夢ならマジ覚めてっ!

祈由 梨呑

第1話 スイート・マジック

ショートケーキ、チーズケーキ、タルト、ジェラート、フラペチーノ、マカロン、……パンケーキもいいかな。

 優しい木漏れ日の下で、紗百合は古びたテーブルの上で、何を頼もうか悩んでいた。

正確には何を出そうかを悩んでいた。

 ここは都心にある大きな公園だ。町の憩いの空間には草木はもちろん、芝生の広場や、噴水、お花畑などがあった。

近くに大きな駅や大学、図書館などもあり平日の昼間でも人で賑わっていた。

 紗百合は、ここの大きな木の下にある、テーブル付きベンチで悶々としていた。

そう、悶々と……

 最近ネットで、そのことについて、色々調べ、その出し方や、やり方を予習してきた。

 頭の中で出したい物を、鮮明にイメージして、目の前でその残像を視覚化すると、そこにはそのイメージしたものが出てくるらしい。

 ただし、条件が必要だ。そもそも普通はそんなことは、できるはずがないのだが。条件というより、環境が必要となってくるのだ。

 その環境とは、夢の中で夢を見ている自分に気付き、そういった行動を夢の中で思い付き、それが行動に移せる状態にあるか、という環境だ。

 そう、睡眠中に見ている夢の世界だ。

その中で自分が夢を見ていることに気付けば、夢の中で自由に何でもすることができるらしい。

 そう、何でも。 

 明晰夢と言うらしい。自分が夢の中にいることを自覚し、自分の意志で行動することができる。まさに夢のような話だ。

 夢を見ても、その世界が夢だなんて思うことはなかなかない。もし、夢だと気付いたとしても、そんな行動ができるか、そのようなことを試すかは、わからない。

 さらには、気付いたときに目が覚めることだってある。

 夢の中で夢に気付く。それは日頃から習慣によって自覚させる訓練が必要だった。

 誰かは言っていたではないか。

気を付けなさい、習慣は性格になるから。性格は運命になるからって、少し意味は違うが…… つまりはそういうことなのだ。

 紗百合はここ最近、夢と現実の区別をつける事柄をいくつか行い、習慣になるように日頃から行っていた。

 そして今自分は、どうやら夢を見ているようで、自分はそれに気が付いていた。念願のチャンス到来である

 まずは、手始めにマカロンを出すことにした。

マカロン専門店、お菓子屋いずみのマカロン、マンゴー味は特に紗百合の大好物だった。

 目をつむり、頭の中でイメージする。

パッケージング、それを止めているシール、マカロン自体の形、食感、色、味、過去に食べた記憶をイメージする。

 頭の中に、過去にそのマカロンを、手で取って食べていた自分を思い出す。

 そして、マカロンを強く意識した。

「出ろ!」

 掛け声とともに、目を見開いた。

 テーブル上の一部が青白く光り、透明のフィルムにラッピングされたマカロンが現れた。

「ぅわっ、凄いっ! 本当に出た!」

 紗百合は驚いて、テーブル上の出てきたマカロンをつまんで観察した。

 大きさ、重さ、透明フィルムに記載された正味期限、確かに本物だ。

 問題は中身だ。

 透明のフィルムをめくり、マカロンを鼻に寄せて、香りを確認して、そして、かじった。

「ぉおっ! 本物だっ。香りも味も確かに本物と同じだ。それにしても、おいしいっ。どうして、いずみのマカロンはこんなに美味しいのだろう。特にマンゴー味は最高ね」

 それにしても、よく出てきたな。と、紗百合は感心した。

 これはやはり夢なのだ。夢の中だから、こんなことができるのだ。

 これは凄いぞ。目が覚める前に出せるだけ出して、食べておかなくてはね。

 紗百合は、パーティーパックの24個セットをイメージした。過去にこれを買ったことがない。高くて買えなかったからだ。

 24種類のマカロンが入ったセットだ。別に単品でも買える商品だが、はたして24種類全部イメージできるかなと不安になったが、単純に箱に入った商品をイメージした。さすがに24種類の内容までは覚えていなかったからだ。

「出ろ!」

 目を見開き、掛け声をかけた。

 テーブルの真ん中辺りが青白く光出した。そして、四角い箱のような物が現れた。

箱は、お菓子屋いずみのゴロが可愛くプリントされた化粧箱になっていた。

「すごいっ。マジ凄い。ちょっとヤバくないっ! 出ちゃったよ」

 紗百合は興奮して箱を開けた。そもそも閉じた状態ではイメージしていなかったのに、ちゃんと箱は蓋がしてある状態で現れたのだ。

それに化粧箱を見るのは初めてだった。

 中身はちゃんと、マカロンが24種類入っている。食べたことのない味もある。

 どんな味なのだろうと、黒ごまをチョイスし、早速食べてみた。

「おいしい! これが黒ゴマ味か。初めて食べたけど、やっぱ裏切らないな」

 他のマカロンも、次々とラッピングを破り、かぶりついた。

 わかってはいたけれど、どれを食べても美味しいのはやはり凄い。さすが専門店のいずみだ。

 それよりも、イメージで出したマカロンが、食べたこともない味でも、そのしっかりとした味に驚いた。

 これは本当に夢なのか? あまりにもリアルすぎて疑ってしまう。

 かじったときの感触、口の中に広がる果汁の香りに、ほのかな酸味、噛んでとろける生地に、しつこくないあっさりとした甘み。

実際に今ここで食べている感触だ。

 過去の記憶を再現しているような感じではない。本物の味覚としての感覚だ。

 紗百合は感動し、どうして知らない味でも再現できるのかを思案したが、それ以上のことは考えるのをやめた。

 だって、ここは夢の中、考えたって意味がない。

目が覚めたら全てはそこで終わり。多少の記憶は残るが、他は何も残らず消え去ってしまうのだ。

 もしかしたら、多少の記憶もあやふやになって、すぐに忘れてしまうのかもしれない。

 今はこの瞬間を楽しまなくては。

「よし、つぎ。本命パンケーキいくぞっ」

 紗百合はカバンから雑誌取り出して、一押しカフェ店の、パンケーキが載ったページを開いた。

 三段重ねのパンケーキの上に、たっぷりクリームとフルーツの盛り合わせのデコレーションが印象的だった。

 パンケーキというより、ただの飾りが多いだけのホットケーキだと言ったらそれまでだが……

 それはさておき、このお店で実際に入店して食べたことはない。待ち時間は最低でも30分以上で、紅茶セットを注文すると1500円ほどかかってしまう。

 今の紗百合には、そんな時間もお金も余裕はなかった。

 早速、雑誌の写真を穴があくくらい凝視し続けた。

今回は完全に写真だけで、実物に関しては他に何も知らない。資料は雑誌の記事と一枚の写真だけなのだ。

 目をつむりイメージする。

先ほど見た写真をイメージするが、そもそもパンケーキの上のクリームが、生クリームなのかアイスなのかも分からなかったし、上のフルーツも季節によって変わるから、写真の通りにはいかないはずである。

 あやふやなイメージだったが、それ以上のこともできず、紗百合は実行に移した。

「出ろ、パンケーキ!」

 同じように声を上げ、目を見開いた。

 テーブルの上は青白く光り、皿のような物と、丸いポットとティーカップが現れ始めた。

それは弱い光だったものが強い光になるにつれ、実体化していった。

よし、こいこいこいこいこいっ! 

紗百合の胸は躍った。

 光はさらに強まり、現れ始めた物に本来の色が着きはじめ、やがて実体化した。

「きたーっ!」

 紗百合は興奮して、ついテーブルを手で叩いてしまった。

振動でティーカップがカチャリと踊った。

 テーブルの上には、丸いお皿にゴージャスなパンケーキと、白い陶器のポットと、蒼色のラインが入ったティーカップが出現していた。

「よっし成功! 見た目は良さそうね。さてさて、お味はどうかな。ふふふっ」

 興奮して胸がドキドキしていた。震える手でポットの蓋を開け中を覗いた。

 ブラウン色の奇麗なお湯の中で、茶葉が踊って香りを生み出したいた。

「まずは、口直しに紅茶ね」

 カップにポットの中身をつぐ。綺麗な飴色の熱湯が湯気を立てた。

カップを手に取り鼻を近づける。香りを楽しみ、そして、口を着けた。

 口の中に豊かな香りが広がり、その後にほのかな甘みと程よい渋みが残る。

「なかなかいい茶葉のようね。ダージリンかしら」

 実際に、あまり紅茶を飲んだことがない紗百合だったが、ダージリンがどのような風味なのかは、文面としては知っていた。なので、多分これはダージリンだと思った。

 甘いスイーツとの組み合わせなら悪くない。何より香りが負けていない。

 先ほど食べたマカロンの甘さが、口の中に残っていたが、これでリセットできた。

 さあ、次は大本命のパンケーキだ。

 さて、食べようと思い、ナイフとフォークがないのに気付いた。そこまではサポートしていないということか……

 紗百合はナイフとフォークをイメージした。

「出ろ!」

 掛け声とともに、ナイフとフォークが光の中から現れた。

 出てきたのは、持つところが木製の少し太い物だった。ナイフは刃先がギザギザしている。

 ……ステーキ用のフォークとナイフか。

 ずっと以前に入った、ハンバーグ屋さんの物と同じだった。

 キラキラ輝いているパンケーキに、この無骨なフォークとナイフは似合わなかったが、食べる分には問題ないだろう。

「では、いただいます」

 紗百合はフォークで左隅を刺し、ナイフを入れた。

 柔らかい…… このナイフでは潰れちゃう。

 ノコギリのように歯の付いたナイフをスライドさせて、上から下まで切っていった。

 三層になっていたパンケーキは、中間層にもフルーツとクリームがサンドイッチ状態になって、断面は部材が宝石のように輝いていた。

「豪勢な作りね。これは確かに女子にうけるわ。高いのもしょうがないわね」

 紗百合は、三層までしっかりカットしたパンケーキを、口に頬張った。

 ふわふわのパンケーキと、フルーツのみずみずしさと、生クリームが調和して、口の中を美味しさで満たした。

「んん! これは、いいねっ!」

 紗百合は思わずうなった。

 全体的に甘さは控え目で、パン生地と生クリームの甘さは、フルーツの甘さを引き立てるように調整され、全体を調和させる甘さになっている。

「これはおいしいわ。確かに美味しいわ。そりゃあ、うまいでしょ。こんなに贅沢な作りなら満足だわ。完成度はかなり高いわね」

 紗百合は黙々と食べながら、ふと気が付いた。すでに三分の二は胃袋に収まっている。

「……SNSにアップするの、忘れてた…………」

 愕然として、スマホを取り出す。

そもそも今は夢を見ているわけで、スマホが使えるとは思えないが……

 指紋認証でロックを解除し、アプリを開く。

 と、ちゃんと画面が開き、SNSの通知もちゃんときている。最新情報も時間的に少し前の物だ。

「へえ、ちゃんと電波がきている。夢なのに変な話ね」

 食べかけのパンケーキを見て、撮影は断念した。

「まあ、こんなのアップしたら、何を言われるか、わかったものじゃないしね」

 一人でこんないいものを食べたのがバレたら、友人に文句を言われるのが目に見えていた。

 しかし、実際にアップしたらどうなるかと、興味も湧いた。

 なんせ、自分は夢を見ていて、その中で好き勝手なことをしているのだから。

 試しに、文章だけでつぶやいた。「カフェ・ド・ジゲンのパンケーキを一人で食べた夢を見た。超絶美味だったよ。夢だったけれど……」と。

 確認すると、ちゃんとアップされていた。

 友人達は、このアカウントを知っているから、そのうち何かの反応があるかもしれない。とか思っているうちにメッセージがきた。

 同じ部活動の友達だ。「この食いしん坊。食べること以外にないのか?」と。

「そう言われてもね……」 

 


 取りあえず、パンケーキを美味しくいただき、残ったマカロンもすべて平らげ、紅茶を飲み干して、席を立った。

「満足満足。おなかも膨れた。さってー、どーしよっかなー」

 もっと色々出して食べようとも思ったが、すでにスイーツを食べきって、今はこれ以上のものを食べても、新たな感動はないだろうと思い、別のことをしようと考えた。

 それにしても、これが夢だとは思えない。

 リアルすぎて現実と区別がつかない。そもそも、夢を見ているときは、そんなことは全く疑わない。気付いた時、それは、目が覚めた時なのだ。

「さてと…… 次はどうしようかな。夢の世界ならではのイベントと言えば……」

 紗百合は公園を一望した。天気も良く心地の良い風も吹いている。見上げれば、澄んだ青空が広がっていた。

「よし、飛んでみよう!」

 紗百合は芝生広場へ移動した。当然、周囲には何人か人がいて、芝生で寝っころがる学生や、小さな子供をあやす若いママなど十人程の人達がいた。

 いざ飛ぼうと思ったが、当然やり方が分からない。空を見上げると、天高く青空に、小さな雲がゆっくりと動いていた。

 身体が軽くなれば浮くのかな? 

 目をつむり、自分の身体が雲のように軽くなって、空をプカラプカ浮いている様子をイメージした。

 体の大半は水分でできている。それが、気体のように軽かったら、空気より軽かったら、体は浮くではないか。

 周りにいた人達の目は気にしなかった。

ここは夢の世界だ。目が覚めるまでの間だけの存在だ。目撃されて騒ぎになっても、特に問題はないだろう。

 逆に、ある意味ヒーローになれる。小さな子供達に歓迎されるだろう。

 自分の体は軽い。雲よりも軽い。天高く飛ぶことができる。そう、自分に言い聞かせ、空を飛んでいる自分をイメージした。

「よし、行こう!」 

 紗百合は目を開き、大地を蹴った。

 体が軽いっ! 

 身体は地上を離れ、一気に空高くまで上昇した。

 視界は一気に広がり、地上に見えていた物は、すべて小さくなっていった。

 紗百合は驚いた。

まずは、こんなにも高く上がったことに驚き、さらに上がって、上がって、そして、止まって、そして、落ちていくことに驚いた。

 地上が遠くに見えた。高層マンションなどが遥か眼下にあり、今までいた公園が、まるで一軒家の小さな庭のように見えた。

 横を見れば地平線が見え、少し弧を描いているのを知り、地球は丸かったことを改めて実感した。

 血の気が引いた。恐怖が全身に走る。すでにゆっくり落下していたのが、次第に落下速度を増し、気付けば地上がすぐ目の前に迫っていた。

 高い所はそれほど嫌いではない。超高層ビルの展望台や、電波塔の展望台からの景色はとても好きだった。

 それは、足元がしっかりして、安心して景色を楽しめるからだ。別に、真下が見えてもそれは問題ない。

 でも、今はそんな安心できる足元はなかった。ただ落ちているだけである。

 景色を見るのは好きだったが、絶叫系の乗り物はとても苦手だ。

 悲鳴を上げる暇もなく、公園と商業ビルが並ぶ間にある、片側五車線の大きな道路の交差点に、紗百合は落下した。

 ダーーンッ! 

 交差点で信号待ちをしていた、輸送トラックの荷台側に落下してしまった。

 落下スピードの衝撃は凄まじく、10トンクラスのアルミ製の荷台カーゴの天井を突き破り、中にあった段ボールの商品をぐしゃぐしゃにし、その勢いで荷台側面のハッチも吹き飛んだ。

 あたり一面に、積荷だった段ボールが吹き飛び、赤い液体が飛び散った。周囲で信号待ちをしていた車両や人達を騒然とさせた。

 トラックは衝撃で車体が逆への字に曲がり、フロントガラスにも幾つかヒビが走っていた。

 運転手は慌てて車両から降り、大破した荷台を見た。

 隣で信号待ちをしていた乗用車のドライバーも出てきて、心配そうにトラックの荷台を覗き込んだ。年配のおばさんだった。

 荷台周辺は、赤く染まっており、多くの人は近寄るのをためらった。トラックの運転手も状況を目の当たりにして、その場にしゃがみこんでしまった。

 周りから声が上がる。

 何かが落ちてきた。

 人が落ちてきた。

 女性が落ちてきた……

 自殺だ……

 きっと体はグシャグシャだ……

 散乱した段ボールと、それを赤く染めた現場は、目を覆いたくなる状況なのだが、怖いもの見たさで、いつの間に人だかりができていた。

 周囲が騒めいた。

 トラックの壊れたカーゴ内で、段ボールの山がごそっと崩れると、その中から、全身真っ赤に染まった女性が現れたのだ。

 周囲から歓声と悲鳴が聞こえた。

見ていた男性からは歓喜が。

女性からは悲鳴が上がった。

 生きているぞっ!

 救急車だっ!

 大丈夫かっ!

 紗百合は、多くの人達に囲まれていることに驚いた。

 最初は何が起こっているのか理解できなかったが、とりあえず生きていることはわかった。

 トラックのカーゴ内からひょいっと降りると、最初に駆け付けたおばさんが、心配そうに声を掛けてきてくれた。

 紗百合は改めて自分を見た。全身真っ赤で、制服のスカートも半分破れている。

これは何だ? と自分でも理解できなかった。

「お嬢さん、大丈夫かい? 早まったことをしてはいかんよ。まだ若いんだから。人生は色んなことがあるけど、悪いことばっかりじゃないから……」

 トラックの隣で信号待ちしていた、年配のおばさんだった。真っ赤な紗百合に、優しそうに手を差しのべた。

「あ、いえ、ち、違うの。私、飛び方がわからなくって落ちちゃったの…… じゃなくって、降り方を知らずに飛んじゃったの……」

「飛び方? 落ち方、かい? そりゃ大変だったね。死に方は色々あるけど、命を捨てるなんて、やっぱり考え直した方がいいねえ」

「ぁ。ぅん。だから、違うんだけど。そんな、こんなだから…… ごめんなさい。私、行くね。おばさん、ありがとう」

「行くって、ケガはいいのかい? 凄い出血だよ。もすぐ救急車がくるから、少し横になったほうがいいよ」

 確かにすごい出血だ。でもどこも痛くはない。周囲は真っ赤で目を覆いたくなる惨状だっが、これは本当に自分の血なのか?

 散乱した段ボールの中に、見慣れた物を見つけた。チューブ状のケチャップだ。

 手に付いた赤いドロッとした液体をなめてみる。覚えのある酸味の効いた味だ。

 周りは、異常に気付き始めた街の人達で、さらに多くの人だかりができていた。

 多くの人がスマホで、トラックの荷台で真っ赤に染まった紗百合や、おばさんと会話していた状況や、自分の血を舐めてホットしている紗百合を撮影していた。

 ぅわ。マジヤバ。ここから逃げなきゃ。

 人だかりの中を逃げるのも考えものだと思い、紗百合は空を見上げると、近くにあった高層マンション上部を目掛けてジャンプした。

 旋風が起き、周囲に散らばっていたケチャップがさらに飛び散り、周りをさらに赤く染めた。

「ごめんなさーい! 夢だからゆるしてー!」

 紗百合は視界の中で、小さくなったトラックの運転手に謝った。

 上昇の頂点に達すると、再び自然落下が始まった。また高く飛び過ぎて、マンション直上の30m付近から落下し始めた。

 30mというと、20階建てのビルぐらいの高さだろうか。

 再び紗百合は恐怖した。先程より高さはなかったが、落ちるのはやはり怖い。

 マンションの屋上には太陽光パネルが設置されており、鏡のように光を反射させていた。

 紗百合は、そこに激突した。

 ドン! ガシャー――ン

 鈍い大きな音と共に、ソーラーパネルの金属板が大きくひしゃげ、何枚かが勢いで吹き飛び、マンションの下に落下した。

「イタタタタ…… お尻を打った……」

 マンション屋上でパネルの残骸から身を起こし、周りを見る。

さすがにここには誰もいなかったが、またそのうち誰かが駆けつけてくるかもしれない。

 が、その前に少し一息。先程出したマカロンのマンゴー味をイメージした。

 声を出す前に、マカロンは出現した。

 紗百合は少し驚いた。特に強くイメージをしたわけでもなかったのに、簡単にマカロンが出たからだ。

一度出した物は、簡単にリピート的にできるのかもしれない。

 一汗かいた後のマカロンは格別だ。そう思い、同時に、これが本当に夢なのか、不安になり始めた。

 普段の夢なら、すでに目覚めているのではないか?

 打ったお尻は、確かに痛いし、今食べたマカロンも本当においしい。

 とはいえ、人はこんなにも高くジャンプできないし、あの高さから堕ちて、痛いだけで済むはずもない。やはり夢なのか……

「さて、この先はどうするかな」

(君はどうしたいわけ?)

「え? 誰か私に話しかけた?」 

 周囲を見渡すが、誰もいない。マンションの屋上なのだから、勝手に入ることはできないはずだ。マンションの管理人でも駆け付けたのか?

 もう一度よく見ると、鉄骨のフレームから落ちた太陽光パネルの下に、黒い毛むくじゃらの何かが見えた。

いや、いた。

 ……猫? 黒い子猫? 私がお昼寝中だったのを、たたき起こしちゃったのかな……

「ごめんね、子猫ちゃん。けがはなかった? 驚かしてごめんね」

 太陽光パネルの下から現れたのは、やはりネコだった。真っ黒の子猫で、首に赤い首輪をしていたから、誰かの飼い猫なのだろう。

(君には、このように見えたのかい?)

「えっ、え、何のこと?」

 紗百合は後ろを見た。誰もいない。確かに後ろから聞こえたと思ったのだが……

(かわいい姿をありがとう。君は猫が好きなのかい?)

 紗百合は目の前にいる子猫を見た。

 子猫も紗百合のことをじっと見ていた。

「うそっ。この子猫…… かわいいっ!」

(いや、それはわかった。だから、かわいい姿をありがとう)

「この猫、飼い猫なんだ。どんな人が飼っているんだろうなぁ」

(君がイメージしたから、首輪をしているのだ)

「ねえ、名前は何ていうの?」

(名前はない)

「名前、なんていうのかな?」

(だから、名前はない)

「なぁんて、猫ちゃんに聞いてもわからないよね。じゃ、私がいい名前を考えてあげるね」

(おい、聞いているのか? 無視していないか?)

「黒くて小さいから、それから小悪魔みたいにかわいいから。えっとぉ、りとる・ぶらっく・でびる。だから、りぶるでどう? リブル。いいんじゃないかな?」

(おい、人の話を聞け)

「リブルは、ここのビルの屋上に住んでいるのかな? 御飯は食べた? 何が好き?」

(おい、無視するなよ)

「じゃ、焼き魚を出してあげるね。ちょっと待って……」

(おい、紗百合)

「魚ってイメージするの難しいね。さっきから変な声が聞こえるし、集中できないし、取りあえずサンマでいくねっ」

(僕は別にサンマなんか食べないよ。無視しないで、話を聞いて)

「ぁあ、また聞こえる、幻聴が聞こえる。きっと悪魔のささやきだわ。耳からじゃなく頭に直接声が響くもの」

(人をリトルブラックデビルとか言って、よくいうよ)

「ああ、また聞こえる。リブルは何が変な気配感じない? デビルって聞こえたから、やっぱり悪魔なんだわ。私、怖い。見えない悪魔が私をどこからか見ているんだわ」

(そこまで被害妄想になっている君の方が怖いけれどな…… ねえ、人の話を聞いている?)

「でも、その前に…… 出ろサンマ!」

 半分叫び気味で、黒い猫の前を指差した。すると、青白い光が何もない空間から現れ、やがて実体化した。

 そこには、パックに入ったキャットフードが現れた。パッケージには秋刀魚味と書かれていた。

「あ。ごめんなさい。猫がお魚を食べているところを見たことないから、こっちが出たんだわ。ところで、カリカリでよかった?」

 カリカリとは、キャットフードには硬いタイプと柔らかいタイプがあり、大抵の飼い猫は、硬いカリカリタイプを食べている。猫によってはどちらかの片方しか食べない。柔らかいタイプは基本、高級品なのだ。

(と、言う解説は僕には必要ないよ。……ねえ、話を聞いて)

「じゃあ、とりあえずあげるね。トレーがないけどいいかな? あ、出せばいいんだ。出ろ、猫ちゃん用のトレー!」

 リブルの前に、今度は白い餌用のトレーが現れた。そこに先ほどのキャットフードを開けて餌を入れた。

 カラカラからと乾いた音を立てて、小粒の餌が盛られた。

「これ、いろんな種類の食材が入っているね。ちょっといい餌だよ」

(…………)

「どうしたの? おなかはすいてない? 柔らかい方がよかったのかな? それとも。カラスでも捕まえて食べていたのかな? いやいや猫らしく、ネズミかもしれないね……」

 紗百合は餌を食べようとしない黒の子猫に、もう少し近づき、頭をなでた。なでようとした。なでることができなかった。

 紗百合の手は、子猫の頭を通り抜けてしまう。何度も試すが、子猫を手で触れることはできない。

 背筋が凍りついた。身体が自然に後ずさる。

黒い子猫はじっとこちらを見ている。

 こ、こいつはヤバイやつだ。早くここから離れなくっちゃ。逃げなきゃ。何をされるかわからない。きっと呪われる。きっと祟られる。きっと以前の飼い主に、ここで捨てられたんだ。だから、こんな屋上にいたんだ。成仏できずに……

(……やれやれ。しょうがないな)

「ナムアミダブツなむあみだぶつ南無……」

 紗百合は両手を合わせて、自分でもよく分からないお経を繰り返し唱えた。

(水渓 紗百合! ……我が名はリトル・ブラック・デビル。リブルだ。今日はお前に忠告をしにやってきた。これ以上の勝手な振る舞いは許されない。肝に命じよ!)

「ご、ごめんなさいお許しを! も、もう、しません!」

(よろしい。では、僕の話をちゃんと聞いてくれるかな。いいかい?)

「は、はい。聞きますとも」

 正体を現した黒猫を前に、紗百合は太陽光パネルの上に正座し、背筋を伸ばした。

(よろしい。ではまず、僕は猫でも幽霊でも悪魔でもない。君の監視役としてここにきた。それと、この姿と名前をありがとう)

 紗百合が正座をしてキョトンとしている。

「……えっと、なんだっけ? かんしやく? 何それ。猫じゃないの?」

(この姿は君が想像したものだ。名前だって君がつけたのだろう?)

「えっと、そうだね。確かにそうだけど、こんなに不気味な存在だったら、そんなかわいい名前なんか、つけなかったわよ」

(不気味は余計だよ。君がそう思っているだけで、僕自身はごく普通の存在さ)

「ごく普通の猫は喋らないし、たとえ喋ったとしても、ちゃんと口が動くから、まだかわいげがあるけど、あなたは、ただこっちをじっと見ているだけで、どことなく分からないところから声が聞こえるから、不気味でしょうがないわ。やっぱり悪魔なの? 黒猫だから魔女の使い魔ってところかしら?」

(口を動かして喋る猫の方が、リアルに怖いと思うけれどね。僕は悪魔ではないし、使い魔でもないよ。君の監視役さ。君は危ないと認定された。だから僕が派遣された)

「危ない? 私が? どうして? こんなに非力で、か弱くて、かわいい私がなぜ?」

(君のような人が一番怖いのだ。非力でか弱そうなのが)

「かわいいのは? 関係ないのかな?」

(……何か言った?)

 リブルの目が冷たく光ったような気がした。

「ぅうん。別に…… 私、悪いことなんてしないよ。いくら夢の中とはいっても、見境なく何でもかんでもはやらないよ」

(そうだといいけれどね。ここで僕が釘を刺しておかないと、きっと君は暴走するから心配なのだよ)

「心配いらないわよ。それに、私が暴走するなんて思えないけど」

(最初はみんな、そう言うのさ。それで後から、そんなつもりはなかった、ってね。君も同じだと思うよ)

「あの、ところで、ここは夢の中なんでしょ? ってことはあなたも結局、私の夢の一部ってことなんでしょ? 夢占い的には行動を慎めとか、慎重になれとか、そういう暗示なのかな?」

(君がどう捕らえているかは知らないが、大体そんなところだね。よくわかっているじゃないか。しかしね、そう言う人に限って、とんでもないことをするものなのさ。人はね、見た目によらないのだよ。君も分かっていると思うけれど、ここは君たちの言う夢の中の世界だ。つまりは肉体を離れ、精神だけがこの空間で自由に活動している。それはね、肉体という束縛から解放され、精神も開放状態になっているから、君の理性と自制心がどこまで通用するのか問題なのだよ)

「じゃ、大丈夫じゃないのかな? 今だってこんなに心は安定しているし、欲望に飢えているわけでもないし。食欲は満たしたし。それに、これ、夢なんだから、何かあっても問題ないんじゃないの?」

(問題があってからでは遅い。そうならないために僕がいるのだよ)

 紗百合は、夢の世界なら、なんでもできると思っていたが、どうやら何か制約があるようだ。しかし、これは自分の見ている夢だ。目覚めてしまえば、すべてが消え去り、普段通りの生活に戻るだけだ。

 後日、再度夢を見て、明晰夢に気付けば、また夢の世界を謳歌できる。

 今回は夢の中に小動物が現れ、自分に警告のようなことを言ってきた。

きっとこれは現実世界の自分になんらかの忠告なのだろう。

 目が覚めたら、さっそくネットで夢占いを調べてみよう。きっと、黒い子猫だから凶兆なのだろうが……

 紗百合はこの突然現れた、もしかしたら不幸の黒い子猫を、どうやって追い払おうか思案した。

 黒い子猫は、まん丸の可愛い黒目で、紗百合をじっと見ていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る