私の耳を優しく噛んで
大谷寺 光
第一章:学園祭
1-1
絵理奈の周囲の空気がその密度を周期的に変化させ、それが彼女を包み込む透明な羊膜状の干渉層を突き破ろうと、飽きもせず執拗に揺さぶりをかけていた。その密度変化の周期性は気まぐれに変化し、時には突風に煽られた大波のように容赦なく降り注いだり、あるいは凪いだ湖面のようにヒタヒタと彼女の足元を洗った。それでも絵理奈を保護する鎧は強固で、そこに何らかの傷を負わせ、その機能を損傷せしめることに成功した者はいまだかつて居ない。そして不思議なことに絵理奈自身も、自分を守るその城壁の存在に気付いてはいないのであった。いや、むしろその存在を認知できていないのは、彼女だけだったのかもしれない。周りの者たちが彼女と何らかの接触を持とうと考えても、あらゆる信号がその半透膜によって減衰、または屈折された上に、彼女の意識に到達できるのは極めて僅かの幸運な声のみである。そして更に、それに対し彼女から帰って来る反応も同様で、その半透膜によって鈍され、幾分あるいは大いに変質した状態でその姿を現すことを知っていた。
絵理奈は市内の公立中学に通う15歳。少し垂れ気味の目は人懐っこい印象を与え、顔の筋肉の動きに合わせて時折見せるエクボがチャーミングだ。緩やかなカーブを描く髪は肩に掛かる位に揃えられていて、その髪質は小さな子供の様である。ただ、あまり手を加えているわけではなさそうで、その折角の美しい髪も彼女本人から顧みられている様子は認められない。同じ年頃の女子が毎朝、一喜一憂するであろう髪の毛の
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒たちは一斉に席を立ち、帰り支度を始めるか、もしくは授業の開始によって中断された気の合う友達との談笑を再開し、教室内は一気に活気を帯びる。だが、そういった外宇宙の劇的な変化も絵理奈には何の影響も及ぼすことは出来ない。彼女の時間は滔々と流れ続け、そこに何らかの楔が
殆どの学友たちは知る由も無いが、こういった時の絵理奈の頭の中では、大好きな曲が流れている。彼女の歌声を聞いたことが有る者は限り無くゼロに近かったが、それでも一部の人間は絵理奈に
そんな絵理奈が学友たちの輪から外れ一人岐路につく頃、入れ替わるように一組の中年夫婦が学校を訪れていた。絵理奈の両親である。彼女の帰路はとてつもなく時間が掛かることを知っている二人は、絵理奈が家に着くまでに担任教諭との面談を終わらせることが可能と推察していた。面談が終わって直ぐに取って返せば、彼女が玄関を開ける頃には二人ともリビングで寛いでいたという状況を作り出せるだろう。果たしてその通り、絵理奈の歩みは牛歩のごとく遅く、気になった花などが見つかれば10分でも20分でも、あるいは多い時には30分もの間、飽きもせずその花を見詰めていることが有る。当然ながら同級生たちはどんどん絵理奈を追い抜いて行ってしまうが、彼女はそれを気にする様子も無く、もしかしたらそれに気付くことすら無く、幸せな一人の時間を満喫するのだった。
絵理奈の担任は苦虫を噛み潰したような、苦渋に満ちたわざとらしい表情で言った。
「非常に申し上げにくいのですが・・・」という前置きに続いて担任の口から出た言葉は、絵理奈の両親が予想した通りのものであった。
覚悟が出来ていたと言えば嘘になるが、薄々感付いていたというか、それ以外の選択肢は無いのであろうという気持ちだ。それを第三者から言って貰えれば、親としての葛藤に終止符を打つことが出来るかもしれない。そうやって自分たちを楽にして貰いたいという痛切な想いも、二人の偽らざる気持ちであった。
「絵理奈さんの高校進学は諦めた方がよろしいかと・・・」
「やはり、無理なのでしょうか?」諦め切れない母親が食い下がる。
「彼女は専門の医療機関に診て貰うべきだと私は考えます。ただ、最も優先されるべきは本人の気持ち、それからお二人ご両親のお気持ちでしょう。私から『こうしなさい』という風に申し上げることは出来ないのですが・・・ やはり・・・」
担任は半ばウンザリしていた。あんな学力で高校など行けるわけが無いではないか。黒板の文字をノートに写し取ることすら出来ない人間が、進学して何になると言うのだ?
「やはり?」今度は父親が聞き返した。
「やはり進学とは異なる道を選択するのが、本人の為にも良いのではないかと・・・」
絵理奈が居るとクラスの平均得点が低迷してしまう。担任にしてみればいい迷惑なのだ。ババを引かされた我々教員の気持ちを一度でも考えたことが有るのか、この親は?
「特殊なカリキュラムとかで、
大学の教育学部で習った・・・ 何という講義だっけな? 養護教育関係の科目だったが・・・ 担任は記憶の片隅をほじくり返し、その教職員目線の自己満足的な理想論で彩られた
「お母さん。人間にはそれぞれ、出来る事と出来ない事が有ります。その出来ない事をサポートし、出来る事を伸ばしてゆくことが
ここまで噛み砕いて言えば、この親にもこちらの言わんとするところが伝わるだろう。担任は満足げな表情を浮かべた。母親は喉を詰まらせるようにしゃくり上げる。母親の代わりに父親が応えた。
「判りました。家に帰って家内とよく相談してみます」
担任は、もう一つ思い出したフレーズを付け加えた。これで完璧だ。
「お父さん。絵理奈さんの学力から言って、進学よりも就職、そして自立という道筋を立ててあげるということも親の大切な役割ではないでしょうか?」
担任との面談を終えた帰りの車中、父親は黙々とステアリングを握っていた。母親は怒り心頭で言葉を荒げた。既に涙の供給は止まっているようだ。
「まったく、人の娘を障がい者みたいな言い方して! あれでも担任なの!?」
絵理奈の父、直己は市内の量販スーパーに勤める45歳。会社では支店長を任されそれなりの収入もある家庭だが、子供は絵理奈一人であった。その妻、千夏は地元の商業高校を卒業後、NTTに就職して21歳の時に直己と見合い結婚をし、現在は42歳である。若くして結婚し子供も設けた二人の幸せに陰りが見え始めたのは絵理奈が2歳の頃で、周りの子供たちに比べて精神的な成長に遅れが見え始めたのがきっかけだ。当初は子供一人一人に個性が有って、成長具合もそれぞれ異なるという
その当時でも『発達障害』という医学用語は存在していたし、医療関係者であればその症状に関する知識は持っていたが、それが本当の意味で
こうして歯車が狂い始めた伊藤家は夫婦が協力し合って物事に当たるという美徳を失って久しく、娘が負ったハンディキャップを乗り越えるどころか、受け入れることすら、いまだに出来ずにいた。
「障がい者じゃなけりゃ何だって言うんだ?」直己は吐いて捨てるように言った。
「貴方までそんな風に言うなんてっ!」
「俺の目を見て話したことも無い娘を何て呼べばいいんだ!?」
「だからって、実の娘をそんなに嫌わなくたっていいじゃないっ!」
夫婦の間で散々繰り返されて来た口論が、再び始まろうとしていた。
「誰が嫌いだなんて言った!? 俺は事実を在りのままに述べているだけだ! 本当に絵理奈のことを受け入れられないのはお前じゃないか! あの子のハンディキャップを認めようともしないクセに! お前に同調しない俺を悪者に仕立てて、自分を正当化するんじゃないっ!」
「自分がお腹を痛めて産んだ娘を受け入れていないだなんて、よくもそんな酷いことを言えるわねっ! 貴方は会社に行っちゃって気にもしてなかったかもしれないけど、私はずっとあの子の面倒を看てきたのよっ! それなのに・・・」
千夏の瞳から再び涙が溢れ出した。直己は憮然とした表情で「チッ」と舌打ちすると、メソメソと泣き続ける千夏の声が聞こえない振りをした。
「いずれにせよ絵理奈の学力では、高校なんかに行っても付いて行けない。形ばかりの卒業証書なんか貰ったって、将来どうやって食って行けばいいんだ? いつまでも俺たちが面倒を看続けるわけにはいかないんだぞ。本当にあの子の将来を考えるなら・・・」
「ナディムがいるわ。彼ならきっと絵理奈のことを・・・」
「あんな黒んぼに何ができるっ!」
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