花瓶

@arunaka

花瓶

 その日は、12月なのにとても暖かかった。私は、冬の柔らかい日差しをぼんやり感じつつ、高校から貰った冬休みの宿題をコタツの上に広げ、何を考えるでもなくただボーッとしていた。

 昨年は高校受験に向けて必死で勉強をしてしまった。なので、「今年の冬休みは思いっきり堕落してやろう」という謎の決意を、二学期の終わりの日に親友の葵衣として突入した冬休みを、宣言通りに実行している。

 そんな娘を、どう思っているのか、どうも思っていないのか、良くわからない母が、隣で地域の広報誌を読んでいた。父は単身赴任で隣町に仕事へ出ているので、母と私の二人きりという生活が続いている。

 どこの家庭にもあるであろう、ありふれた日常が淡々と音もなく流れていた。

「なんか暇だねー」と無性に声に出して言いたくなったので、私は声にしてみると、母は「そうねー」とやはり特に何も思っていないように返してくる。つまらない。

 この時間を「平和だな」と思うことができれば、いくらか幸せだろう。しかし私は、美しいはずの花を見て、「わあ、きれい」と純粋に心が喜ぶような感性は持っておらず、この穏やかな時間も「平凡でつまらんなー」と思うことしかできなかった。


 翌日は、昨日の暖かさが嘘のように冷えていた。

 私は相変わらず、朝から昼までずっとコタツの中で、見てもいないワイドショーをつけっぱなしにしたまま過ごしていた。流れる音と画面をぼんやり感じていれば、余計なことを考えずに時間が過ぎる。

 「ピロロロロ」という電子音がけたたましく鳴った。私は、一瞬何が起きたのか、理解できなかったが、珍しく固定電話が鳴っていた。

 「はい、佐々木です。えっ。はい。はい。」

 母の電話の応対と、顔色の変化でさすがの私も、ただならぬ事態であることを察した。母の顔色がみるみる青白くなる様子は、夏が突然終わりを告げ、真冬になってしまったかのようだった。

 電話を終えた青白い母に、私が「どうしたの」と聞くよりも早く、「梨花は家にいて」とだけ告げて家を飛び出した。

 あの急ぎ方だと、身内に何かあったのか。でも身内と言っても限られている。父方の祖父と祖母も、母方の祖父と祖母も他界している。

 母の妹さん、つまりは私のおばさんは存命だが、まだ亡くなるような歳ではない。だとすると、お父さんが。と最悪のシナリオが頭をよぎる。いくら考えても答えが出るわけがないのに考えてしまう。

 どのくらいの時間が流れたかは分からない。気づけば、脇の下は汗だらけだった。何となくいてもたってもいられなくなって、コタツから出たとき「ブーッ、ブーッ、ブーッ」と私のスマートフォンがコタツの上で振動した。獲物を捕らえるがごときの速さでそれを掴み、画面を見ると、そこにはおばさんの名前が表示されていた。

 やっぱり、おばさんに何かあったんだ。


 父に何かあったわけではないんだと思うと、少し落ち着いた。おばさんには申し訳ないけれど。でも、もし、おばさんに何かあったとしたら、おばさんから直接私に電話がかかってくるのもおかしい気がする。

「もしもし、梨花です」

 電話に出ると、なぜか、おばさんは泣いていた。おばさんのすすり泣く声が、私をさらに冷静にさせた。

「ああ、梨花ちゃん。私、景子の妹の亜樹よ」

「え。あ。はい。どうしましたか」

「梨花ちゃんのお母さんが、車で電信柱に衝突して。それで、大変なの。梨花ちゃんの家にタクシー呼んだから。もうすぐ来るはずよ。それに乗って病院まで来てちょうだい」

 いや。訳が分からない。

 母はさっきまで元気で。さっきまで家にいて、飛び出して。飛び出すほどに元気で。私は吐きそうだった。

 体の穴という穴から、焦りが吹き出すような混乱の中で、ただ、私は、意味もなく脚をバタつかせながら家の前の道路でタクシーを待った。

 来たタクシー運転手に八つ当たりをしそうになるのを、必死で堪えて、「急いでください」と嗚咽しながらかろうじて伝えた。信号にかかるたびに、自分の中でタクシーの運転手を殺した。

「お母さんが、大変」ってなんだよ。意味がわからない。

 病院に着いて、どうやって母のもとまでたどり着いたのか、全く記憶がない。

 気づいたら、私は病院で泣いていたと思う。私が私の髪の毛をむしりとろうとしているのを、おばさんが必死で止めてくれていたと思う。

 全てが曖昧で、次に意識を取り戻したときには、自分が病院のベッドで横になっていた。目を覚まして起き上がると、私のベッドの横のイスに、目をパンパンに腫らしたおばさんが座っていた。

 母は死んだ。車のスピードを出しすぎたことが原因の事故死だった。

 他に死んだ方が良いやつは、この世にごまんといるはずなのに。

 なんで私の母なのか。

 理解ができなかった。

 おばさんは、ぐちゃぐちゃになった顔を私に向けて、最後の力を振り絞るように声を出した。

「梨花ちゃんのお父さんと連絡がつかないの」

 病院もまずは、父に連絡をしたのだが、連絡がつかず、実の妹であるおばさんに連絡をしたということだった。

「父は単身赴任で。家にはもう一ヶ月は帰ってきてないです。多分、仕事だと思います」と言いながら、なんと役に立たない情報だろうかと思った。でもそれしか考えられなかった。

 実際、母の死後の翌日には「梨花ちゃんのお父さんは、仕事で遠方へ出ているので、どうしてもしばらくは帰れない」とおばさんから伝えられた。


 父がしばらく帰ってこれないということで、私はおばさんとおじさんのもとで生活を送ることになった。目に映るもの、全てが色彩のない灰色の世界だった。

 おばさんたちが、慌ただしく動いているのは、父の不在によるものだろうことも伝わってきたが、そのことに対して私は特に何も感じることもなかった。食事以外はただひたすらベッドで横になったまま、日々を過ごした。

 頭の中では、常に母の亡くなった日の情景が再現されるだけ。本来人間にあるはずの、喜怒哀楽が見当たらなかった。抜け殻というか、人形のような。 

 器だけあって中身がない。

 花が生けられていない花瓶のように、周りからは見えていただろう。

 葬儀の日、私は久しぶりに部屋を出て制服に着替えた。見慣れない洗面台の鏡の前に立つ私は黒い死神で、今なら何も考えず人を殺せそうだった。

 通夜もなく、葬儀のみ行われた肉のある母との最後の対面。

 ところどころで、「なぜ景子さんの旦那はいないのか」という声が聞こえるたびに、今どこで何をしているのだろうと思った。もう他人事のような気がした。

 何人かの友人は泣いていた。

 棺からのぞく母の顔を見たときに「おえっ」とえずいた。

 口から心が吐き出されたような味がした。

 火葬場で骨の母を見たときは、もう何もなかった。

 これが廃人というやつなのだろう。

 誰からも愛されていない人形。

 磨かれていない器。

 水すらも入っていない花瓶。

 そのときの私の心に何かあるとするならば、「無」があるだけだった。

 私は、葬儀が終わった後も、継続しておばさんの家で暮らすことになった。おばさんは、旦那さんと、ふたりで暮らしていて子どももおらず、私が新たな家族として加わることを歓迎してくれていたようだったが、そんなことどうでもよかった。

 新たな自分の部屋となった場所に、ひたすらこもる生活を繰り返し、眠り続けた。


 ある日、食事の時間でもないのに、部屋の扉がノックされ、おばさんが入ってきた。

「明日から学校が始まるけど、梨花ちゃん、どうする?」

 ゆったりと、幼子に問いかけるような喋り方だった。

 私はいつもと同じように、頷くことも、返事をすることもなく、さなぎとなったイモムシのようにベッドの布団にくるまっていた。おばさんが、ベッドの淵に腰を掛けた。

「梨花ちゃんのお母さんが亡くなって、私もすごくつらかった。つらいなんてもんじゃなかった。どこかで、あなたのお母さんが生きているんじゃないかって、探そうと思った。でも、探す場所もなかった。夢の中でも会いたかった。そう思ったとき、もし、あなたのお母さんが私に会ったら、何て言うだろうって考えたの。多分「私のために悲しんで」なんて言わないなって。言うとしたら「あなたの目の前に生きてる私の娘を頼むわね」って言うような気がしてね」

 おばさんは、母がそう言ったことを思い出すように、懐かしそうに、クスっと笑った。亡くなった母と本当に話をしたようだった。

 今、もし亡くなった母と会って話ができるとしたら、私は何を話すだろう。

「なんで死んじゃったの?」とか。

「もっと一緒に買い物とか、いっぱい色んなとこ行きたかった」とか。

「死なないで」とか。

 どれも違う気がした。もしこんなこと言われたら、母はどんな顔をするだろう。

 つらく。

 悔しく。

 もどかしく。

 どうしようもない状況を前に、ただ涙する母が目に浮かんだ。そんなことは、望まない。

 私の望みは、母のやすらぎ。

 私が母にかけるべき言葉はもっと別の言葉。

「お母さんの分も、一生懸命生きるね」

 私は言った。心の中で。ありきたりだけど。これが本心だった。

 「そうだよ。ちゃんと生きてくれないと。悲しむよ。お母さん」

 そう返ってきた誰かの声は、自分が発した声なのか。それともおばさんが発した声なのか。天から降り注ぐ亡き母の声なのか。この世界で、同じように母を失ってしまった人々の励ましの声なのか。

 でも声だった。魂のこもった確かな声が体中に響き渡っていた。


 気がつくと、私はベッドに座っていて、おばさんが私を抱きしめていた。

 私は何度も「ごめんなさい」と「ありがとうございます」を繰り返していた。

 おばさんは「いいのよ。いいのよ」と優しく私を撫でてくれた。

 私が正気を取り戻したその日の夜、おじが仕事から帰ってくるとすぐに、玄関に駆けつけ、深々と頭を下げ謝罪した。私が、今振り絞ることのできる最大限の誠意と、心を込めた謝罪だった。ここまでのおじさんたちへの私の行いは、人間が人間に対して行うあらゆる行為の中でも、冷めた行為の一つだと思った。

「少しは元気になったかい」

 おじは優しく微笑んだ。

「はい、本当にご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「いや、梨花ちゃんが謝ることは何もないよ。迷惑だとも思ってないさ」

 そう言って、私の頭をポンポンと二回叩いた。

 世の中には、なぜこんなにも器の大きい人たちがいるのだろうか。私のちっぽけな器は、母の死によってひび割れを起こし、おばさんの力がないと磨きなおすこともできなかったのに。

 空っぽになっていた花瓶に水が注がれ、花がひとつ生けられたような気がした。

 

 翌日、私はさすがに学校を休んだ。一週間学校を休み、その間で体調を整えることと、おばさんの手伝いをすることを約束していた。

 久しぶりの朝の空気は、ヒンヤリと澄んでいて水色だった。大きく息を吸うと、細胞が新しく生まれ変わるために呼吸をしているのがよくわかる。

 私は、おばさんに代わって朝食の準備をすることにした。以前は、母が毎日準備をしてくれていたので、自分で料理をするのは休日くらいだった。なので、朝食を作るだけでドキドキした。しかも、おじとおばと食べる初めての朝食だ。一つひとつ丁寧に、心を込めて調理した。

 リズムよく刻まれる野菜の音。

 煮えた味噌汁から沸き立つ心地よい湯気。

 炊飯器を開けた時に飛び出すお米の香り。

 これまでも、普通にあったはずの音や香りの、全てが新鮮で、新しい発見に満ちているようだった。生まれたばかりの子どもが色んなことに興味を持つように感覚や感情が異常に研ぎ澄まされていた。

 自分の行動のひとつひとつが、強い意志のもとで行われると、こんなにも輝くのか。視界が鮮やかに色づけされていく。今なら、美しい花を、美しいと感じられそうだった。

 私が準備した朝ごはんを、おじとおばが楽しそうに食べてくれたときは涙が出た。


 一週間遅れて始まった三学期も今までと特に変わりはなかった。強いて変わった点をあげるとすると、それは周囲の私への接し方や眼差しが、とても柔らかかったということだけだ。特別な言葉はなくとも、私に対して哀れみや励ましといった感情が向けられていることを感じた。

 ときに、「あぁ、あの子、お母さん亡くなったらしいよ」とでも言いたいような好奇の目も向けられることもあったが、それは圧倒的に少数で、多くの人は幼い子どもが初めて立ち上がろうとするのをじっと見守る母親のような目だった。

 親友の葵衣は、私が登校するとすぐに私のもとへ駆け寄って、冬休み前と同じような「おはよう」を言おうと意識した様子で「おはよう」と言った。それは私に対する小さな、でも中身はたくさん詰まったプレゼントのようだった。そんな些細な気遣いも、今までの私なら何も思わず流してしまっていただろう。

 私が「葵衣、おはよ。ありがとね」と言うと、葵衣の方が涙ぐみ、「大変なことあったら絶対言ってよ。手伝うから」と力いっぱい私を抱きしめてくれたときは私も泣いた。

「悲しくて泣いたんじゃないから、嬉しくて」

 私は言った。

「そんなのどっちでもいい、泣きたいときには泣いたらいいの」

 そう言って、私よりもわんわん泣き出した。

「よしよし、わかったから。ありがとね」

 葵衣の頭を優しく撫でた。私の葵衣に対する感謝の思いが、葵衣の心に確かに届き、葵衣の中で美しく生きますようにと願いを込めて。

 私は自分がいかに恵まれた存在であったのか、全く自覚していなかった過去の自分を恥じた。母と一緒のコタツに入ってボーッと過ごした時間を、今の私は「平凡」なんて薄っぺらい言葉で飾らない。

 朝食の準備は私の日課になった。おじさんとおばさんは毎朝とても喜んでくれるし、他の生き物たちの命をいただいて生きている感覚を自分の中で常に大切にしたかった。

 そういう訳で、その日の朝も豚さんに感謝し、命が命へとつながろうとするパチパチという音を楽しみながら、朝食を作っていた。おじさんとおばさんが、いつもと同じように二階の寝室から一階のリビングへ降りてきたので「おはようございます」とあいさつをした。

「おはよう。今日は寒いわねー。雪がうっすら積もってるわ」

 おばさんは言った。

 雪という言葉を聞いた瞬間、私の心の中に、楽しいような、思い出すと悲しいような、何とも言いにくい感情が沸き上がった。

 それが、中学校三年生の冬、受験勉強の気晴らしをしようという父の提案で、スキーをしに雪山へ行った記憶によるものだとすぐに気づいた。これが結果的に父と母とともに行くことのできた最後の家族旅行だ。父はバリバリ滑れるのに、私と一緒にゆっくり滑ってくれる、優しい父だった。

 それなのに、母が亡くなっても未だに姿を現さない。仕事と言っても長すぎやしないか。

 実は私の知らないところで仲が悪くなり、既に離婚状態だったのだろうか。そう思うと、もう止まらなかった。

「そう言えば、私のお父さんは今どうしてるか、ご存じないですか?」

「仕事に決着がつかないらしいんだ。どうしても大変で手を離せないらしい」

 そう言っておじさんが気の毒そうな渋い表情を浮かべた。おばさんも「早く帰って来れるといいんだけどねー」とすぐに続けた。

「そうですか。すみません。朝から変なこと聞いてしまって」となるべく自然に笑って、焼けたベーコンを皿によそった。

 そして、いつもと同じような会話をしながら三人で朝食をとり、おじさんの出勤と同じタイミングで私は家を出た。

 私は薄く積もった雪に滑らないように注意しながら、一歩ずつ地面をつかむようにしっかりと歩いた。雪は降っていなかったが、空を見上げると、いつでも雪を降らす準備ができているような雲に覆われていた。

 前までの私なら気が付かなかったかもしれなかった。母が亡くなって、おばさんに励まされて。立ち直った時に見えた世界は鮮やかで、色んな刺激や美しさに世界が満ちていることに心が喜んでいた。ありふれた日常のささやかな幸せ。言葉に込められた爽やかな思い。

 敏感に感じてしまうのは、もちろん、善なるものだけではない。全開になっている私の感受性は、邪悪なものにも速やかに反応を示す。

 おじさんとおばさんは、嘘をついている。


 心に忍び寄る暗い影から逃げるように、私は学校へ急ぎ、葵衣にことの全てを打ち明けた。葵衣は、全てを飲み込むように深く深く頷きながら話を聞いてくれた。その目には、女神のような一種の神々しさが宿っていた。

「梨花のお父さんが今どこで何しているかとかは分からないけど、おばちゃんとおじちゃんが、ついている嘘は梨花を苦しめるための嘘じゃないんじゃないの。梨花が命の恩人だって感じるような人が梨花を苦しめる嘘をつくなんて思えないし。梨花が知ると悲しむから、必死で隠そうとしてくれていると思う。だから、おじちゃんとおばちゃんを疑うのは、梨花にとってもおじちゃんとおばちゃんにとっても、悲しいことだと思う」

 心に暗い影がさしたとき、それを鮮やかに照らしてくれる力は、2種類ある。

 ひとつは太陽という圧倒的な自然の力。もうひとつは、扱いを間違えるともろく崩れてしまう。けれど、絶妙なバランスで奇跡的に積み上げられた友情かもしれない。

 

「ただいまー」は元気よくハツラツとした声で言った。逆に心配されるのではないかと思ったが、実際、家を出た時よりも心に陽が射していたので偽りではなかった。

 おばさんもいつも通り、「おかえりなさい」と優しく微笑むような声で返してくれた。おばも、つい先ほど晩ご飯の買い出しから帰ってきたようで、リビングの机の上には買って帰ってきたばかりの野菜やひき肉がまだ置いたままだった。私が、食材を冷蔵庫に片付けるのを手伝っていると、おばさんが心配そうな声色で尋ねた。

「学校は大丈夫?困ったこととかない?」

「うん。みんな優しいから。勉強に集中できないのは相変わらずですけど」

 そう言って私が笑うとおばさんも、安心した様子で微笑んだ。その後、一緒におばさんと夕食を作り、おじさんの帰りを待った。

 そろそろ帰ってくるかなーと話しながら、おじさんが帰ってくることを、二人とも当たり前のように信じているのがおかしかった。この光景は奇跡なのか、それともただの日常なのか、そんな事を考えるうちに、「ただいまー」と声がした。

 帰るべきところに、当たり前に帰ることができるということは、いつの時代も尊い。それは人間がまだ、裸で野生の獣を追って狩りをしていた時代から変わってないのかもしれない。

 私は、晩ご飯の前に決着をつけることにした。これもまた、狩りのような一種の勝負だった。

「おじさんとおばさんに、相談があるんです。聞いてもらってもいいですか?」

 そう言うと、二人ともその時が来ることを知っていたかのような目で、「いいよ」と言った。

「父のことについて、おじさんとおばさんが何か隠していることがあるような気がするんです。気のせいかもしれないけど、今朝ふとそんな気がしました。でも、その隠し事は私を傷つけないために、おばさんとおじさんが隠そうとしてくれているような気もするんです。全部、私の気のせいかもしれないです。すみません。でも私は、父の本当の今を知らないと、いつまでも、本当の意味で母の死からも立ち直れないんです」

 息をするのも忘れるように一気に喋った。

 おばさんはおじさんを見た。おじさんは下を向いた。おばさんの目にも、おじさんの目にも迷いがあった。そしてしばらく言いよどみ、おじさんがゆっくりと顔をあげ、息を吐いて言った。

「今から、私の言うことが、梨花ちゃんをまた、ひどく傷つけることになるかもしれないことが心配なんだ。お父さんのことについては、もうしばらく時間が経って、君が大きくなってから言うべきだろうと、亜樹とも話をしていた」

 息を大きく吸い、大きく吐いた。それは開ければ誰かが傷つくパンドラの箱を開く準備をしているようで、私も見ていて苦しかった。この箱を開くことで誰も幸せになれないような予感があった。

「本当にいいのかい?」

 ここまで来て、後戻りできるほどに私は成熟していなかった。黙って私は頷いた。

「梨花ちゃんのお父さんは、警察に捕まったんだ。」

 想像を超える衝撃を脳に叩き込まれた。脳がぐわんと揺れた。

「え。いや。なんでですか?お父さんがなんで事件を起こすんですか?」

「私たちも最初は信じられないと思ったし、何かの間違いだと本当に思った。裁判所にも問い合わせたし、弁護士の人とも話した。お父さんと面会もした」

 私は、おじから伝えられた言葉をゆっくりと噛みくだき、飲み込んだ。全身から汗が吹き出ている。その汗を自覚したとき、私はひとつの結論にたどり着いた。


「父が母を殺したんですか?」

 

 父の不在とともに、ずっと私の中に眠らせていた疑問。それでも、その疑問を抱くたびに、母を思い出し、胸がぎゅっと苦しくなるから思い出さないように蓋をしていた疑問。

 事故が起きた日。母が死んだ日。

 家にかかってきた電話のあと、なぜ母は家を飛び出したのか。

「いや。梨花ちゃんのお父さんは、お母さんを殺してない!お母さんは事故で」

 おじが喋り終わらないうちに、私はその言葉をさえぎってしまった。

「そういうことじゃないんです。父が、逮捕されたから、母は急いで家を飛び出したんじゃないですか?違いますか?そうですよね!絶対そうですよね!」

 おじさんたちが、母があの日、急いで家を飛び出したころを知っていようが、知っていまいが、どちらでもよかった。とにかく、私以外の誰かに、そしてそれは私のことを本当の意味で理解してくれるであろう信頼の足る人に、この思いをぶつけなければ私は壊れてしまいそうだった。

「お父さんは、お母さんを殺してなんかいない。事故だ」

 おじさんがひたすらそう繰り返していた。その声は、私に言い聞かせるものではなく、おじさん自身に暗示をかけるような声だった。

 事故。事故。事故。事故。お母さんは事故。

 しばらく、呼吸に徹して、そして母を思い出した。母の望みは何か。自分に言い聞かせた。

「すみません。私から教えてくれって頼んでおきながら、取り乱して。本当にすみません」

「いいの。ずっと隠そうとしていた私たちが悪いの。お父さんのことだもの。取り乱させて。本当にごめんなさい」

 おばさんが、なぜか申し訳なさそうに、目に涙を浮かべ頭を下げた。これがカッコイイ大人なのだろうと直感した。貫き通す筋というものを、おばさんたちは常に持っていて、私は、一人の人間として尊重されているということの証を目の前に提示されたようだった。この証があれば、今なら。

「なぜ、お父さんが捕まったのか教えてください。今ならちゃんと受け止められる気がします」

 私は言った。初めて一人で空を羽ばたこうとするヒナの羽音のような、か弱くも強い声だった。

 おじさんとおばさんは、目を合わせ、うんと頷いた後、知っているであろう全てを語り始めた。

                   *

「 お父さんへ 」

 お父さんに、初めて手紙を書きます。こんな形で、手紙を書くことになって残念だけど、こうするしかお父さんに今の私を伝えることができないので手紙にしました。

 お母さんが死んでしまいました。知っていますか?

 お母さんはお父さんに、少しでも早く会いに行こうと思って、焦って、事故してしまったみたいです。お母さん、お父さんのこと好きだったんだね。

 お母さんがいなくなってから、私はお母さんの妹の亜樹おばさんの家にお世話になっていました。おばさんから、お父さんが高校一年生の女の子を売春したということを聞いて、とてもショックでした。でも、そんなことをしたお父さんのことも、死の直前まで愛していたであろうお母さんって、どれだけすごいんだろうって正直、そう思います。

 お父さんは、お母さんを愛していましたか?

 お母さんは、お父さんに会って、お父さんから話を聞くまで、お父さんの罪を信じてなかった。それはお父さんを信じていたからだと思います。

 私は、私の中に花が生けてあると思っています。花は、色んな人から与えられた愛情だったり、感謝だったり、信頼だったり。

 そんな花を、自分の中にたくさん持っていて、誰かの花が枯れそうなときとか、花瓶がいかにも寂しそうなときとかに、自分の花瓶から花を一本とって渡してあげる。

 お父さんの花瓶には、美しい花がきっとなくて、ひとりで寂しかったのかもしれないし。

 被害の女の子の花瓶も、もしかしたら同じように寂しかったのかもしれない。

 それは分からないけれど、お父さんはお父さんが傷つけてしまった女の子の魂と、お父さんが奪った2つの命を、お父さんの中に生け続けることが償いです。

 私はお母さんのそばにいます。

                                佐々木 梨花

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