空へ
旅人
空へ ver. 1
一
姉が死んだ時わたしは十八歳だった。大学に合格して、姉に連絡したのがほんの数日前のことだなんて、信じられないくらい急な出来事だった。大学の理系に合格した、春から東京に引っ越すよ、と言ったわたしに、姉はよく頑張ったわね、お父さんとお母さんもきっと誇らしく思ってるわ、と言った。その嬉しそうな言葉に、やっとこれで普通の生活ができる、早く稼いで姉を幸せにしてあげるんだ、と思ったことを、今でもはっきり思い出す。でも、その後、東京に行ったら案内してね、と言ったわたしに、少し間をおいてからうん、もちろんよ、と言って涙ぐんだ姉の様子が電話越しに伝わってきた時の、小さな違和感は最近になってやっと思い出した。わたしは馬鹿だった。上京して身を粉にして働いた姉に養ってもらいながら、勉学に励んでいつかは姉を幸せにしてあげるんだと、思い上がっていた。
姉の訃報を受けて新幹線で東京に駆けつけたわたしは、病院の地下に案内された。姉は細面の優しい顔をした美人だった。その死に顔は、しかし、苦痛に歪んでいた。首元には痛々しい擦り傷があった。廃工場で首を吊って自殺したのだと、その時初めて知った。遺書は短く、銀行口座の引き継ぎ事項と、家の整理は済んでいる旨が事務的に書かれていた。慌てて付け加えたように見える最後の一行を読んで、わたしは姉の女としての無念を感じた。そこにはこう書いてあった。
私のことは忘れて。宏子ちゃんには、私の笑顔だけを覚えておいて欲しいから。
呆然として立ち尽くすわたしに、警察官が大家の男性を連れてきた。初老のその男は、わたしを端へ引っ張っていって、通り一遍のお悔やみを述べて、部屋はほとんど空っぽで、退去したければすぐできる、と言った後、声を低めてこう言った。
「こんなことは言いたくないんだがね、あんたの姉さん、水商売やってたみたいだよ」
わたしは考える前にその男を怒鳴りつけていた。
「姉さんはそんな人じゃないわよ!」
わたしは、しかし、自分の中に生まれた疑念を払拭するだけの自信を、持ち合わせてはいなかった。
下北沢にほど近い姉の部屋には姉の私物と、布団があった。そこにわたしが泊まることまで考えていたのは、几帳面な姉らしいと思った。主人を失った布団は冷たくて、わたしは眠れなかった。わたしは姉の銀行通帳を見た。そして初めて知った。毎月かなりの額が入って、その半分が日本学生支援機構の返済に、残り半分のほとんどがわたしに渡り、自分は家賃も入れて月十万円で生きていたことを。収入の口は二つあり、一つは大手ファストフード店のバイト、もう一つは実体のない会社だったということ。ネットで調べると、その会社は、裏社会で働く人の給料を支払うダミー会社だった。通信会社の顧客センターでオペレータをやっているというのは、嘘だったのだ。わたしは大家の言葉が正しかったことを知った。
その夜はまんじりともせずに過ぎた。
二
わたしはその春から姉の住んでいたアパートに住んで、駒場の教養学部に通い始めた。子供の頃のあの一件以来一人では満員電車に乗れないわたしは、駒場まで歩いて通える距離に住む必要があったが、姉のアパートはちょうど徒歩圏内だった。わたしは必死に勉強した。毎日遅くまで図書館にこもり、予習と復習をこなし、辞書を引きながら英字新聞を読んで十時過ぎに帰宅する。でも、どれだけ忙しくしていても、怒りに我を忘れそうになった。わたしはあれから毎日、姉の本当の生活を知ろうとした。姉の年齢で月に五十万円稼ぐには、それ相応の学歴がなければ体を売るしかない。地方の弱小公立大学卒の姉が、後ろ暗い会社から毎月のように大金を得ていたということは、そういうことなのだ。わたしは姉が苦しんで苦しみ抜いて稼いだ金で、のうのうと高校生活を送っていた自分を憎んだ。高校時代にできた彼氏に、時々見栄を張って六百円のコーヒーを奢ったりしたその行為を激しく後悔した。その彼氏も大学は東京だったが、上京前に一方的に別れを切り出して縁を切った。わたしは一人で怒りや後悔と向き合い、徐々に自分をすり減らした。
半年ほど経ったある秋の夜のこと、わたしはいつものように疲れ切って下北沢の街をとぼとぼと歩いていた。生理だったし、学校の帰りで、授業以外に五時間の自習を済ませたわたしはとても疲れていた。向こうから歩いてくる、いかにも遊び人風の若い男がわたしをじっと見ているのに気づいたが、いつものように冷静な怒気を含んだ目で見返した。こうすれば、大抵の男は怯んで目を背けることを、わたしは知っていた。だが、その男はびっくりしたように目を瞬いて、
「優子? 村岡優子?」
と姉の名前でわたしを呼んだ。一瞬、何が起きたのかわからなかった。わたしは我を忘れてとっさに尋ねていた。
「姉を知っているんですか?」
「ああ、妹か。道理で似ているわけだ」
男は少し忌々しげに横を向いたが、わたしを横目で見て
「姉さんはどうしたんだよ、あれからうちに来ねえし」
「死にました」
男は特に驚きもせずに、肩をすくめて
「あー、やっぱそうか」
と言った。その無関心がわたしの怒りに火をつけた。
「失礼ですが、姉とはどういう関係ですか?」
「姉さんが働いてたお店の者だよ」
男はお店、という言葉に変なアクセントをつけた。
「バイトの?」
違うと知りながら、わたしはそう聞くほかになかった。
「いいや、夜の仕事の方だ。知ってんだろ?死んだってことは、そういう話もどっかから聞いたはずじゃねえか」
わたしは黙って男を睨んだ。
「怖い顔すんなよ、お姉さんと似て美人なのによ。いっそ、うちで働くか?一晩で三万は稼げるぞ」
怒りは感じなかった。ただ、姉が何をしていたのか。どこまでさせられていたのか。わたしはその疑問を解きたかっただけなのだ。でも、そんなことを考えていたということは、やはり怒っていたのかもしれない。
「何をするんですか」
「本番以外全部、変態はなしだがな」
わたしはまごついた。どういう意味だろう?
「優等生は知らねえか。本番ってのは、挿入(い)れるってことだ。姉さんはそれ以外は全部やってたぜ」
わたしは血の気が引くのを感じた。あの優しい、きれいな姉が、どうして、どうしてそんな……。
「そんな風にして稼いだ金を、親が死んでいないからって妹にほとんど全部やってたんだってよ、笑っちまうよな。ま、お前のことだけど」
わたしはその言葉を最後まで聞いていなかった。とっさに手が動いて、男を張り倒していた。鋭い破裂音がして、男がしゃがんで頰を抑えた。
「姉さんは、姉さんは……」
荒い息をして男を睨むわたしを、あたりの人がざわめきながら見ている。その人混みから警察官が二人現れて、わたしの前に立った。
「今、この男性を叩きましたね?」
三
結局、男に頭を下げて慰謝料を払うことでわたしは警察署から出た。それまで三日間わたしは留置所に入れられ、身寄りが全くいないので誰にも会えず、怒りと生理痛に黙って耐えた。留置所でもらった生理用品は粗悪で、わたしは国選弁護人に代わりを買うように頼んだ。弁護士は男で、わたしはそれを言うのが恥ずかしかった。でも、姉さんはもっと辛かったのだろう、と思って耐えた。
留置所で夢を見た。あの頃の夢。父さんも、母さんも、姉さんも笑っている。みんなで奈良公園に行って、急に現れた鹿にびっくりして転んだ父さんを笑いながら引っ張って起こして、アイスクリームを食べた。
朝、涙に濡れた顔を上げて、髪を括った。男に深々と頭を下げて、慰謝料と治療費を払う旨サインをした。そしてわたしは、ひどく抽象的な復讐の念を胸に、外の世界へ出た。一人でも多く、少しでも残酷に、人を殺したいと思った。
四
大学へ行くと、どこから漏れたのか、みんなわたしのことを知っていた。ソーシャルメディアの類をしないわたしは、その噂が実際どういうものか知らなかったし、こっそり聞けるような友人もなかった。わたしは数日間黙って耐えた。どっちにせよ、あと八ヶ月して進振りが終われば、今のクラスは関係なくなるから、と思って。
しかし、三日目のこと、第二外語の教室でぼんやり教科書をめくっていたわたしは、隣の学生たちがささやき声で交わす言葉を聞いてしまった。
「村岡って、逮捕されてたよね」
「大学も甘いよな、お咎めなしだよ。女子だからって贔屓しやがって」
「知ってるか? 村岡の父親、電車で痴漢して捕まって、自殺してんだぞ」
「マジか。親も親だな」
教科書を繰る手が止まった。顔が引きつるのが、自分でもわかった。わたしはそのまま立ち上がると、うつむいたままトイレに駆け込んで洗面台で吐いた。吐瀉物は赤くて、わたしは泣き出しそうになった。昼に食べたサンドイッチに入っていたトマトのせいだろうと気づいて、少し落ち着いたわたしは、口を拭って鏡を見た。鏡ごしに見るわたしの顔は青白くて、姉の死に顔を思い出した。その苦痛に満ちた顔が脳裏に蘇り、わたしは洗面台にもたれたまま、床に崩れた。惨めだった。
冷たい床に膝をついてわたしは泣いた。父さんは悪くない、冤罪ではめられて、何日間も警察署に入れられて、責められ怒鳴られて。父さんは強い人じゃなかった。父さんは優しくて、優しすぎて、若い頃に精神を病んでいた。なのに、やっと釈放された時、わたしは父さんに優しくできなかった。心のどこかで腹を立てていた。父子家庭なのにしっかりしていない父を、恨んでいた。父さんは私たちにただ、ごめんね、と言った。そして、次の日、父さんは琵琶湖に飛び込んで死んだ。
わたしは一人だった。母さんは奈良公園に行った次の年に癌で死んでいた。父さんも、姉さんももういない。全部わたしのせいだ、と思った。自分さえ死ねば、この世界に悲しむ人間はいない、と思った。涙に濡れた髪がわたしの頬に張り付いている。わたしはその黒い髪のように、どす黒い絶望に浸った。わたしは、もう死ぬしかない。そのまま起き上がれずにいると、黒川が入ってきた。東京の有名女子校からきた彼女はいつも縫製のいい服を着て、薄く上品な化粧をしていた。首元で光る細い金のネックレスも、落ち着いた色の口紅も、わたしは持っていなかった。わたしはただ、田舎の高校生のように髪を束ねて、ショッピングセンターで買ったほつれやすい安物の服を着ていた。同じ人間なのに。
黒川はわたしを見てびっくりしたようだった。
「村岡さん、大丈夫?」
「大丈夫よ、ちょっと気分が悪かったけど、もう平気」
自分にはゆっくり泣ける場所もないのだと、その時わたしは悟った。
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