六味:鬼ごっこ


「お母さん、呼んできたよーって、あれ?」


 夕暮れにほんのり赤づく市街地の一軒家の玄関から、ひょいと顔を出す少女の姿。

 数歩も歩けば、ひび割れた黒いコンクリートの覆う道という状況で、わざわざ体全体を家から出すということもなく。

 九堂智音ともねは、キョロキョロと辺りを見回す。


「おかしいな、行政の人も、・・・お兄ちゃんもいない」

「どうしたの?」


 彼女の後ろから身を乗り出して、外の様子を覗きこむ母。


「どこ行っちゃったんだろう」


 何の気もなく、目前の道路に穿たれた軽いクレバスの上に向かって、視線を彷徨わせながら。

 ほとほと困り顔をして、九堂は首を傾げる。




 ちょうどその最中。




「はぁっ、はあ・・・」


 地面を蹴り、腕を振り。

 息を無理やり吸い込んで、肺に空気を送り込む。


「!? またあの『味』」


 脳にビリビリと刺激が走るや否や、道の端に植えられている植物の裏へと、身を滑り込ませる未来。

 心臓がキュッと怯え、腹が底冷えする思い。

 走って体温は高くなっているはずなのに。


「ったくったくどうしたって言うんだ少年? 俺は、何もしていないぞぉ?」


 右手を前に掲げながら高く声を張り上げるスーツ姿の若者に、「嘘つけ」と未来は小さく口を動かす。

 人も車も殆ど通らない小道で、ツツジたちに隠れるように体を屈ませながら全力疾走。


 若者が再び右手を構え直したと、未来の「味覚」は逐一報告してくる。今日に限っては、心底ありがたい。

 断絶する、植え込みの植物たち。舌打ちしながら進行方向の後ろに跳躍し、なるべく身を小さくしながら地面を転がった。

 凝視する。

 観察する。


 ・・・何も、起きない。

 しかし絶対にあの男は、何かやばいことをやっている。

 「味覚」と、この時ばかりは本能までもがそう確信していた。



 先刻のこと。

 平和だった、ほんの数分前までのこと。



「見つけた」


 五月の四日、夕刻五時十分ごろ。

 黄金色の空の下、男の言葉が未来の「味覚」をつんざいた。

 頰を裂くように広がっていく、対する男の嗤い。


「・・・どういうことですか?」


 脳の「味覚」野が訴えてくる危険信号の意味を解さないまま、自分の質問に答えてくれると信じ、未来は続いて予想を述べる。


「『九堂智文』の存在を知る人間を、あなたも探していたということですか?」

「ご名答」


 ・・・彼を知っている人が、いた!

 やっぱりこの世界は最初から「九堂智文」のいない世界じゃない、元いた場所と、同じ場所。

 しかも「九堂智文」を知っている人間を探していたというではないか。

 やはり、その目的は。

 ・・・もしかしたら、この人と協力すれば九堂を元に戻す方法も見つかるかもしれない・・・。



 意識の表層部分で、嬉しく思う未来だが。歓喜の情を表に出すことはなく。

 先ほどから「味」の打ち鳴らす警鐘は、じわりじわりとおとを上げてきている。



 ブンブンと、未来は首を振り。


「・・・あ、これから、スマートフォンか携帯電話で連絡を取り合いましょうよ! メールアドレスは・・・って、先に自己紹介するのが筋ですよね。俺の名前は・・・」


 あたふたとした始まりで、自分の紹介の口火を切ろうとする彼の、目の前で。

 グレーのスーツの若者は、ゆっくりと、自らの右手を上げる。


 日常的な、何気無い動作。

 視覚も嗅覚も触覚も聴覚も、そこに一切の違和感を覚えない。


 しかし。


 生来の脳の特殊なメカニズムが、体の全て、肌、筋肉、神経、血液、臓器。これらを伝うあらゆる情報とシグナルを、演算機能を司る一領域に集積する経路パスを作り出し、それらを受け取る元となった「根元事象」に付随する「確率空間」を弾き出して。


 何の因果か、無数にあるシナプスのおかしな動きの結果、導出された「確率空間」は「味覚」野のみを刺激する。


 上げられる、途中の右手。

 此度未来が感じた「味」は。


 存在を根底から脅かす、圧倒的な神威かむいそのもの。


 コンマ一秒でも無駄にすれば、為す術もなく踏み潰される。

 怯えている暇も、慄く隙間もない。

 反射的に、男の背中側目掛けて、脱兎の如く駆け抜ける!

 直感的に、それが最適解であるように思えたから。


 右手を完全に上げきり、素早く左目を閉じたところで、男は「なっ!?」と叫ぶ。

 まるで未来が逃げることなど、予想もしてなかったとでもいうように。


 無理もあるまいが。




「ったくったく、あいつ俺の能力に気付きやがったとでも・・・?」


 再び、未来と男との間で繰り広げられる追いかけっこへと視点を戻す。

 少しでも少年が視界に移れば、男:古舘は右手を真っ直ぐに構え。


 だというに、すぐさま遮蔽物を見つけ全身を隠す技能を見せつけてくる相手に、古舘は苛立ちを募らせる。


「初見でこんなに対応されたのは初めてだ。否、今までは初見で皆殺しだったな」


 走りながら、「ったく」と鬱陶しそうに唾を吐き出して。


「暗くなってきやがった・・・」


 太陽はすでに沈みかけ、差し込む西日の残り香が、辛うじて少年の姿を照らしてくれてはいる。


「早ぇとこ始末しねえと」


 速度を一段と大きくしながら、トリッキーな動きを繰り返す未来を追い込もうとする古舘。


「厄介、実に厄介だ。俺の能力を破れる条件を思い出せ。そこから奴を分析しろ」


 右角を曲がり。

 大人じゃ通りにくい、障害物の多い細い道を抜け。

 住宅地の庭みたいなところも走った。


「遮蔽物の多いところを確実に選んできている。大した記憶能力だ、地方銀行員のおっさんの類か!?」



 ただそれではどうしても。

 見る前から俺の能力に対処は出来ねえだろうな。



「ったくったく、一体どういう了見なんだよ!?」


 チッチッチと舌打ちを繰り返すものの、古舘に未来のメカニズムは予想出来ない。

 いよいよ技量も増してくる、少年の隠れ身の術。



 ったくったくったく!!



 思考は、同じところを堂々めぐり。


「いよいよ、本格的に暗ぇ」


 東方面では、すでに明るい星たちがチカチカと瞬き。

 太陽隠るる西方面でも、三日月と半月の中間地点にある半端な月が浮かんでいた。


 「黒く塗り潰される」景色。


 苛立ちとともに、焦りも出始める。


「こうなりゃ、一か八か」


 右手を構えるのをやめ、少年の進行方向である細道から逸れた。

 両手を動かし全力ダッシュで、一気に大通りにたどり着く。

 角を曲がり、今度は大通り伝いに猛進。


「やった」


 古舘の目論見通り、未来の行く細道へ入る自動車一方通行の道路、再度のお目見え。

 迷うことなく入り込む古舘は、凹凸の多く走りにくい道を悪戦苦闘しながら進んでいた少年と、対面し。


 眼光鋭くしてニンマリ笑う。


 ちょうど大通りを、大きなトラックが走行していった。


 ヘッドライトで照らされる、右手を掲げる古舘の姿と、あともう一人。


 散歩でもしていたのだろうか。未来と古舘に挟まれる、年寄りがいた。

 古舘はもう、止まらない。

 掲げられる右手から、反射的に太い木の裏へと体を隠す未来と対照的に。何も知らない老人は、いつものコースを淡々と進むのみ。



 古舘は、左目を閉じる。

 瞬間、世界は書き換えられた。



 まるで最初からいなかったように、忽然と姿を消す老人。

 違う、いなかったのだ、最初から。


 未来の現在についての記憶は、絶対に関わってはならない類の超危険な怪異から、只管ひたすら逃げ回っていたことのみ。


 だというに、「味覚」はそれ・・を拒絶する。

 つい今、センシティブ過ぎる「味」を発信された未来の脳機構は、忘却の彼方を否定する。


 だから未来は、記憶を取り戻す。

 消えた老人という現象への、衝撃と恐怖とともに。


「う」

「ちっしまった畜生が!!?」


 古舘は、呻き固まる。

 自分の信条とはまるで異なることをしてしまったが故に。


「うわ・・・」


 未来は、顔面を青くする。

 呼吸がしづらくなる。

 全身をグリグリ、ギュンギュンと凍りつかせていく驚愕と絶望を、本人を慮ることなく脳が勝手に解析し、得られた結果より感じる今まで経験したこともない「モンスター」に、完全に支配されてしまったが故に。


 どちらが先に、動くのか。


 その答え如何では、ここで「味覚少年」の物語は終わっていたに違いあるまいが。


 本能より叫びたがったのを中断せしめ。

 唇を噛みきり、最も原初的な味を「味覚」に上乗せする。


 幸いにも動き出しが早かったのは、北海きたみ未来。痛みの赴くままに拳を握りしめ、踵を返し。


 古舘の前、それどころでなくこの街より、姿を晦ました。

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