炎山の主と直美
E.I.
春、
第1話
1、
世間一般の普通の人。その普通のお手本のような私。その普通の私と同じような家族や友達、周りの人達。
地元の大きな駅から歩いてすぐの場所にある食品輸入会社に勤めている父と、家から車で二十分のスーパーで品出しのパートをしている母。大学時代から付き合っている婚約者と結婚することが決まった介護職の姉に、たった二駅分しか離れていないところで食品加工会社の事務員をしている次女の私に、部活に精を出す高校生の弟。
近所には父方の祖父母が住んでいて、我が家は賃貸マンション。母方の祖父母は県外で、年に一度家族でお盆時に顔を出すことにしている。母方の祖父母の家は母の長兄が家を継いでいて、人の集まる忙しい田舎のお正月に顔を出すのはね、という理由で行かなくなったのだが、本当は母と長兄———つまり伯父との仲がいまいちで、顔を合わせるのはお盆だけで良くないかと、間に挟まれていた人々は提案して今に至る。
母は自分の兄とはうまくいかなかったが、父の両親である舅姑とはうまくいっていて、我が家は父方の親戚とは比較的密な交流をしている。
三年前に姉が家を出て、半年前から婚約者と同棲している。近い将来、私と弟の義兄になる姉の婚約者は、放射線技師として病院に勤めている。
なので狭い賃貸マンションの我が家には、父と母と自分と弟の四人が住んでいる。姉が出て行った分、家が広く使えると思っていた私たち家族は思いの外そんなことはないことを知って肩を落とした。家族全員、数十年分の荷物があるのだから、姉が一人いなくなったくらいではスペースに空きが出たとは言えない。
弟からは「姉ちゃんさあ、早く家出なよ。ついでに俺の学校の近くにして」とせっつかされるようになってしまって肩身が狭い。
大学を出て今の会社に就職して三年。歳は二十五になった。地方都市で就職するのは、給料に恵みはないけれど拾ってくれる企業がいくつかあるところが救いだと思う。都会に出れば大企業にチャレンジすることもできるだろうけど、我が家の血筋と教育方針から鑑みてそんなチャレンジングな人材は育たない。
弟も地元の大学に行って地元で就職すると言っている。
友達の半分は県外に出たけど、さらにその半分は戻ってきている。
私の仲の良い友達は二人で、どちらも地元にいる。一人は去年出来ちゃった結婚とやらで、生まれてきた赤ちゃんを抱えて今ではしっかりお母さんをしている。もう一人の友達はショッピングモール内にある店舗で洋服の販売員をしている。
私の職場は食品加工とあってお中元やお歳暮の時期に忙しくなるが、基本的には大きく業績のある会社ではないので会社全体がのんびりとしている。でも最近ではお中元やお歳暮の数がぐっと減った。さすがにのんびりしている会社でも焦り出したのか、一昨年からふるさと納税のお礼品について市職員の方と何度も打ち合わせをしていた。
それが実を結び、ついに今年から始まったのだが、その商品が大きく当たったおかげで毎月きちんと忙しくなった。
初めは慣れないことに戸惑い体が悲鳴をあげていたが、休憩時間に職場の人から聞いた話では来年からは少しお給料に違いがあるかもよ、とのことだった。
みんなそれぞれ浮き足立っていた。うちは来年から子供が幼稚園だから丁度良かった。車を買い換えたから来年からは少し余裕がある。彼氏と旅行かな。孫が大学に行くから弾まないと。少しと言わず大いに上げて欲しい。
笑いながらそれぞれの持ち場へと戻って行った。
週末の金曜日。明日から二日間のお休み。来年からは給料が上がるかもしれない。
私も例にもれず、浮き足立っていた。
本音で言えば、急にこんなに忙しくなって不満があった。残業代は出るが、二時間までしか出ない。サービス残業はしないさせない方針のグレー企業な我が社は、残った仕事は当たり前に次の日の仕事になる。
給料を上げてくれ、というのは社員から出ていた不満だった。もしこの改善が通るなら、もう一つの人員を増やして欲しいという意見も根気よく上に伝え続ければなんとかなるのでは。
私が期待を胸にそう言えば、「ブラックとまでは言わないけど、グレー企業だからね。そっちは時間がかかるかもね。とりあえず社員の給料だけ上げて様子見で終わりじゃない?」働いたこともない弟がしれっとそんなことを言う。的を射ているから癪に障る。
弟の額に親指を押し当ててぐっと押しやると、「それやめてくんない?」面倒臭そうに手で払われる。小さい頃はこれをやると大げさなくらい嫌がって頬を膨らませたものだけど、高校生の弟は慣れたもので今では簡単にあしらってしまう。
お風呂上がりにアイスを食べながら弟の宿題を手伝う、という名目で私の会社の話を聞いてもらっていた。
母は台所に立ち、乾いた食器を片付けていた。食器を洗うのは私と弟の仕事だった。父は洗濯物を畳みながら若い男の子たちが出ているアイドルグループのバラエティ番組を見ている。私は食べ終わったアイスを片付けながら弟の宿題を覗き込む。
「これでプリント終わり?」
「うん、あとはこっち」
弟は雑に宿題のプリントをノートの間に挟むと、今度はまた違うプリントを出す。その内容に目を通して、思わず本音が出る。
「うへぇ……めんどくさそうな宿題だねぇ」
口を尖らせた弟が一つため息を吐く。「むしろこっち手伝ってよ」
「いや、めんどくさい」
じとりと弟が視線をよこすが、面倒なものは面倒なのだ。
「そうそう、お姉ちゃんに頼ってばっかないで自分でやんなさいよ」
食器を棚にしまい終えた母が助け舟を出してくれる。そのタイミングを逃すことなく私は自分の部屋へと行く。背後から弟の「ここで裏切んのかよ」という情けない声が続いたが、気にせず部屋の中へと入った。
充電が完了したスマートフォンをバッグに入れて、服を着替える。ライトブルーのデニムタイトスカートに、くるぶし丈の靴下。肌寒くなってきた秋の夜。長袖のVネックニットの上にパーカーを羽織り、合皮のくたりとしたリュックを背負う。
「ちょっと出てくるねー」
玄関でスニーカーを履きながら家族に声をかける。スマホに販売員の友達からメッセージが届いていて、三十分もしないで迎えに行くからレイトショー映画でも見に行かないかとお誘いが入っていた。
お風呂を済ませた後で良かった。眉毛を書いただけのすっぴんなのはお愛嬌ってことで許してもらおう。
玄関にある小さな丸い鏡で髪型を確認する。
「こらこら、こんな時間にどこに行くんだ」
父がテレビを切り上げ玄関まで見送りに来てくれた。「のんことレイトショー見に行くの。今、ホラー映画が話題になってて、観たくて」
販売員ののんこ、主婦のえみ。高校、大学とずっと友達が続いていたのだ。社会人になってからもこうして付き合いが続いているので家族は二人のことを知っている。
「のんこちゃんの車か?」
「そうだよ。帰りも車だからお酒も飲まないし、明日のんこが彼氏と会うって言ってたから帰りはどこにも寄らないし、本当に映画だけだよ」
姉の結婚が決まってからというもの、寂しいのか私にはまだ家にいて欲しいようでわかり易いくらいに探りを入れてくる父。
リビングから弟の声が届く。
「姉ちゃん、俺コンビニの限定のあれ、昨日言ってたチョコのお菓子食べたい。帰りによろしくー。画像、後で送っとくわ」
弟が助け舟を出してくれる。後でありがとうのメッセージを送っておこうと決めて、私は玄関の鍵を開ける。
「はいよー。じゃあお父さん、行ってくるね」
恋人がいない以上、父の心配は無用なんだけど、母が面白がってもう少しやきもきさせておこうと家族で話し合ったのだ。
何より嘘はついていないし。
「ちゃんと帰って来なさいよ」
まだ納得のいっていない顔で言う父の言葉に、「鍵、お願いね」私は手を振って答えた。
*
アパートを出て、スマホの画面を確認する。
のんこからの返信がないから、今向かっているところなのだろう。
マンションのエントランスから明かりが漏れているおかげで暗くはないし、治安の良い場所に住んでいる自覚はあった。植垣のところに腰を落ち着けてスマホをいじりながら、のんこが来るのを待っていた。
時折、横を通る同じマンションの人に挨拶をしながら、ネットのトップニュースを流し読みする。
———パッパッパッ。
眩しい光が自分に向けて点滅されている。顔を上げるとのんこの軽自動車が止まっている。
近づき後部座席のドアを開けて中に入る。
「怒られなかった、お父さんに?」
助手席に座るのんこの彼氏である高橋さんに声をかけられる。「怒ってはないけど、不満そうだったよ」
のんこが声をあげて笑う。「おじさん、お姉さんの結婚、だいぶキたんだね」
「高橋さんが一緒のこと、言わないで来ちゃったよ」
「ええ、嘘ついちゃったの? 俺、何も悪いことしてないのになんか罪悪感……」
高橋さんが情けない声をあげる。私たちより四つ歳上の彼はとても穏やかな性格で、いつものんこにも、その友達の私にも優しい。ただ少しだけ気が弱そうに見える節があり、でもそれが彼の魅力でもあった。
「気が小さすぎる!」
のんこが笑いながら言えば、「気にしてることなのに」高橋さんが力なく肩を落とす。それがおかしくて、私も声をあげて笑う。
嘘はついていない。
映画を見て帰って来るには違いないのだが、のんこの彼氏である高橋さんも一緒に映画を見ることになっている。言ってしまえば友人二人と映画を見るだけだ。今時箱入り娘ってわけでもなし、親の過保護はありがたいなあと思ってさらりと流すことが一番の親孝行だ。
「彼氏、作っちゃえば良いのに。紹介させようか?」
高橋さんを見ながらのんこは言う。「良いやつ多いよ、うちの会社。友達にも何人か彼女募集中のやついるし」優しく提案をしてくる二人にいつもと同じ返事をする。
「うーん。……彼氏、ねえ。いるかな、私に」
必要かな、彼氏。
まるで他人事のように呟く私に、二人は笑う。「そう言うと思った」のんこは笑いながらハンドルを切る。
強がりでもなんでもなく、本心からの言葉だった。会う人みんなに、それこそ会社の人だけじゃなく姉や姉の婚約者にまで同じようなことを言われるのだが、どこかまだ恋は、今の私には遠かった。
その時その時、真剣に、のんびりと、でもやっぱりきちんと誠実に生きて来た。と、思う。……多分、周りから、そう評価してもらえる程度には。
恋人が欲しくないわけでもないし、結婚しているえみに羨ましさを全く感じないと言えば嘘になるかもしれない。でも今の平凡な自分の人生を気に入っているので、何が何でも彼氏が欲しいわけじゃない。
いつか出来るだろう。いつか本当に欲しくなる時が来るだろうと、どこかで思っている。
———恋じゃないのかもね。
えみに言われた言葉が脳裏を過ぎる。生まれた赤ちゃんは旦那さんにそっくりで、「どこ、私の遺伝子!?」と言うのが最近の彼女の鉄板ネタだ。私とのんこは、それがおかしくておかしくて、いつも涙が出るほど笑ってしまう。それくらい、えみの旦那さんにそっくりなのだ。
そのえみに先日会った時に、同じように恋人は作らないのかと聞かれて、「そう簡単に作れるものでもないし」と答えた。十年来の友人は、すっかり少女の面影をなくし、母の顔で子供を抱きかかえながら笑った。
———情があれば、なんでも大丈夫な気がするなあ。
なんと曖昧で無責任な言葉だろう。そう思った気持ちがそのまま顔に出ていたのか、えみは肩を揺らして笑っていた。
———情に厚く、深い人だから。なんでもそれで、受け入れてしまいそうなところあるよね。あんたはさ。
何それ、流されやすいってこと?
へそ曲がりなことを言えば、それこそ愛情深い笑みで、彼女は言った。
———多分、私なんかよりずっと愛情深い人なんだろうね。一度好きになると、もうずっと好き、みたいな。許せる、みたいな。
赤ちゃんが泣き出してしまい、話はそれで終わってしまった。結局どういう意味なのかはっきりとしないままだった。わかる、と自分でも思う部分があった。でも、本当にそうかな、と思う部分でもあった。
過去の恋愛、と言えるほどの恋をして来ていないので、振り返りようもない。いつもなんとなく恋が始まり、なんとなく恋が終わっていった。
愛情深い?
全くピンと来ないと思いながら、えみと赤ちゃんに手を振られながら彼女たちの家を後にしたのだ。
ぐっと左右に振られるような感覚に、意識が今に戻る。のんこは安全運転なのだけど、どうもカーブがうまくないようで、ぐっと体に重みが伝わる。後部座席は余計にそう感じる。高橋さんが「もう少し丁寧にハンドル切れよ」と注意してくれるし、のんこも「わかってるんだけど……」なかなか癖が治らないみたいだった。スピードの問題ではないと高橋さんものんこも言ってるので、ハンドルの切り方なのだろうか。
幹線道路を走る車の窓から見える景色は、どれも橙色の街灯に染められて本当の色が何なのかさえわからなくなっている。街路樹の葉先さえ、橙色に染まっている。ただ紅葉が始まっているので、ここの街路樹はどれも昼間の太陽光の下でも美しい黄色や橙色に染まっているので、大きく変化はないのかもしれない。
「じゃあ紹介して欲しくなったらいつでも言ってよ」
のんこはいつもと同じことを言う。「飴、食べる?」高橋さんが一粒くれるから、口の中に入れる。桃の甘い香りの飴。「私も食べたい」もう二人とも、私の恋愛事情から興味が逸れたようだった。
大型ショッピングモールと併設されてある映画館までは車で三十分もかからない。夜の交通量を考えればもっと早くに着くかもしれない。レイトショー久しぶりだな。話題になっているホラーだけど大丈夫かな、怖すぎたりしないかな。そう言えば今日、こんな仕事だったとそれぞれが話している内に映画館がもう目の前だった。
『それでは原因不明の発光現象についての続報になります』
車内では音楽をかけていなくてずっとラジオだったのだが、ラジオ番組が終わりニュースに変わった。
「これ、一体なんなんだろうな。俺は誰かのいたずらだと思ってるけどね。自然現象にしてはさ、なんか人の意思を感じるって言うかさ」
ラジオのニュースの内容に高橋さんが反応した。
「警察が右往左往しているのが楽しいんでしょ。ガキよ、ガキの仕業」
高橋さんがどこか他人事のような感じで話せば、それとは逆に熱の入った様子でのんこは返す。「いたずらで済むうちは良いけど、早く捕まえてくれないと。最近、乾燥してるし、何が光ってるのかわからないけど、火事にでもなったら大変だもん」
二人が迎えに来るまでの間に見ていたネットのニュースもこの事件がほとんどだった。
原因不明の発光現象は、都心を主にその名の通り、原因不明の発光現象が起きている。とは言っても、子供のいたずらのような事件だ。人通りの多い場所で、辺り一面が真っ白になるほどの光が急に発生してしまう。別に命に関わるようなことではない。ただ単に何も見えなくなるほどの光に包まれてしまうだけ。
それも、必ず夜に。
ただ発光するだけだからと見過ごすことは出来ない。原因が不明だし、人通りの多い場所で起きている以上、その内怪我人が出る。今まで出なかったことが不思議なくらいだ。何も見えなくなるほどの光なので、人々は足を止めるしかない。
今のところ道路上では起きていないけど、起きてしまえば結果は想像に難くない。
あまりに眩しい光に病院に駆け込む人も多い。ただ誰も目に異常は起きていないので、ますますその謎の光がなんなのかわからないのだ。
警察関係者はだいぶ困っている様子だ。専門家たちの意見は一つにまとまらず、発光現象が起きる場所も様々で関連性が薄い。ネット上でも様々な憶測が飛び交っている。
二人の言うようにいたずらだと言う意見もあれば、超常現象だと面白おかしく言う人たちもいる。逆になんとか現象だ何々現象だと、様々な専門家たちの声も聞こえる。
二人が来るまで見ていたネットの記事を思い出す。
「でもさっきネットニュースで見たけど、都心だけじゃなくここ最近では地方都市でも同じような現象が続いてて警察も大変みたいだよ」
さっき見た内容では、この県にもついに発光現象が起こったそうだ。
「この県でも起きたんだって」
私がそう告げると、のんこ達二人は声を揃えて「だから今日あんなに警察を見かけたのか!」と納得した。
私も仕事帰りに見かけた。ピリピリしていると言うよりも、うんざりしているような様子だった。今のところ事件性が薄いから、どうしようもないのかもしれない。私は二人の言うようにいたずらなのかないう気持ちと、何かの自然現象なのではと半々の気持ちでいる。
怪我人は出ていない。
連日ニュースで取り上げられる割には、この現象の全体像はいまいち私たち一般市民には入って来ていない。
どうして、こんな不可解な現象が続くのだろう。のんこの言う通り子供のいたずらなのだろうか。ではこんなに何回も続くなら、不謹慎かもしれないけどそろそろ怪我人が出てもいいはずなのではないか。
だいぶ、強い光だという。
その光にやられて目が痛むこともない。ただ動けなくなるだけだ。夜という時間だからまだ被害が出ていないだけなのかもわからない。ただ誰も彼も、あまりの光に足を止め、動くことさえ出来なくなるという。
時間が止められてしまったような感じです。
実際にその光のせいで動けなくなった人は、みんなが口を揃えて言う。光のせいで目が痛むわけでもなく、不安だから病院に行く人がほとんどで、今のところ、後遺症とかの話もない。
人の多い場所で、夜に、誰も傷つけることなく、人の時間を止めてしまうほどの光。
不謹慎極まりないとわかっていても、少しだけ見てみたいと思うのは、自分には関係ないからだ。
このことを話しているうちに、私たちは映画館の駐車場に着いた。のんこの車が頭から白線の中に入っていく。のんこはバック駐車が苦手なので、いつもこうやって頭から停める。
「ほら、降りて降りて」
のんこに促されて車から降りる。レイトショーを見る人、映画が見終わって帰る人、家族の迎えを待っている人で入口は思いの外、人が多い。併設されているショッピングモールはもう店じまいの時間で、帰り足の人々が車へと向かっている。
三人で映画館へと歩く途中、のんこが言う。
「あたしはこのレイトショーが無事に見れれば別に良いんだけど」
「不謹慎だな」
のんこの頭に手を置いて高橋さんが注意する。のんこより私のほうがずっと不謹慎なことを考えていたけど黙っていた。
「だって誰も死んでないし、けが人もいないんだよ? もうそろそろ終わりで良いのに、今度は地方にも拡大って、しかもついにこの県だよ」
のんこの意見にかぶせるように私も続ける。
「でも本当なんなんだろね。もし仮にいたずら、だとしても、長引くね。やっぱり自然現象なのかな」
もしいたずらなら、怪我人が出る前に、犯人が捕まれば良いのにと思う。
私たちの暮らすこの県でも起こったとなれば、中心部に近い場所に暮らしている私たちが巻き込まれる可能性は高いはずだ。人通りの多い場所で起きているのだから。
でも人通りの多い場所を狙ったかのように起きているこの現象を、自然現象として片付けて良いのだろうか。
思いの外、真剣に考えてしまった私をのんこが茶化す。
「ダーイジョブよ。あたしたちには関係ないまま終わるって」
のんこは私の鼻をつまみながら言う。「そんにゃに気にしてふわけじゃないけほ」
「でも気をつけるに越したことはないね」
高橋さんがそう言って私の鼻からのんこの手をどかしてくれる。
「そうだね。あ、人の波も落ち着いたし、中に入ろっか」
私がそう言うと二人は頷いて、映画館のガラスの両開きの扉を開けた。二人に続こうと足を一歩踏み出そうとした瞬間、私は後ろに引っ張られた。
「……はい?」
急に立ち止まったことでバランスを崩してしまう。よたよたと頼りない足元をなんとか転ばないように動かし、自分の右手首を掴み引っ張る誰かへと顔を向ける。そこにはポンチョを着て、フードを目深かにかぶった子供が、立っていた。
私より背の低い華奢な体型から見ても自分よりずっと幼い子供だろうと思った。
「えっと……、どう、したの? 迷子、とか?」
多分、ではあるが自分よりずっと幼い子供相手に言葉の歯切れが悪いのはカッコつかないが、それくらい驚いてしまったのだ。
映画館の入り口はライトアップされているとはいえ、夜、フードをかぶって顔もはっきりと見えない子供に、手首をそれなりの力で掴まれている。弟がこれくらいの身長の時は何歳だったかな。小学二、三年くらいだったかも。
私が後にいないせいで、のんこたちが戻って来る。
「ちょっと? どしたー?」
入り口のガラス扉を開けて、のんこが私に聞く。高橋さんも不思議そうな顔で戻って来る。
「あ、なんかね、迷子かな。ちょっと手を引っ張られて」
「ごめんなさい。あなただ」
「え?」
のんこ達への説明を切るように、男の子——声が男の子のそれだったから、間違いない——は、私の問いかけの答えにもならないようなことを言う。
「ごめんなさい。あなたに、全て、全部、捨ててもらわないといけない」
今にも泣き出しそうなほど———目深かにかぶったコートで見えないはずなのにそうはっきりと分かるほど、震えた声で、男の子は言った。
「説明する時間がないのです。でもあなたに来てもらわないと、世界が終わらないのです」
男の子はもう片方の空いた手を差し出して来た。あまりに意味不明な展開。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
のんこの焦った声に、はっとする。「……なんの光?」高橋さんの声が、途端に低くなる。光ってなんだろうかと思う暇もなく、男の子に掴まれている手首が急に痛くなっていく。
———あ、熱いっ!
痛いのではなく、これは熱だ。そう思った。男の子はそれほど強く掴んでいない。なのに自分の手首がどんどん熱くなる。お湯を直接かけられているような熱さだ。
「おい! お前、何してんだよ!」
私の様子で何事かと思ったのか、普段の様子からは想像も出来ない高橋さんの怒声。初めて聞いたし、隣にいるのんこも初めてだろう。でもそんなこと気にしていられない。のんこたち二人は慌てて私の元へと走って来る。
私も男の子の手を離そうとする。周りの人たちも何事かと足を止めている。
「ねえ、痛い。てか熱いっ。やめて! え、なにっ?」
思わず叫ぶと、「ごめんなさい……。ごめんなさい!」男の子が私以上に痛々しげに叫んだ。
「おい! 離せっ! ———て、え、」
「え、え、……っきゃーーー!」
高橋さんの言葉尻が切れ、のんこの叫び声が続いた。
それもそのはず、男の子を私から離そうとした瞬間、彼の体が宙に浮き、そのまま映画館の壁へと叩きつけられたからだ。あまりの出来事に、声をなくす。誰かが警察を呼べと叫んでいる。
動かなくなった高橋さんをのんこが必死に揺すっているが、周りの人に下手に動かさないほうがいいと止められている。
「殺してません。でも動けなくしています」
ふわ、と風が髪を撫でた。目の端に、髪が舞っている様子が映る。自分の髪が、上下に舞う。
———なんで、上下に?
「時間がないのですっ!」
うわ、なんで光ってんの!? やばくない!?
そんな声が聞こえて周りを見渡すと、もう何も、誰も見えないくらいの光の中に立っていた。その上、風がどんどん強くなっていくせいで、誰も近寄れない。
自分の手を見る。
「……な、んで」
どう考えても光を発しているのは私だ。体全体が光に包まれている。風は足元から上に向かって流れている。何が起きているのかわからない。判断のしようがない。吐き気がする。急な吐き気がして、貧血のような、立っていられないような、そんな……。だって、こんなことが、どうして。
そもそも風なのかさえわからない。
「受け取ってください」
男の子が手を差し出したまま、私を見つめている。顔を隠してした彼のフードを風が煽る。辺り一面、真っ白で何も見えなくなっているほどの光の中でも、その色がはっきりとわかった。
光の全てを吸収するかのような漆黒の髪。
夜を写したかのような漆黒の瞳。
日焼けとは違う、濁りのない夜をまとったような肌。
光の中で、黒のコントラストがあまりにも印象的で。
「う、美しいんだね、君は」
思わず出た言葉は、あまりにも今の状況からかけ離れていた。
「———っ、」
男の子は一瞬、漆黒の瞳を見張ると、すぐにその美しい顔で幸せそうな笑顔を作った。
そのあまりに現実離れした美しい笑顔に私は見とれてしまった。
「時間がありません。これを受け取り、僕の言葉の後に“誓う”と言ってください」
男の子のその言葉で意識を今に戻した私は慌てて返事をする。
「ちょっと待って。そんな、こんなわけわかんない状況で、友達を怪我させたかもしれない人を相手にそんな、」
「怪我人を増やしたくないなら、誓うことです」
「あ、待って、そんな……!」
光が眩しくて周りの人どころか映画館も駐車場の車も見えなくなっているけど、風の向こうでのんこが私を呼んでいる声がする。他にも声が聞こえる。だいぶざわめきが聞こえるから人が集まっていると思う。映画館のレイトショーの時間とはいえ、週末の金曜だ。もともと人が少なかったわけじゃない。
男の子が真剣な声音で言う。
「力を欲する者よ。我に幸福を誓え」
———何言ってるの。
そう言いたくても、顔がこわばって口が動かない。
男の子は手を差し出してはいるけど、受け取れ受け取れと急かすわりには手のひらには何もない。小さな子供の手のひらがあるだけだ。
「誓う、と」
真っ黒な瞳が私を見つめる。「いや、だって……」
「誓わないと誰かが怪我をします」
高橋さんが壁に叩きつけられた映像が頭の中を過ぎる。動けなくなっていた。骨を折ったかもしれない。
———目の前の、こんな子供が、あれを、やった……?
男の子を見つめ返す。暴力で私を脅す小さな子供は、言葉とは裏腹にどこまでも痛ましげな瞳で私の言葉を待っている。さも自分が傷ついていると言わんばかりに。
「———ち、かう」
この超常現象から一刻も逃げたいし、目の前の男の子の苦痛に歪む瞳に負けてそう言えば、男の子の手のひらに私の手を重ねるように促される。
大人しく従えば、男の子はほっと息を吐いて続ける。
「我が心、我が身を離れ、主のものに」
男の子は嬉しそうな笑顔を見せ、私の両手をその小さな手で包み込む。
目の前の男の子が、私と同じように光り出す。漆黒の色はそのままだったにもかかわらず、それでも彼自身が発光しているとわかった。
現実離れしている今の状況は私の思考を奪っていく。泣けばいいのか、叫べばいいのかわからない。
「痛くはありませんが、衝撃が来ます。でもすぐに終わります」
「え?」
男の子はそう言うと、片方の手を私から離し、腕を振り上げた。
「直美ーーー!!!」
のんこに名前を呼ばれた。
直美。竹原直美。それが、私の名前。
でも返事なんて出来なかった。
次の瞬間には衝撃が来て、私は何が起きたのかわからなかった。
確かに痛くはなかった。ただ男の子の言う通り、息も出来ないほどの衝撃が体に来て、すうっと力が抜けるように、私は一瞬で気を失った。
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