シタアバルのこどもたち

杏野丞

〈手紙とさんにんのこどもたち〉

シタアバルのシシトト

 海に点々と浮かぶあの島から、僕のおうちはどんな風に見えるのかしら。


 シシトトは海に降りた事がない。山と海を自由に行き来できるのは飛ぶための翼を持つ〈谷渡り〉くらいなものだ。山と海は、空という名の広大な壁によって分かたれている。

 垂状山脈。文字通り垂れ下がったつららのような山々に、絡みつく蔓草のごとくいくつもの町や村がへばりついている。

 小さな猫のシシトトはそのうちのひとつ、トーチ山のシタアバルという村に住んでいた。山のずいぶん下にある辺鄙な村だ。住みやすい谷側の街から遠く働き口も少なく、足腰の強い獣たちでなければ暮らしていくのも億劫なひどい勾配で、昔はよく橋が落ちたり家が落ちたりそれは住みにくかったらしい。今でも活気や賑わいとは縁のない村だったが、シシトトはこの村をそれなりに愛していた。

 ここは垂状山脈にあるどの町や村よりも、海に近い場所にある村なのだ。だからと言って何があるわけでもなかったが、シシトトはそれを特別な事だと考えていたし信じてもいた。


 小さな頭を欄干から突き出して、シシトトは海を見下ろす。和毛におおわれた獣の耳を寄こせと言わんばかりに強い風が吹きつけている。

 眼下に広がる〈鎮めの海〉はいつ見ても凪いでいた。昔々、偉大な魔法使いが施した〈竜の尾羽根りゅうのおばね〉と呼ばれる魔法によって、海は永遠に変わらぬ姿でいる事を強いられているのだ。

 それはそれは恐ろしい魔法なのだよ、泳ぎ回るそれに撫でられたものはたとえ島であろうと嵐であろうと、皆一様にバラバラに砕かれてしまう。村の年老いた語り部の低く静かな声が耳によみがえる。

 幼いシシトトは昔話が好きだった。悪しき古竜がもたらした災いと呪い、それを打ち払ったヨルの国の魔法使い、長い戦いの末にすべての島を失った鎮めの海、そして新たな安住の地を生み出すため島を育て続ける海の民――竜の末裔たち!

 古い魔法と折り合いをつけながら、人々は今も生きている。

 島を育て暮らす海の人々は、山に暮らす者達が竜の尾羽根と呼ぶそれを〈大凪〉と呼ぶのだそうだ。意外なくらい、それを憎む海の者は少ない。尾羽根は鎮めのための授かり物であるからだ。海を隅々まで泳ぎ巡り嵐の種を祓うためにある。育ってしまった嵐は海を荒立て風を巻き起こし、まだ小さな島々を沈めてしまうのだと海の人々は知っているし恐れている。

 とは言うものの島を沈め山をも揺らす大嵐が起こったのはもう何十年も前の話だ。

 島々を沈めた嵐を実際に見てそして覚えている者は、山にも海にも少なかった。シシトトがそれを知っているのは、運良く大嵐を生き延びた祖父からその話を幾度も寝物語に聞いたからだ。

 嵐はあれ以来起こっていない。大嵐の去ったあと、海を巡る竜の尾羽根がいつの間にやら三尾も増えていたのだそうだ。おかげで嵐への不安は薄れたが、変わりに新たな島を育てるのが難しくなってしまった。島と一緒に沈んだ海の民が、あれから数十年経ったにも関わらずなかなか増えないのはそのためらしい。


 シシトトの立つ山垂れの、その遥か下。空を挟んで穏やかに横たわる海に、いくつかの〈筏之群いかだのむら〉が浮かんでいるのが見えた。

 竜の末裔の住まうという海の上の小さな村。

 おそらくそこにキネはいない。

 分かっていてもシシトトは、海に暮らす友達があの遠い島から自分の家を見付けて手を振ってくれているのではないか、というささやかな夢を、ぼうっと思わずにはおれなかった。

 深藍に金砂をまぶしたような海の色が、端から少しずつ赤と橙に変わってゆく。日が落ちる。そよ風に揺れる洗濯物を下から覗いたような波打つ垂状山脈の遥か高い谷を見上げて、シシトトは目を細めた。

 海の返すひかりに照らされた渓谷は、しかし決して明るくはない。高いところにある谷の国は昼も夜も変わらず闇に覆われている。貴族達の住まう掘城に掲げられた贅沢な青火硝石あおびいしの燐光が、チカチカと遠く暗がりに揺れていた。

「シシトトや、そろそろ虫籠を出しておきなさい」

 祖父のしわがれた声が下の吊屋から響いた。

「はぁい」

 シシトトの返事が四阿に響いた。虫籠の止まり木にぶら下がった明かり取りの燈ノ虫とうのむしは、まだ薄い橙色の羽を畳んでうつらうつらと揺れている。

 夜は間近だが、風はまだ暖かかった。

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