1章 小鳥は翼を広げる

2-1

「えっと、今日も寝てるのか?」

「……ごめん。今日で気持ちの整理をつけるから、だから、今日だけは見逃して。今日もまたあの人に付いていってちょうだい」


 昨日と同じようなことを言いつつ、アンは部屋の中に戻っていった。キズタが召喚されてから二日目にあたる朝の出来事である。

 一晩を過ごす間に、彼は異世界に来てしまったという現実を、もう仕方のないものだという風に受け止めた。あの世界を離れることに不安がないことはなかったが、それも割り切れば断てる程度のものだった。


 ドアの前にいても仕方がないので、彼は大人しく急遽容易された一つ隣りの自室に戻った。急ごしらえの割に、生活用品は一通りそろっている。下手をすれば、アンの部屋以上に充実しているかもしれない。

 彼女の口ぶりから察する限り、もともと誰かが使っていたようだ。出て行ってからは放置されていたようだが、必要最低限の掃除だけはやっていたらしい。


 やることもなかったので、キズタは部屋の中を何となく歩き回った。まず、目に付くのは窓の下に設置されたベッドである。茶色の絨毯に、いくつかの白い花瓶。レース付きカーテンに、布を掛けられた鏡。入り口の対角にはクローゼットも存在する。そのどれもがどこか古めかしいもののように彼には見えた。


 キズタが部屋の中央まで歩いた時、ふとパタリと布が落ちたような音がした。

 音のした方を向くと、彼の予想通り姿見にかけてあった布が落ちている。


「はあ」


 キズタは溜息を吐く。

 わざわざ布をかけてまでみたくなかった自分の姿が瞳に飛び込んできた。


「これじゃあ、意味ないだろうに……。というか、本当、気持ち悪いな」


 ――そこに映るのは、キズタの給仕服姿。


 そう、給仕服姿である。男のそれか、女のそれかというのをここで明らかにするのは、彼にとってはなかなかに酷なことなので、省かせていただこう。

 ただし、彼のメイドもとい給仕服姿はかなり様になっていたことだけは付け足しておく。

 彼の髪は一般的な男子のものよりも少しだけ長い。美容院にいくことを嫌った結果、女子で言うところのシャギーショート程度の長さになっている。線の柔らかな顔と相まって、どこか中性的な印象を見る者に与える。

 無論、給仕服を着ている現在は、完全に女の子にしか見えないのだが。


 汚物に蓋をするような手つきで、姿見に布を被せた後、空気を入れ換えるために窓を開けた。

 広い部屋にしては不釣り合いな気もするが、窓は一つしか存在しない。


 もっとも、不釣り合いと感じるのはこの国にはキズタただ一人しかいないが。

 というのも、この国には季節どころか天候といったものが一つとして存在しないのだから。ゆえに、取り込むべき光も存在しない。

 キズタが勢いよく窓を開けたが、入り込んできたのは室温とそう変わらない微妙な空気だけだった。陽の光すら入ってこない。鈍色の空がただただどこまでも広がっているばかりである。


 気分転換どころか、これでは余計滅入ってしまいそうだ。


 夜も空はこのままだと言うのだから、本格的に時間が分からなくなる。


 とはいえ、実際に時間が分からなくなるというのは致命的である。それは、キズタだけが思うのではなく、やはりどこの世界でも同じらしい。よって、零ノ国では時間という概念が他のどの国よりも普及しているらしい。

 しばらく窓に腕をついてぼーっとしていると、どこからかベルの音がなった。すると不思議なもので、今が七時だと理解できる。

 彼はこれがどういう仕組みなのか分からない。少なくとも科学の領域ではないのだろうことは分かるのだが、それだけである。アンに聞こうにも、現在引きこもり中の彼女に訊くのは躊躇ためらわれた。


 そうこうしているとどこからか、

「避けろー!!」

 という声が聞こえてきた。


 ひどく嫌な予感がした彼は反射的に身を伏せた。


 直後。


 ズザーという音とともに部屋の中に人間が出現した。

 実際は超高速で窓から侵入し、部屋の中に着地したと表現するべきなのだが、キズタにはいきなり現れたようにしか見えない。

 件の女性は、股のあたりのほこりを払うようにしてゆっくりと立ち上がった。


「よっ! 少年。今日もなかなか似合ってるじゃん!」


 赤い髪に、赤い瞳。特徴だけをあげれば、どことなくアンと被るのだが、その顔立ちや雰囲気はかなり違う。特に、キズタよりも高い身長と、白い甲冑姿はアンにはないものである。


 名前をルシラといい、先程アンがいっていた『あの人』である。


「しっかし、本当にアンタは災難だよなあ。いきなり雇われたら女装させられるなんてさ。……って、さっきから何も喋らないけど、どうかしたのか?」

「喋れるはずないだろ! もしアレが当たってたら、絶対、大変なことになってよな!?」

「まあ、下手したら死んでたろうなあ」

「朝から命を狙われる理不尽!?」

「狙うも何も、時間に遅れそうだったから飛ばしてきただけだぞ? そしたらその道にアンタがいた。それだけだ。アンタも道の石ころを蹴飛ばしそうになったことはあるだろ? 言ってしまえばそんな感じなのさ」

「要約すると、ボクが石ころ並と言うことになるんだけど……?」


 ルシラは何も答えなかった。それだけで、キズタは全てを理解した。

 意味もなく、日本国憲法の三大原理(特に基本的人権の尊重)を声を大にして叫びたい衝動に駆られた。


「ははは、悪ぃ悪ぃ。冗談だって冗談。それに避けられただろ? ちゃんと避けられるようなタイミングで叫んだからさ」


 にししと、悪戯っぽく笑ったルシラは、そのまま視線だけで隣の部屋――つまり、アンの部屋を一瞥した。


「どうせアンは今日もベッドでグジグジやってるんだろ? アイツの心は昔から変わらず、薄氷はくひょうだからなあ。……じゃあ、さっさと街に行こうぜ。記憶喪失になったアンタに色々教えなくちゃならねえからな。ついでに、記憶の一つや二つでも思い出してもらえれば御の字さ」


 記憶喪失――昨日、ルシラと初めて会った時、アンはキズタのことをそう説明していた。町中を彷徨っていたところを、たまたま歩いていたアンが同情してこの屋敷に住まわせることにしたのだ、と。

 女装については、バラさなければ気づかれなかった可能性もあったが、気づかれなかった場合、キズタの心中が荒れに荒れるので、対面する前にアンから説明した。異性が専属の給仕では反対されそうだったので、女装させたと。


 ルシラはそれを聞いて疑わしい表情をしていたが、結局、その後でキズタの胸をもみし抱いたことで、男だと一応は認めたようだった。


 昨日の地獄絵図を思い出しかけて、彼に戦慄が走った。


「……思い出す記憶は一つしかないと思うけどね」

「そりゃ、そうだ。人生は一回限りだもんな――ああ、確かに一つしかなかったな」

 

 ルシラは何かを思い出すように数度頷いた。

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