褒めろ

 例えば、空。

 無くなったものを懐かしむ。その感覚が八十一には今一分からなかった。

 それはおそらく、自分が未だと年若く、本当の意味で喪失と言うモノを経験していなかったからだ。その事が、今日、分かった。

 古びた武家屋敷。平屋造りの決して綺麗では無いソレ。

 朝夕に食事の準備をしたかまどがある。はじめのころは火が上手く付けれずに祖父の手を借り、魔道刻印を彫った日は大火事を起こしかけて拳骨を喰らった

 年に一回の大掃除が面倒だった納屋が見える。幼いころ、拍子で閉じ込められた際は、本当に怖かった。だが、自分を必死で探し、青ざめた顔で祖父が自分を抱きしめた時、怖い祖父も自分と同じただのヒトだと分かった。

 縁側に空いた小さな穴。駆け回っていた時に転び、角が床板に突き刺さった時は、自分でも何だかおかしくて爆笑し、祖父に変なモノを見る様な目で見られた。その後、一緒になって笑ったのは良い思い出だ。

 そう。そんな思い出の詰まった場所を鬼灯八十一は今日、離れる。いや、そんな思い出の場所を捨てる。

 帰ってこない。間違い無く。帰る為の理由である家族はここにはいない。生きるか、死ぬか。そこは分からないが、鬼灯八十一は三歳よりの十四年を暮した我が家を捨てる。

 成程。無くなったものをヒトは懐かしむわけだ。


「……」


 笑う。それは頻繁に浮かべる好戦的なモノでは無く。柔らかく、自然なモノ。隣でしゃんとお座りしたヤチと共に、住み慣れた我が家に、捨てる我が家に――


「準備はできたか? ……ヘタさん?」


 一礼した所で、不機嫌な声が降って来た。


「……何だよ、それ?」

「女の子に恥をかかせるヘタレのやそさん。略してヘタさんだ」

「……止めろ」


 それと、その略し方はおかしいと思う。


「や!」


 子供の様に、ぷいと横を向く雛菊。追う様に跳ねるポニーテールを見て八十一は溜め息を吐き出した。確かに、自分はヘタレかもしれない。雛菊の言う通り。だが――


「ヘタさんは止めて下さい」


 敬語に成るくらいに、その呼び方は情けない。

 それに、それなりに気に入っているのだ。口に出すことは無いし、伝える気もさらさらないが、雛菊に『やそさん』と呼んで貰うのは。


「……どうしてもやめて欲しい?」

「あぁ、まぁ……どうしてもだ」

「六十点」

「?」

「ノルマです、ヘタさん」


 ステップ軽く、楽しげに。むふふ。笑う雛菊。手を広げて見せる様に。つまりは――


「褒めろと?」

「ん!」


 その通り、と頷く雛菊。

 八十一が赤備えを纏っている様に、旅立ちを意識した正装。聖女で表す事を示すローブを纏った雛菊。似合っている。可愛らしいとは思う。が、特徴が無くて凄く褒め難い。助けを求めるべくヤチをみる。犬ぞりならぬ狼そり。騎竜市場で買い求めたソレを身に着けたヤチは舌を出すだけで助けてくれる気配は無い。


「……」


 八十一が孤独な戦いを開始し、お情けで六十点を取るまで後二十分。

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