第7話
マリアナを叩いたことで父に咎められると思ったけど、数日が経っても父は何も言ってこない。
何も言っていないのだ。
私はマリアナを叩いた手を見つめる。
言えばいいのに。告げ口をして、怒られる私を見て「ざまぁみろ」と思えばいい。そんな嫌な奴だったら良かったのに。
なぜ、そうしないのだろう。
本館に比べて別館の使用人は少ない。そのせいか広い邸はいつも閑散としている。
私は主のいなくなった母の寝室に入る。母が死んでも使用人が毎日掃除をしてくれているので埃一つない。いつでも使えるようになっている。もう二度と使う人はいないのに。
ベッドに腰かけ、冷たいシーツをそっと撫でる。
「お母様はね、とても優しい人だったの」
母の部屋にいるのは私と私の護衛であるジルだけ。
誰に対してではなく、ただ息が零れるように口から洩れる思い出話にジルは静かに耳を傾けてくれる。
「貴族にとって愛人がいるのは別に珍しいことではない。むしろ貴族の女性なら許容しないといけない範囲。でも、それができないぐらい愛情深い人だった」
そんな母を思い出して私はくすりと笑う。嘲笑に近い笑みはそんな母を憐れんだものでもあり、母を捨て置いた父に対する憎しみでもあった。
「だから少しずつ心を壊していった。最後には私が誰かも分からなくなっていたわ」
目を閉じれば今でも思い出す。
どんよりよどんだ目。壊れたブリキのような動作でこちらを見て『誰?』と娘である私に問う母。
「馬鹿な人」
最期はハサミで喉をついて死んだ。
ジルもアンナも母の最期を知っている。ジルは私に『死を』見せないように私の視界を覆うように抱きしめてくれた。
ジルとアンナが来たのは私が10歳の時だった。その時から母は心を壊しかけていたからこんなことを言わなくても知っている。
ただ、一人でも母のことを覚えていてほしくて私は母のことを口にする。
「馬鹿な人よね。母が死んでもあの人は泣かなかった。それどころか喪が明けるとすぐに別の女を迎い入れた。そんな人にいったい何を期待していたのかしらね。本当に、馬鹿な人」
「分かってた。でも、期待を、止められなかった。人間、そういう、ところ、ある。どうしようも、なかった」
珍しく長く話すジル。話しにくいだろうに言葉を切りながら伝えてくれる。
顔に巻かれた包帯の隙間から見える目が私を捕らえる。
「愛、してた。だから、こそ」
「あなたにも、そういう人がいるの?」
「いる」
そっとガサガサのジルの手が私の頬を撫でる。
傷つかないように優しく。
「主。愛、してる」
それが主人としての敬愛を意味しているのか。幼い頃から一緒の家族としての家族愛を意味してるのか。異性としてなのか分からない。
今の関係を壊したくなくて私は確認せずにいた。今の関係が、この距離が心地良いから。余計に。
ジルも私に答えを求めては来なかった。
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