第7話 傷跡
バスを降り、先程まで通ってきた道を見据える。
その道の先に鈴の背中を見つけることは出来ない。けれど、今でも自宅へ向けて歩いているはずである。
私の400メートルの最速タイムは60秒01。
鈴までの距離は恐らく500メートル強であり、路面状況・風向・風速・着込んでいる衣服、そしてなにより半年のブランクと膝のコンディションを考慮すると、100秒以上は余裕でかかってしまうだろう。
だが、全力を出すことは出来ない。
手術を終え、リハビリも終えた私であるが、走ることのリハビリは行っていないのだ。そんな中、慣らしもしないままいきなり全力を出せば、間違いなく病院送りになってしまう。
今日は日曜日。病院はやっていないぞ。
足を重点的に全身の筋を伸ばし、靴に緩みがないか確認する。動きやすいスニーカーを履いていて正解である。
何度か曲げ伸ばしを繰り返し、膝の状態はとりあえず良好。引っかかりもないし異音もしない。
呼吸を平坦に保ち、心臓を落ち着かせる。深呼吸をし全身へ酸素を巡らせ、私は飛び出した。
風を切る。
耳元で鳴る風切り音が妙に心地よくて、苦しくて息が上がるのさえ気持ちいいと感じてしまう。懸念していたよりも膝の違和感はなくて、私は思い出していた。
どうして陸上を始めたのか。
どうして走りたかったのか。
どんな走りをしたかったのか。
「……!」
風音に混じって、鈴の音が聞こえた気がした。
見慣れた小さな背中が見えてくる。鈴はまだ気が付いていない。でも、近い。もう追いつく。
まだ、上げられる。
この膝なら、まだ加速できる。
「鈴ちゃん!!」
叫ぶ。
驚いたようにして鈴が振り向くが、右膝が地面に着いた瞬間、まるで膝が横にズレるような感覚を味わい体重が乗り切らずによろけてしまう。
転倒はしなかったものの、一気にスピードは落ち、鈴に追いついた頃には片足を庇うようにして足を引きずっていた。
「ましろちゃん!」
鈴が駆け寄ってくる。そのまま私の右側に付いて身体を支えてくれた。
「ど、どうしたの、ましろちゃん」
「これ。スマホ忘れてたよ」
ポケットから鈴のスマホを取り出す。慌ててスカートのポケットを確認する鈴だが、ようやくそこでスマホを忘れたことに気が付くと、スマホを受け取り謝ってきた。
「ごめんね、ましろちゃん。ありがとう」
「いいよ」
そうは言ってみるものの、自然と表情が険しいものとなってしまう。
やはり膝が良くない。
右側の膝に体重を乗せることが出来ない。今になって痛みを感じだした。きっと、走っている最中はアドレナリンでも出て痛覚が麻痺していたのだろう。
「足、痛いの?」
鈴が心配そうに私の顔と膝とを交互に覗き込んでくる。
大丈夫、と言ってみる私であるが、このまま自力で帰れそうにない。親に連絡して迎えに来てもらうか? タクシーで帰るという選択肢もあるが。
「ちょっとじっとしてたら大丈夫だと思うから」
鈴を心配させるわけにはいかない。
大丈夫だ。
明日は月曜日。昼から病院に行こう。
「ましろちゃん」
「なに?」
「わたしのお家で休んでいって? お母さん居ないし」
「……いいの?」
鈴の申し出は魅力的だ。おそらくは急激な運動で膝関節内に炎症が起きている。それをアイシングでも出来ればいくらか痛みも取れて歩けるようになるかも知れない。
鈴はこくりと頷き、私を見据える。
「ごめんね。お願い」
私は、鈴に助けられながら彼女の家へと歩き出した。
※ ※ ※
「ましろちゃん、氷持ってきたよ」
声がしたと同時に、扉が開く。
氷が入ったボールと水の入ったペットボトル、ナイロン袋を持って、鈴が戻ってきた。
現在は鈴の自室で、鈴のベッドに寝かされている。アイシングに必要なものを言うと、鈴はすぐに用意してくれた。
「袋に氷と水を入れて、こっちの膝のとこに当てて」
「うん」
言われたとおり氷と水を一緒に袋に入れると、上から更にもう一枚被せる。即席の氷嚢であるが、そのまま私の右膝に乗せて、感覚が無くなるまで冷やす。
「冷たくない?」
「大丈夫」
しかし、大丈夫ではなかった。
膝は取り敢えず大丈夫だ。しかし、状況がよくない。
ここは鈴の部屋だ。そして鈴のベッドに寝ている。
鈴の匂いがする。鈴の私物がある。この部屋にあるもの、すべてが鈴に由来するものなのだ。
室内の光景を直視出来ず、私は目元を腕で覆い隠した。
「どうしたの、痛いの? 冷たい?」
「ううん。大丈夫。痛みも引いてきたから」
「そっか」
鈴は心配そうな表情を浮かべてベッドの上に座っていて、私の膝を冷やしてくれている。でも、たぶん見られた。
今まではタイツやソックスを履いていたから見られてはいなかったと思うけれど、今は冷やすために脱いでいる。だから、手術の痕を見られたと思う。決して隠していたわけではない。ただ、見られたいとも思わなかった。
白い肌に残る赤黒い2本の線。
一生残る傷跡なんて、見られたいものではない。
「ましろちゃん」
「なに?」
鈴が呟く。
「膝、怪我してたの?」
「……今年の春ね。部活で走ってたら捻って病院行って手術。最近になってやっと違和感もほとんどなくなってたんだ」
「…………」
「鈴ちゃんのせいじゃないよ。私が勝手に走って追いかけただけだから」
「…………」
「……鈴ちゃん」
下を向く鈴の表情はわからない。けれど、雫が落ちて、ベッドにシミを作った。
「ご、ごめんね、ましろちゃん」
「だから鈴ちゃんのせいじゃないって。私が勝手に、」
上半身を起こして、鈴に触れようとする。しかし、
「違うの!」
「……え?」
室内に鈴の声が響く。突然のことに私は気圧され、言葉を失う。伸ばしていた手が空で止まり、鈴に触れることが出来ない。
「前にましろちゃんのお家に行った時、わたし言っちゃった」
思い出す。
私の部屋にあったトロフィーや賞状を見て鈴は尋ねてきたのだ。
『ましろちゃん、あれは?』
『陸上部で2位になってね。その時の』
『ましろちゃん、走るの?』
『…………』
『……うん、前はね。今はあんまり』
『走らないの?』
『…………』
『……ましろちゃん?』
鈴は、その時の会話を思い出してしまったのだ。
「ましろちゃん、怪我して走れないのに、走らないの? って。わたし、」
私の膝を冷やす自分の手元を見たまま、鈴はぽろぽろと涙を零す。
ダメだ、違う、鈴のせいではない。誰のせいでもない。
誰かのせいかといえば、そう、私のせいだ。
勝手に私が怪我をして、走るのから遠ざかっていただけ。鈴が抱いたのは誰でも気が付くだろう当然の疑問なのだ。
現に東苺香にも同じ質問をされた。
それをこんな形で思い出して謝るなんて、違う。
「鈴ちゃん」
「…………」
鈴は顔を上げない。
「鈴ちゃん。こっち見て」
ゆっくりと、鈴が顔を上げる。
目は真っ赤に充血して今でも涙が頬を伝っている。鼻水も垂れていて、せっかくの可愛い顔がぐしゃぐしゃだ。
「鈴ちゃん。好きだよ」
そう言って。
私は鈴を抱き締めた。
氷嚢がベッドに転がるが、構わない。
膝に鈍痛が走るが、それでも構わなかった。
私の顎の下にある鈴の頭部に、鼻をくっつける。
小さい。
この子は本当に、こんなに小さいのに、色々なことを考えているのだ。
私なんかよりもよっぽど思慮深く、慈悲深く、優しくて脆い。
そんな彼女が泣いている。
私のことを想って、私のせいで泣いている。
それが耐えられなかった。無理だった。
だから、せめて泣くときくらい、私の胸の中で泣いて欲しい。
でも、抱きしめるだけじゃ収まらないかもしれない。
私はーー。
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