第4話 プロローグ4
4
ぼんやりと視界に光が差してくる。
ピントのボケた視野が徐々に整えられていくが、まだ焦点が合わない。
――――知らない天井…。
少年は朧気ながら、そう認識し始めた。
「目覚めたかい…」
枯れ乾いた声色が、夢の世界より戻ってきたばかりの少年の耳を突く。その声を聞きながら、少年はゆっくりと体を起こした。
「ここは…」
キョロキョロと小動物のように辺りを見回し、先程まで自分が眠っていた場所を確認しようとする。そこは彩り豊かに装飾された寝室だった。暖色、寒色、中間色を見事なまでに織り込んだ敷物に加え、様々な調度品が棚の上に置かれており、上流貴族の邸宅一室を思い浮かべた。その一角に広々と設けられているベッドに、少年は身体を横たわらせている。一人で寝るには広すぎる幅であった。
「ここをどういう場所だと答えたら、お気に召しますかな?」
「え?」
広い室内の扉付近の椅子に腰を下ろしている老婆は「ひゃひゃひゃ」と厭らしい笑いを付け加えた。質問を質問で返され、さらに回りくどい話し方に少年はしどろもどろする。
助かった?
助けられた?
生きている?
まだ…生きている。
目覚めているのにもかかわらず、少年は自らの生を認識するのに、しばらくの時間を要した。
「あ、いえ…。失礼しました。まずは助けて下さったお礼を言わなければなりませんね」
「ひゃひゃひゃ」と老婆は笑う。
「…お婆さん、ここは何処なのですか?」
言葉を放ってから少し間が空く。
少年は、質問の意味を改めて考えてみると、漠然とし過ぎていたかもしれない、と認識を改める。
まだ、上手く頭が回らない。
身体に残る疲労と痛みに、少年は話しながら時折、しかめっ面をする。しかしその態度はおよそ幼少の少年とは思えないほど毅然としていて、真摯な態度であった。
「いえ、何という国なのですか? リヴィールではないことは確かなのですが…」
「確かに。ここはリヴィールではありません。ここはリヴィールの隣国、大自然に囲まれ、太陽、月、星、風、大地、水、火の神々が生わす国、リートンですじゃ」
「リートン…」
口が半分も開いていないように見えるも、その明朗とした口調は、見た目に齢からの想像を全く感じさせない。その口からは少年の知った国の名前が出てきた。
少年が生まれ育った地がリヴィールという国であり、その隣国であるリートンの名はもちろん何度も耳にしたことがある。
険しい山脈と深い渓谷が幾つも続き、そこを流れる川の流れは異国の者の侵入を拒むかのように速い。森は深く、一度迷い込むと二度と出ることは出来ないと言われ、精霊や幻獣までもがその森には存在すると言われている。
リヴィールはリートンとの唯一の交易路を開拓し、独占的にリートンと易を成しているが、その他のリートンを取り囲むようにある「カロ」「ラヴアジェル」「ヴィルセニア」等の国々との国交は全くと言っていいほど皆無であった。
リヴィールとの交易路が開かれるまでは、外界との接触はほとんどなかったので、リートンには独自の社会構造・文明文化が栄えているらしいと言うことを、学問の師に教わったのを少年は思い返していた。
国から逃げ落ちるとき、何処をどういう風に走ってきたのかは全く覚えていないが、ここがリートンだというのなら、少年はこの国を護る大自然の胎内を駆け抜けてきたことになる。これだけ身体が痛むのも無理はない。
身体に痛みを感じるのと同時に、夢でも見た惨劇が少年の脳裏に甦る。それを思い出すだけで、体だけでなく心までもが重く痛み出してきた。
―――父さん…、母さん…。
身体の芯にまで刻み込まれた恐怖と哀しみはどれだけ走っても消えはしなかった。その映像は何度も何度も止めどなく、思い出したくなくとも頭の中を流れ狂う。
―――僕は…僕はどうすればいいんですか? 父さん…。
瞼の裏にまで焼き付けられたあの状況では、まず間違いなく一族の者はおろか、館の者全員が皆殺しにされているだろう。恐らく生き延びたのは自分一人。
少年は迷っていた。もちろん復讐を考えるどころの話ではない。
生き延びたのは自分のみ。頼れる血族も、知人も誰一人としていない。それ以前にリヴィールに戻ることは即ち、自分を殺して下さいと言っているようなものだ。故郷の地をもう二度と踏めないのかも知れない。
少年の父親と母親は「生きろ」と言った。
しかし、どう生きればいい? どうやって生き延びろと言うのだ。まだ十にも満たない少年がたった一人で、未知の世界に足を踏み入れて。
自分を助けてくれたこの老婆には、呆れるほどの感謝の言葉を浴びせかけたいくらいだったが、今考えると、死んだ方が良かったのではないかと考えてしまう。
「少年よ、心に闇は創らぬほうがええ。闇は全てを飲み込み、己を変えていく。闇に飲み込まれた者はもう元には戻れん。そなたに闇は似合わんよ…」
ボソボソと物語を語るように呟く老婆。少年は心を見透かされたのかと思って、一瞬ドキリとした。少年がピクリと身体を反応させたのを見ると、老婆は「ひゃひゃひゃ」と笑う。
「確かにお婆さんの言う通りだと思います。僕は心に闇を創ろうとしていました。いっそ飲み込まれてしまえばいいと思い…。ですが、どうすればいいのか僕には分かりません。家族を失い、住む場所も燃え尽き、故郷の国にも戻れなくなってしまった。…なのに父は生きろと言った。僕は…僕は…」
掠れるように呟いた少年の声が、静かに部屋に溶け込んでいく。
「ふむ…」
老婆は居眠りをしたように軽く頷く。
少年は溜まっていた言葉と想いを口に出した途端、瞳が僅かに潤み始めてきた。ずっと今まで我慢してきたのだろう。泣くのは負けだと自分に言い聞かし、必死に止めていたのだが、やはり中身はまだ幼かったのだ。いくら気を張って、背伸びをしても、生を受けてから数年しか経っていない少年に、この運命は酷過ぎる。
それでも少年は自分に言い聞かし、意志を貫くかのように歯を食いしばり、グッと流れようとする涙をこらえた。
すると、今まで置物のように扉付近の椅子に座っていた老婆が立ち上がり、滑るように少年に近づく。潤みきった瞳を手の甲で一拭きし、少年は歩み寄る老婆に視線を向けた。
「少年よ。名は何という…」
「ルシーナ…。ルシーナ=アストラル」
打てば響くような凛とした声が部屋に伝わる。
「うむ、良い名じゃ」
そう言うと老婆はさらに皺を深く彫り込ませて「ひゃひゃひゃ」と笑う。しかしその笑い声は最初に聞こえたような厭らしさは全くなく、むしろ何かを確信し認めたような声色だった。
《ルシーナ=アストラルに問う…》
「えっ?」
唐突に変化した老婆の口調にルシーナは困惑した。
今までは年相応ではないにしろ、聞き慣れれば違和感はなくなったのだが、その声はおよそ人間が発する音には聞こえなかったのだ。何かが老婆に憑依し、その身を媒体としてルシーナの脳に直接話しかけているような、そんな感じであった。
何者が乗り移ったのかはルシーナには知る由ものないが、誰であろうが問われれば答えるだけ。ルシーナはそう心に決めた。
その威厳と迫力に満ちた声が発する問いに答えることで道が開けるような、そんな気がしたからだ。
《汝、十六夜に包まれ、何を思う》
「生きたい。そして力が欲しいと思いました」
《汝、力を欲する者か?》
「はい」
《汝、力を如何様に用いる?》
「失ったものを取り戻すためです」
《血は争いを呼び、争いは新たな血を招く。闇は憎しみを生みだし、憎しみは哀しみに変わる。その哀しみからは闇しか生まれぬ。そして新たな闇は人々の心を貪り、食い荒らす》
「はい、承知しております」
《汝、それでも力を欲するか?》
「はい、大事なものを見つけ、それを護るために、私は力を欲します」
少年の言葉の後に、老婆の不思議な声は続かない。
しばらくの間、部屋に静寂が訪れた。
少年は老婆を見つめる。
老婆も少年を見つめている。
《汝、進むべき道が、如何なる道であろうと生き続けることを望むか?》
「はいっ」
そこまで問答を続け、最後にルシーナが答えると老婆は二、三歩後ろに下がり、大きく両手を振り上げた。
《生きよ! ルシーナ=アストラルよ。己の全てを過去に捨て、月の神子として此の地に根を下ろし、求めしものを見つけだすがいい。我は認める。此の者の願いを叶えることを!》
「………」
ルシーナは迫力のあまり、しばらく言葉が出なかった。幾重にも重なった音声が一つの音を編み出し、言葉となってルシーナの頭の中に直接響いてくるようだった。ものすごい圧力が全神経に掛かり、あらゆる毛穴から汗が吹き出てきていた。
数刻の間、室内は沈黙に包まれ、ルシーナはただ呆然としていた。老婆は何も変わった様子はなく、また置物のようにじっと立ったまま微動だにしなかった。
しかし不気味にも口だけがまた半開く。
「ルシーナよ…。最後は自分で決めなされ。全てを捨て、この国で月の神子として生きるのか、それとも、この国を出、自らの手で道を切り開いていくのかを…。どちらにしてもそなたの進む道は険しいじゃろうて…」
最後の言葉は老婆のそれに戻っていた。先程の圧力と尊厳はなく、出会ったときと同じ口調で話しかけてきていた。
言うべき事は全て言ったのか、老婆はクルリと身を翻すと、座っていた椅子の近くにある扉の方に足を進める。そしてドアのノブに手をかけて部屋からその姿を消した。広い室内に残るのはルシーナただ一人。また一人に戻ったのだ。
この国の文明文化、宗教組織についてはある程度、学問の師から学んでいた。だから『月の神子』が何たるかも浅くはあるが、それの意味するところは知っている。
だからこそ、迷っていた。容易には決断できないでいるのだ。
―――父さん、母さん…僕はどうすればいいんですか?
生きろ!
父親の最後の言葉が甦る。幼いルシーナにとっては、あまりにも無責任に聞こえるその言葉の真意は深く、そして重い。
見つけるんだ、お前が生涯その身を捧げるべきものを!
つい先日まで幸せに送っていた両親との生活を思い出す。何不自由なく多くの人間に見守られ、のびのびと生きてきた還らぬ日々を。
母の希望。
父の願い。
自分の想い。
その全てを重ね合わせ考えたとき、ルシーナには進むべき道が微かに見えた気がした。
まだ身体の節々に残る痛みを引きずりながら、ベッドからその身を起こし、目覚めてから初めて床に足を着く。膝に力が入らず、ガクンッと一瞬、上体を大きく沈み込ませるが、片膝を突くだけで身体を支え、今度はしっかりと直立し歩き出す。
その瞳の中の気持ちはもう潤んではいなかった。
老婆が出ていったドアのノブに手をかけ、同じようにゆっくりと引く。
外の廊下の空気がルシーナの肌をそよそよと擽る。違う国の風。やはりリヴィールのそれとは何となく違うように感じられた。
そして一杯に戸を引くと、赤褐色に覆われている床にグッと一歩を踏み出し、自らの足でその道を歩き始めた。
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