第2話 プロローグ2


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ…

 多くの人間の地面を踏みしめる音が静かな森に響き渡る。幾つもの松明が灯され、ゆらゆらと不規則に辺りを彷徨う。だが、数十を越える灯りを持ってしても、森の闇の全てを晴らすことは出来ず、まだまだ暗闇が奥に続くようだった。松明以外にある光源は、僅かに木々の隙間から零れ落ちる月光のみ。今宵の月は人々に何かを伝えたいのか、いつになく煌々と照り輝いていた。

「長老! こちらです!」

 一人の若者が大声を張り上げて、遠くにいるであろう人間に声を届かせようとしていた。

 その声に反応し、宙空に浮かび、あらゆる方向に進んでいた炎が一カ所に集まりだし、一つの群衆を作り出す。結果、その中心だけは昼間のような明るさになった。人々が取り囲んでいるのは倒れている一人の少年。着ている衣服はボロボロに擦り切れ、顔や露出している手足は泥だらけ。

そして見るからに顔色も肉体的にも衰弱しており、死体と間違がわれてもおかしくはなかった。

「黒い髪だ…」

 取り囲んでいる壮年の男性が松明を少年の髪の毛に近づけて、色を確認し、そう呟いた。

 その声は、波が伝わるように直ぐさま群衆の全てに広がり、ざわざわと騒ぎ始める。

「黒の者だ」

「闇の者だ」

「殺せ!」

「燃やせ!」

「異国の人間は追放しろ!」

 様々な罵詈雑言が飛び交い、少年の存在を否定していく。やがて異口同音であったその言葉は同調しだし、合唱となって森の隅々まで届くぐらいにまで大きくなる。

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!殺せ!」

「燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ!」

 男達の興奮は次第に増長していき、ゆっくりと仰向けに倒れている少年に松明を近づけていく。初めに触れた髪の毛がチリチリと小さく音を立て、籠もった臭いを出しながら細い煙を立ち昇らせていく。

「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!殺せ!」

「燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ! 燃やせ!」

 狂喜鼓舞する雄叫びが最高潮に達したとき、無数の炎が少年の肌に突きつけられた──―かと思われた。

「静まれぃ!」

 まさに鶴の一声。低く、心の臓を鷲掴みにするようなその声は、一瞬で騒ぎを静め、屈強な風貌をした男達を退かせた。先程の叫びの反動か、森の奥深くまで、しんと静まり返ってようで、今となっては羽虫の囁く音すらも耳に届く。

 声を発した人物を含む新たな一つの集団が、少年の元へ近づいていく。

少年を取り囲んでいた男達はたじろぎながら後退し、その中心を歩く人物に行く道を開けた。

パチパチと灯火の木々が弾ける音と共に現れたのは、齢、百を数えるのかと思うほどの老人の姿。彩り鮮やかな民族衣装をその身に纏い、ゆっくりとした足取りで倒れている少年の足下まで歩み寄っていく。その老人が一歩足を進める度に、シャリリリリィィィン…、シャリリリリィィィンと、いくつも飾り付けられた鈴が耳孔を擽る。

 皺と爛れた皮膚のために開いているのどうかも分からない瞳の先は、恐らく少年の容姿を見つめているのであろう。僅かにだが、顎先が上下に動き、その動作はとてつもなく緩慢だった。そしてその動作に続き、ゆっくりと面を振り仰ぎ、天空高く昇る満月を見上げ、両手を掲げる。

 それに習い、群衆全員が月と星の輝く夜空を仰いだ。

《彼の者、異国より来たりて、我らの前に姿を見せん…》

 嗄れてはいるが、はっきり朗々とした声色が静寂の森に染み渡る。その他に何人たりとも声を発する者はいなかった。

《黄昏の刻を迎えし地より、大いなる十六夜の月の加護を受け、生まれし其の者…》

長老がそこで言葉を切ると、人々の沈黙が破られた。

「月が…」

「月が…」

 口々に呟き始める。

「消えていく…」

「月の神が御降臨されるのだ…」

「おぉぉぉ…」

 戸惑いはどよめきとなり、その声は徐々に欠けていく月に向けられる。満月であったはずの月は、満月から三日月、そして半月を通り越して新月に近づく。そして、月の光が全て覆い尽くされると、さらなる闇が樹海を包み込んだ。

男達の狼狽える声が自然と静まり返った頃、長老が再び言葉を続けた。

《月の神の従者にて、我ら、崇め奉り、新たな月の神子(みこ)とする!》

「ははぁっっっーーーー!!」

 その場にいた数十もの人間が、倒れている少年を中心に、一斉に地に平伏した。松明を手にしている者、槍を掲げていた者、長老を除く全員が地面に額を付け、しばらくの間、誰一人として面を上げる者の姿はなかった。

 天空高く振り上げていた両手を下ろし、長老は踵を返すと、また闇に響き渡る鈴の音を鳴らしながら、その場を去っていく。


月は何事も知らぬ素振りで、また、柔らかな光を世界に降り注ぎ始めている。


 全ての始まりを見届け、全てが終わるまで見守るかのように…。

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