのを堪える。
平民である「わたし」と貴族である「あなた」が結婚してもよい理由を問うているのに、以上の返事は理解に苦しむのだ。
養女はまだ理解出来なくもない。貴族の地位に迎えるから。
けれど、直線的に妻になるのは常識的にないのだろうと理解してる。
「もったいないお話なのですが」
「花鈴、何も心配しなくてもいい。私なら必ずおまえを幸せに出来る」
両手をしっかりと握られた。
「……若様」
「名前で呼んでくれ」
いや、家名の若様とか奥様とかで通してきたし、とっさに名前が思い出せない。たぶん覚えようとして覚えていないからだ。
何だったかな、と思っていると、視界の端っこに何かの色を捉えた。
神子だ。
横目でちらっと見ると、門から、深い青の衣服の塊がぞろぞろと入ってくるところだった。
一直線だ。
今わたしは中央に堂々といるわけではないが、あの幅だと邪魔になる。
けれど、目の前の男は気がついていない。まだ何か言っている。「もう苦労はしなくていい」とか「絶対に幸せにする」だとか。うるさい。
そもそも何が幸せに、だ。幸せの基準なんて人それぞれなのに、そんなに断言できる人間は信用できない。
それより、迷惑に思われたらどうするの。
「すみません、離してください。そのお話は、申し訳ありませんが……」
「いいや、妻になることを頷いてもらえるまでこの手を離さない」
「……」
無言で手を動かしてみたけれど、手は振り払えないし、引っ込められもしなかった。
……もう! 忌々しいな今世の体! 男の手ひとつも振り払えないの!?
柄じゃないけれど、助けて!って叫んでやろうか。面倒すぎる。家を出て街を離れてしまえば、人間関係どうとでもなるだろう。
これが平民のいいところ!
新たに苦労はすると思うけど!
連日の申し出の極め付きがこれで、頭は静かに沸騰しかけていた。いいや、切れかけていた。
手を払いたい。大体、誰だ。ろくに知らないし、欠片も好きではない相手にこんなに手を握られて嬉しいか。
無関心から、気分は不快に傾きはじめている。
ああ、もう!
最早何事か実行するつもりで、無意識に周りの人の具合を確かめるべく見た──先で、目が合った人がいた。
こちらに向かって歩いてくる人たちの先頭だから、自然と言えば、自然。
だけれど。
「──え」
その瞬間、沸騰しかけていた思考も、原因の状況も何もかもを忘れた。
青い衣服を身につけ、同じ色の布を頭から被った人。
かつて、長く見続けていた容姿──
だが、彼も目が合った状態で立ち止まった。
彼は、千年近い記憶の中でも、見たことのないレベルの顔をした。
何を見ているのか、分からない顔。そんな種類の表情自体は見たことはあるけれど、今のは物事が一つ足りとも理解できない、という表情だ。
やがて、ぎこちなく、その唇が一つの名を紡いだと分かり、奇妙な心地に襲われた。
懐かしいような、悲しいような、嬉しいような。
「花鈴、私の妻になってくれ」
「……ぇ」
何の話だったっけ。
びっくり瞬き前を見ると、見慣れない顔が真っ直ぐこちらを見つめていて戸惑った。
誰?
いや違う、確か……うん、何の話をしていたのだったか。今、何て言った?
違う、違う、こんなことしている場合じゃない。こんなところで、のんびりしている場合じゃ。
「──わたし、もう行くから!」
第一にしなければならないのは、離れることだ。と頭が判断した。
今までで一番強く、腕を動かし、手の自由を得ようとする。
「花鈴!」
「離してって……!」
本当に! 本気で!
大至急離れたいの!
「──ここで、何を騒いでいる」
氷のような温度の声が、包丁のように割って入ってきた。
彼は、こんな声を、出すのだっただろうか。
耳に馴染みすぎる声、されど聞きなれない冷たい響きに耳が一抹の違和感を覚えた気がした。
「え、あ──神子様」
わたしの動きは一瞬止まったものの、神子に声をかけられたことで、手を掴む力が緩んだ。そう感じるや否や、わたしは動きを取り戻し、手をするりと引き抜きその場から走り出す。
そうだというのに、
「お待ちを」
手を、捕まれた。
「いえ、そちらのあなたに用はないので、騒ぐのならどうぞお引き取りを」
冷徹な対応に、青年はまごまごしながらも去っていく。
一方、青年よりもこの場を離れたがっていたわたしは離れられない。
「……こちらを見て頂けますか」
「…………」
そんなことを言われても。
黙って俯いていたのだが、顔に手をかけられ強制的に顔を上げさせられた。
予想外すぎて、丸くした目で、まともにその顔を目の当たりにする。
夜空の色の髪色に、真っ黒な目。
見慣れると麻痺するが、その顔立ちは初対面では大層整っていると思ったのではなかったか。真実は定かではない。もう何年前の話だ。
──ああ、
「
黒い瞳がわたしを凝視して、手が、ぎゅっとわたしの手を掴んで離さない。痛いほどの力だ。
「人違いです」
言われた名に、固まりつつも、さっと視線を逸らすことに成功した。
人違いも人違い。わたしは花鈴。生まれて十七年の平民。父はおらず、母が一人、弟一人。母は先日死んでしまって、これから弟を探しに行くつもり。
「……………………ちょっと、来て頂けますか?」
わたしは花鈴。生まれて十七年の、ただの平民なのだと、どれだけ突き通せば信じてくれるだろう。
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