第一章 小さな王様

第1話

 暦は六月。蒸し暑い日々が続いていた。春の暖かな陽気はどこかに行ってしまい、湿気が多いじめじめとした不快な気候だった。昼はもちろん、朝や夜でも外にいたら汗をかいてしまう。

 だからこそ、部屋の中では涼しく過ごしたいという想いは強い。織野継音はその一人だった。

 継音さんはクーラーをガンガンに効かせて、涼し気な様子でソファーに寝転んで読書をしている。読んでいるのは最近発売したばかりのライトノベル。異世界に召喚された主人公が、現代知識を駆使して活躍する物語らしい。彼女はそれをニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら読んでいた。ページ量は残り僅か。おそらく物語の佳境に入ってるのだろう。

 ボクは掃除の手を止め、静かに台所に移動する。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、その中に挽いたコーヒー粉を二杯分入れる。ポッドで温めていたお湯をドリッパーに少しだけ注ぎ、蒸らし終えてから「の」を描くように再び注ぐ。徐々に注ぐ量を減らし、全てのお湯を入れ終える。最後に、出来たコーヒーを用意していたカップ二つに入れた。

 ボクの家ではコーヒーをコーヒーメーカーで作っている。自動的に出来るのでとても楽だ。けど継音さんの自宅兼仕事場にはコーヒーメーカーは無く、人の手で作るハンドトリップという淹れ方だ。

 なぜこっちを買ったのかと尋ねると、「その方がおいしそうだから」ということだ。

 そんな喫茶店やドラマでしか見たことのなかった道具は、ボクが見つける最近までは台所の隅に放置されていた。面倒臭くなって使わなくなっていたそうだ。

 気まぐれで使い始めた道具だが、使ってみると面白かった。お湯の温度や注ぎ方で味が変わったり、機械でやれる作業を人の手でやることに楽しさを見出していた。それにメイド服を着ているので、本物のメイドになった気分に浸れたのも大きかった。

 淹れたてのコーヒーをテーブルに持っていき、一つを継音さんの前に置く。継音さんはうつ伏せのままカップを手に取りコーヒーを飲む。

 継音さんは一口飲むと、眉をピクリと動かした。


「……苦い」


 やや目尻が垂れ下がった双眸が、ボクに向けられた。


「苦虫を噛み潰したような顔してますよ」

「砂糖は?」

「ゼロです」


 継音さんは「はぁ……」と溜め息を吐き、カップをテーブルの上に置いてソファーに座り直した。


「テンション下がった。せっかく面白くなってたのに読む気なくした」

「どんな展開だったんですか?」

「神様からもらったチートでコツコツと努力してきた秀才をぶっ倒すとこ」

「……面白いんですか?」

「面白いよ。前の世界じゃ恵まれなかった主人公が異世界で無双するなんて、夢がある話じゃん。ストレスないし、スカッとするし。頭空っぽにして読めるのがこういう小説の良いところよ」


 継音さんは顔を綻ばせて、読んでいた本の良さを語る。余程あの本を気に入っている様子だ。

 あまり惹かれない展開だが、好きな人は多いようだ。帯には『発行部数五十万部突破』と書かれている。ボクも読んでみようかな。


「私もトラックに轢かれて異世界転生したい。この際同じ世界でも良いから転生したい。転生できないならハーレムつくりたい。無条件で人に好かれたい。それもダメならチート頂戴」


 なぜ売れているのか、少し分かった気がした。


「チートなら継音さんも持ってるじゃないですか。呪術得意でしょ」

「あれはチートじゃない。チートっていうのは何でもかんでも出来る力のこと。あれはそんなに便利じゃないから」

「けど一般人からしたら十分チートですよ。適当な会社に入って呪術を使えば、仕事が捗って楽できるんじゃないですか?」

「無理。できない」

「何でですか?」

「その前に面接で落ちるから」


 思わず納得してしまった。フォローの言葉が口から出てこないので、誤魔化すためにコーヒーを飲んだ。


「就活では百社受けても内定ゼロ。アルバイトですらもほとんど断られて、受けられてもすぐに辞めさせられる。辛気臭い、陰気、暗い、どん臭い、要領が悪い、不器用、仕事を増やす元凶……。あ、今のはアルバイト先で言われたことだから……」


 陰鬱な顔でこれまでの経歴を語る。あまりにも暗く、聞いているボクまで気が滅入りそうだ。


「けど今は呪い屋として、立派に仕事をしてるじゃないですか。昔の事なんか引きずらず、今を生きましょう」


 前向きにしようと励ますが、未だに表情は暗い。


「そりゃ他にやれることないからね。呪い屋以外に出来ないから、仕方なしにだよ。働きゃないと死んじゃうし……」

「仕方なく働いて認められるなんて凄いですよ。天職ってやつじゃないですか。才能があるんですよ」

「……本当に?」


 不安そうな声で尋ねてくる。あと一押しだ。


「えぇ。素晴らしい人だと思ったから、ボクは継音さんを手伝いたいと思ったんです。呪霊の件もありますが、継音さんの才覚に惚れたのも理由なんです。だから自信を持ってください」

「そっか……才能か……フヒヒ」


 継音さんが気味悪く笑う。いつもの調子に戻ったようだ。

 彼女は時々深く落ち込むことがあるが、こうして褒めちぎれば立ち直れる。扱いにくいのか扱いやすいのか、よく分からない気性である。


「そう、ね。いちいち昔の事なんか気にしてたら生きていけないや。大事なのは今ね」

「そういうことです。人生経験が少ないボクが言うのもなんですが、これからだと思いますよ」

「うん。呪い屋になってなかったらユズちゃんにも会えなかったし、これで良いのかもね」


 継音さんはいつもの不気味な笑みではなく、自然な笑顔を見せていた。普段の彼女からは想像できない妖艶な笑みに見惚れ、ドキリと鼓動が高鳴る。悟られないよう、コーヒーを飲むふりをして顔を俯けた。

 陰気な性格の継音さんだが、時々今みたいに人を誑し込む笑みを見せる。しかも本人に自覚の無い天然で、一種の呪いのようだ。気を付けないと魅了されてしまう。

 鼓動が落ち着くのを待っていると、継音さんが「けどたしかに……」と真面目な声で話し出す。


「相手と場所を選んだらできるかもしれないね、チーレム」

「……なんですかそれ?」

「チート貰ってハーレムをつくること」


 一瞬にして胸の高まりは収まった。


「呪いとか祟りの言い伝えが残ってる村とかに行って呪術を見せれば、私を特別な人間として扱ってくれる。そこで宗教を立ち上げて信者を増やせばハーレムができるんじゃない? 規模を増やして日本中に支部を立てれば、お金持ちにもなれるかも。けどどんな宗教にしたらいいかな……。よし、転生してもどこか別の世界で生き返るって理念にしよう。名付けて転生教だ。たくさん寄付すれば神様から特典を貰って転生できるって文句で広めたら、世の中のひきニートやダメ人間が大量に入信するはず。そいつらは寄付するために働くからニートが減るし、それでも働かない奴は『今死ねれば異世界でチーレムつくれますよ』とか言って自殺させればどっちにしろニートは減る……。うわっ、社会貢献にもなる良い宗教じゃん! 私ってば天才!」


 継音さんは真剣な面持ちで、計画という名の下劣な妄想を語る。その姿を見れば、百年の恋も冷めるほどである。

 けれど普段の彼女はこんなものだ。魔女っぽい見た目だが、生活態度は杜撰でいい加減、最低限の家事もできない怠け者だ。初めてこの家に来たとき、入ってすぐの仕事場はまともだが、それ以外の部屋は物が散乱しており、掃除をしていないことが一目で分かるほどの汚部屋だった。

 そんなダメ人間もどきの継音さんを前にしてコーヒーを飲んでると、カタカタと音がした。掃き出し窓の下に黒猫がいて、窓を右前脚で叩いている。継音さんの飼い猫のネネ(雄)だ。

 ボクが窓を開けると、外からむあっとした湿気の多い空気が部屋に流れ込んできた。継音さんほどではないが、たしかにこの気候は嫌になる。

 ネネが家に入るのを見てからすぐに窓を閉めた。


「どしたの、ネネ。ごはん?」


 しゃがみこみ、視線を低くして尋ねる。いつも外を徘徊しているネネだが、就寝と食事、仕事の時は戻って来る。今は夕方だから食事に帰って来たと思った。

 だけどネネはボクに顔を向け、


「客を連れてきた。玄関前で待ってるぞ」


 可愛らしい名前に似合わない男の声。人語を話す猫のネネはそう言うと、足拭きマットに足裏をこすりつけ始める。

 間もなくして玄関チャイムが鳴ると、継音さんは身嗜みを整えに隣室に行っていた。ボクは二つのカップを片づけてから客を出迎えに行く。

 玄関の扉を開けると、一人の少年が立ち尽くしていた。

 少年は黒のスラックスを履き、胸ポケットに市内の城央高校の校章が刺繍された半袖シャツを着ている。シャツの裾をきっちりとズボンの中に入れており、同じく校章の入った黒の手提げ鞄を持っている。

 体格は細身で、ボクより少し高い一七〇センチ前後。腕や顔には日焼けや怪我の後は無い。髪は黒くて耳にかかるほどの長さ。眼鏡をかけており、大人しそうな印象を受ける容姿だった。

 少年はボクの顔を見た後、視線を徐々に下げていく。胸、腰、足元と視線を下げてから、視線を戻してまた顔を見る。


「あの……ここに黒い猫が、来ませんでしたか?」


 少し上ずった声。表情は固く、体に力が入っている。緊張の色が容易に読み取れた。この人は奇妙な黒猫の後を追ってきて、小さな洋館に辿り着き、メイド服を着た子に出迎えられたのだ。警戒するのも当然だ。初めてここに来た時のボクと同じ心境なんだろう。

 ボクはあの時の継音さんの顔を思い出して同じ顔をつくった。


「えぇ、来てますよ。今は中で君を待ってます」


 穏やかな声を作って微笑んだ。鏡が無いから分からないが、あの時の継音さんと同じ笑みをつくれたと思った。

 だが少年は面を喰らったかのように目をぱちくりさせ、「そ、そう、ですか」と気まずそうに顔を伏せる。更には服や鞄の汚れを払ったり、髪を触ったりと落ち着くのない様子だった。残念ながら、ボクの笑みでは少年を安心させられなかったようだ。

 失敗を受け入れつつ、「こちらにどうぞ」と家の中に招いて仕事を全うする。少年は一呼吸おいてから家に入った。

 ボクは少年をリビング兼仕事場の部屋に案内し、ソファーに座らせてから二杯分のコーヒーをつくった。片方に砂糖を五匙入れ、木製のトレイにカップと蓋付きの白のシュガーポットを乗せて運ぶ。砂糖の入っていないコーヒーを少年の前に、向かい側に砂糖入りのコーヒーを置く。

 継音さんが隣室から出てきたのは、そのときだった。

 彼女はゆっくりと足を運ぶ。足の動きに伴って長いスカートが揺れ、黒のロングヘアが風で静かに動く。余裕を含んだ妖艶な面立ちで、落ち着きを保ちながらソファーに座る。その佇まいは、ついさっきまでソファーにだらしなく寝転んでいた人と同一人物とは思えないほどだった。

 少年はそんな継音さんの様子をじっと見ていた。見惚れてしまったのか、その顔はどこか気が抜けている。まるで魔女に魅了されて心を奪われたかのようだった。


「こんにちは。私は呪い屋の織野継音よ。あなたの名前は?」


 継音さんに話しかけられると、少年の惚けていた顔が一瞬で引き締まる。


「え、えっと……山木翔平やまぎしょうへい、です。城央高校の一年生、です」


 明らかな緊張を見せる山木さんに、継音さんは「慌てなくていいわよ」と優しい声を掛ける。


「時間はあるんだから。コーヒーでも飲んで落ち着いたらどう?」


 継音さんは余裕のある態度でコーヒーを口にする。ブラックを飲んだ時は苦そうな顔を見せたが、今は僅かに微笑んでいた。


「あ、はい。……じゃあ、いただきます」


 山木さんは砂糖を入れずにコーヒーを飲む。継音さんみたいに顔を歪めず平然としていた。


「砂糖もあるから入れていいのよ」


 継音さんが砂糖を薦めるが、山木さんは「大丈夫です」と断る。


「ブラックの方が好きなので」


 ピクリと継音さんの眉が動いた。余裕のあった表情が消え、ヒクヒクと頬が引きつっている。

 継音さんは「そう……」と呟き、平静を装いながらコーヒーカップをテーブルに置く。ボクは顔に力を入れて、笑わないように努めた。


「呪い屋は呪いに関する専門家よ。呪いを解いたり、時には呪いをかけたりして人を助ける仕事なの」


 話を始める継音さんを前に、山木さんはカップを置いて身構えた。


「呪いの専門家?」

「そう、呪い。あなたをここまで連れてきた黒猫、ネネっていうんだけどね、彼には呪いをかけられた人や呪いで困ってる人を連れてくるようにお願いしてるの」


 当のネネは、今や継音さんの隣で体を丸めている。ボクも彼と同じ、ネネに案内されてここまで来たくちだ。

 あのとき、ネネは道の真ん中でボクをじっと見てきた。気味が悪く感じたが、その瞳はボクの心配事を見透かしているように思ってしまったのだ。


「最近、あなたの周りでおかしなことが起きてない? もしくはあなた自身が何か困ってない? 普通じゃ考えられない、奇妙な現象に」


 山木さんは目を丸くして継音さんを見た。


「それは……」


 山木さんは話そうとするが、途端に俯いて黙り込む。言いにくいことなのか、次の言葉を口にしなかった。

 頑なに口を閉じる彼に、「大丈夫よ」と継音さんが声を掛ける。


「どんな話でも聞いてあげる。呪いには変な現象がつきものだから、大抵の事じゃ驚かないわ」


 自信満々の継音さんの言葉を聞き、山木さんがゆっくりと顔を上げる。


「本当ですか?」

「えぇ、本当よ」


 躊躇うことなく肯定した。その姿を見て決心したのか、「分かりました」と山木さんが答えた。

 山木さんは一息吐いてから、語り始めた。


「いつの間にか、王様になってたんです」


 継音さんの口元が僅かに動いたのを、ボクは見逃さなかった。

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