E :価値
誰かにとって価値のないものでも、ある人にとっては価値の高いものだということがある――――アリスにそのような話をした。そのものの価値は、自分が決めることだと。
ダイヤモンドは一つだけ。
狙っているのは、2チーム。
その目的は、それぞれバラバラ。
その日、桜蔵はいつもの黒い上下ではなく、作業用の服を身にまとっていた。
月のない雲の広がる夜――――――――。
ひと組のドロボーが、深夜にビジネス街にいた。
この都市のビジネス中心地とはいえ、日付が変わってしばらくたったこの時間、歩いている人はほぼいないし、ビルを出入りするような人もいない。
バークビルのエントランスホールは、ガラス張りで中も見通しが良いものの、明かりは足元のスポットライト程度だった。光の当たる場所と、夜の闇に紛れる場所との2つに分かれる、エントランスホール。
月のない夜の闇に紛れて、影が一つ、音もなく素早く動いた。
そして、あっという間にビジネス街を後にしていった。
エントランスホールには、なんの変化もなかった。
2億のダイヤはそこにあり、いつものように警備が見回っていて、静かに新月の夜が過ぎていた。
朝、珪が桜蔵を起こしに部屋に行くと、いつも仰向けできれいな寝相をしている桜蔵が、珍しく寝乱れていた。とはいえ、うつ伏せでおそらくは寝落ちたのだろうという状態だっただけだ。
「さーくーらー」
「んー……」
かすれた声が返ってくる。
ベッドのそばに落ちている携帯端末を拾い上げて、もう一度声をかける。
「タローちゃーん」
その呼び名に、桜蔵が不愉快そうに眉を曲げた。
「さーくーらーでーす……」
「起きてください、タローちゃん」
「んー……俺のことじゃないから起きない」
「いや、起きて」
「珪ちゃんが、そんな呼び方するからだもん。起きないもん。桜蔵さんは怒ったもん」
「桜蔵さぁ、昔はどうやって起きてたの?」
ベッドの端に腰掛けて、珪は不思議そうに、まだ瞼を開けない桜蔵を見下ろした。すると、ようやくほんの少しだけ瞼が持ち上がった。
「何言ってんの?珪ちゃんが起こしてくれてたじゃない」
「その前」
「んーっと……なんとなく起きてた」
「なんだそれ」
桜蔵が、あくびをしながら起きてくる。
「っていうか、珍しいな。寝落ち?直前までケータイ弄ってたって感じだったけど?」
「バークビルの所有者とか、あのダイヤの所有者とかねぇ……」
桜蔵が気にしているのは、おそらく、
「わかったの?」
「寝落ちた……」
悔しげな桜蔵の顔を見て、珪は笑った。
「朝食にしよう。珈琲の匂いがここまで来てる」
珪の言葉に、桜蔵は開いたままの扉から漂ってくる珈琲の香りを思い切り吸い込んで、満足そうに微笑んだ。
「いい匂い」
桜蔵が足取り軽く階段を降りていくのを見て、珪は安堵のため息を付いて後に続いた。
桜蔵が支度を済ませてリビングに顔を出すと、ソファ前のテーブルには朝食のセットがされていた。
「美味しそうー」
嬉しそうに、桜蔵がソファーに腰を下ろす。それを待ってから、珪は珈琲を口にした。
桜蔵も珈琲を口にして、満足そうなため息を付いた。それから、改めて口を開いた。
「アキはさぁ、なんだってあんなところを選んだんだろう?」
「そうだなぁ……。ただ俺たちをからかってるだけとは思えない……っていうか、思いたくない」
「まるでさぁ、宇月に再会するのを見越してたようでさぁ」
「まさか」
珪が、小さく笑った。
* * * * *
バークビルの向かいにある、カフェの窓際に並ぶカウンター席。
桜蔵と珪は、並んで座り、エントランスホールを見つめていた。
「ホンモノとは思えないよね、あの周りのスルーぶり」
甘い甘いキャラメルラテを、やけどをしないように少しずつ口にする。桜蔵は、上唇についたクリームを、器用に舌で舐め取ってもう一口。
「どうする?」
「ねぇ?」
珪の問いに、曖昧に返して桜蔵は眉間にシワを寄せた。
「あまりに反応なさすぎて、逆に怖いんだけど」
「痛くも痒くもねぇよ、って?」
「だいたいさぁ、あれが入れ替わったとして、すぐさま本物と偽物の区別がつく人間なんているの?」
桜蔵が言ったことが尤もで、珪は小さく笑った。
「はぁー……2億ってなんなんだろうねぇ?」
「少なくとも、アキにとっては俺たちで遊ぶための道具、だな」
「ほんとー。久しぶりに真面目にやったよ」
愚痴をこぼして、桜蔵はくるりと後ろを向いた。
知っている顔がこちらへやってくる。
「やぁ、どーも」
桜蔵は、わざとらしいくらいに微笑んで、相手に声をかけた。
2人に近づいていた人物は、目を丸くして足を止めた。いたのはアリスと宇月の2人だ。
アリスは、負けじと微笑みを返した。
「どーも」
桜蔵の隣に席を取り、宇月はその隣に座った。
宇月は何も言わず、微笑みもせずちらりと桜蔵の姿を確認した。桜蔵が意味ありげに口元だけに笑みを浮かべて宇月に視線をやった。
「仕事は順調?」
宇月は、少し考えた後で得意げに笑った。
「順調そのもの。そっちは?」
「予定通り」
桜蔵があまりにも嬉しげに笑うと、宇月はさすがに訝しげな表情を浮かべた。
「……お前、また何かした?」
「えー、元相棒を疑うの?」
わざとらしいくらいにニッコリと桜蔵は笑う。珪の言うところの「悪魔の笑顔」を、宇月に向ける。
「都合いいときだけ相棒使うな!俺の端末に、アンポンタンって送ったこと忘れてないだろうな?!」
「だぁって、アンポンタンでしょ?相手がドロボーってこと忘れて、大切な情報と繋がってるものを渡すなんて」
「おっまえ、その誰でも利用する癖直せ!」
「その説教癖こそ、直したほうがいいんじゃないの?」
宇月が言い返そうと口を開いたとき、隣にいたアリスが二人の間に入った。
「はいはい、子どもみたいな口喧嘩しないの。幾つよ、二人とも」
呆れて言ったセリフは、桜蔵と宇月の怒りに油を注いだだけだった。
「アリス、こいつと一緒にすんなよ!こいつ、自分のことしか考えてないんだぞ?!」
「ホント、一緒にしないでくれます?俺、こんな単純じゃないもーん」
「単純だぁ?!」
宇月が憤慨して言うのと、珪が吹き出すのとが同時だった。
「ちょっと、珪ちゃん?」
珪が笑った理由に想像がつく――――桜蔵は、心外だと言いたげな顔で珪を振り返った。
「いや、だって……!お前と単純で言い合うヤツがいると思わなかったからさぁ……!」
言い訳になっていない言い訳を、笑いをこらえて伝えると、桜蔵は更にむくれた。
「何、俺が単純みたいな言い方してんの?珪ちゃんは、俺の味方でしょー!」
「味方だけど、それはそれ、これはこれ」
「もー!みんな俺のこと誤解してる!」
「してない、してない」
桜蔵の言う「みんな」を代表して、珪が答える。桜蔵は、また不機嫌な顔をした。
最近、アリスの方が桜蔵に興味を持っている。そのことが、宇月はおもしろくなかった。最初は、自分が彼に近づいたはずだった。もう一度、一緒に仕事ができたらと、ずっと思っていたからだ。あの日の喧嘩を、宇月は後悔していた。
ちらりと元相棒を見れば、むくれて文句を言う彼を上手くあしらう彼の現相棒がいる。
「もー!なんの話かわかんなくなったでしょ?!」
「あー、はいはい。甘いの飲んで落ち着いてください、桜蔵さん」
珪が、桜蔵のマグカップを差し出す。桜蔵は素直に受け取ると、少し飲んでため息をついた。
「思い出した?」
「お仕事の話だね」
窓の向こうのビルへ、桜蔵がキリリとした視線を送る。
わかりやすく表情を変えた桜蔵を見て、アリスと珪は、笑いを堪えるのに必死だった。ここで笑うと、持ち直した機嫌が急降下する。
「さぁて、珪ちゃん、夕飯の買い物に行こうか」
「あれ、もういいの?観察は」
「十分でーす」
カップに残っていたキャラメルラテを飲み干して、桜蔵が立ち上がった。満足げな顔をして。
やれやれというようにため息をついて、珪も立ち上がった。
あっさりと帰っていく2人を、アリスは拍子抜けした顔で見つめた。
「帰っちゃうの?」
答えたのは、桜蔵だった。
「言ったでしょ?お仕事は予定通り、なの」
じゃあね、と去っていこうとする2人を見つめていて、宇月は、決意したように声をかけた。
「あのさっ……!」
先程まで言い合っていて言うことではないと、宇月は自分でもわかっていた。昔、捨て台詞を吐くようにして離れたのは自分であり、こんなことを言える立場ではないことも、十分にわかっている。
それでも――――――――。
「俺、お前とまた……――――――――」
「宇月……」
遮るように、桜蔵が名前を呼んだ。
「お互い、いい相棒を見つけたよな」
明るく笑ってそう言うと、桜蔵は珪と店を後にした。
通りは、仕事中だろうという格好をした人たちが行き交う。同僚と会話を交わしながら、携帯で連絡を取りながら、一人険しい顔をしながら。
桜蔵と珪は、そこを楽しげな表情で歩いていた。
「いつ気づくと思う?」
珪が桜蔵に聞いた。
「ふふっ。俺の予想だと、宇月より先にアリスが気づきそう。でも、今回は、ヒントをあげたからダイヤを調べるかもねー」
桜蔵は、心底楽しげに笑っていた。
「そういうことをする奴だって、宇月は思い出しただろうし?」
「イキイキしてるな、お前」
「あー、スッキリした」
* * * * *
宇月は、桜蔵が珪と出ていった方をじっとにらみつけるように見つめていた。
「なに考えてんの?」
アリスが微笑んで尋ねる。
「あいつの企んだこと」
「考えてわかるものなの?」
さすがは元相棒だ、とアリスは感心したように宇月を見つめた。
アリスの問いかけに、宇月が一瞬の間の後でため息を付いて正面に向き直った。
離れてしまった今も、そばにいた昔も――――。
「わかりません」
アリスが愉快だと笑うのをそばで聞きながら、宇月は思っていた。桜蔵を理解することができたら、どれだけ良かっただろうと。彼の思うことの半分、いや、少しだけでも垣間見ることができたら、今も自分は、彼の相棒でいられたのだろうか。
以前は、寄せ付けない雰囲気を纏っていた桜蔵が、丸くなったように感じた。
その要因は、時間か、それとも出会った人なのか――――。
「まぁ、とりあえず、珈琲を飲んだら帰ろうか?」
可笑しいという表情を隠しもしないで、アリスは言った。
「あぁ。俺たちのダイヤが心配だ」
宇月が無意識にこぼした「俺たち」という言葉を聞いて、アリスは小さく笑った。
あんなに元相棒に執着しておきながら、彼の芯は、今のコンビにある。
「元相棒なのに、まんまと……。ホント、あんぽんたん」
「うるさい。まだ決まってないだろ」
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