Eyesroid0
久下ハル
A
「
明りの落ちたビルの中、耳のイヤホンから聞こえる低い声。
黒の上下に身を包んだ小柄な男が一人、闇にまぎれ、壁と柱が作る影の中に潜んでいた。小さな顔の半分は、ゴーグルで隠れている。覗いている口元が、愉しげに弧を描いた。
「侵入から3分。さっすが、
「5分で出てこられたら、今回の祝杯の費用、俺が出してやるよ」
「マジ?がんばろー」
どこか色気を帯びた桜蔵の声が、途端に弾む。
「慌てて、盗んだモン落としたりしないようにね」
イヤホン越しに聞こえた意地悪な声が、出会ったその日へと記憶を誘う。
「あははっ、懐かしぃー」
それを笑い飛ばして、桜蔵は、目的の場所を見据える。
「それじゃ、行くよ?珪ちゃん」
今夜は新月。窓の外から注ぐ明かりはない。
ドロボーには、お誂えの夜だった。
* * * * *
この星から、“国”の存在がなくなった時のことは、桜蔵も珪も記憶していない。
しかし、桜蔵が、この名前になった時のことは、二人共に、よく覚えていた。
その日から、ずっと追っているものがある―――
広くない家の中、今は、珪が、それと向き合っていた。正確には、それが入っているかもしれないものと。
空の色をした玄関扉を入り、左側中ほどに、複雑な機器を色々置いたラックが三つ並んでいる。
埋もれるようにして一緒に置かれたパソコンを見つめたまま、珪は、椅子に凭れた。灰色の瞳に濃い茶色の伸びかけのショートカット。サラサラでふわふわした髪質の、すらりとした背の高い男。加えていた煙草を、キーボード脇に置いてある灰皿に押し付けながら、ため息をつくようにして紫煙を吐き出した。
「終わった?」
ため息を聞いて、桜蔵がソファーから後ろを振り返った。灰色がかったターコイズのつぶらな瞳と濃い茶色の髪、端整な顔立ち。そして、本人も気にするほど桜蔵は小柄な体躯をしていた。
一階フロアの真ん中に、でんと置かれたソファー前には、楕円の形をした、つややかなローテーブルがあり、その向こうには、一人掛けのソファーが二つ並んでいる。半分吹き抜けになっている高い天井。そこで、二つの天井扇がゆるゆる回って、エアコンと一緒にこの室内の空気を心地よい温度に保っていた。
少し高い位置にある窓からの光は、そろそろおやつ時だと知らせてくれていた。
「……もーちょい」
応える声に、元気がない。
桜蔵は、ソファーから立ち上がり、珪がいるのとはちょうど反対側の小さなキッチンスペースに向かった。コーヒーを淹れるためだ。
少し前に、コーヒーメーカーにスイッチを入れてある。香ばしい匂いは、先ほどから届いていた。コーヒーにミルクを添えて、お菓子も付け足す。珪の好きな豆大福だ。
珪のここ最近の睡眠時間は、合計しても一桁だ。疲れも溜まっているだろう。
しかし、プログラムもデータも、PCに関するものは珪の方が専門だ。桜蔵が代わっても、彼の仕事を増やすだけ。黙って任せておいた方が早い。桜蔵ができるのは、作業がスムーズに進むように糖分とカフェインを差し入れることだ。
用意したソーサーは、桜蔵がデザインして作ったオリジナルで、お菓子とコーヒーカップが一緒に乗せられるタイプのものだ。作業台脇の、収納を兼ねたサイドテーブルに置いて、桜蔵もディスプレイを見つめた。
ディスプレイを埋め尽くす訳の分からない記号の羅列。データはすべて、暗号化されていて、そのままでは意味をなさない。珪は、それを少しずつほどいては探していた―――EYESROIDを。
珪が手を止め、コーヒーに口をつける。目はPCに向けられたままで、疲れをたっぷり含んだため息をつくと、そのまま動きを止めた。
動かなくなった相棒に気付いた桜蔵は、どうしたのかと、彼を見つめた。
すると、少しの後、珪は口を開いた。
「……空振りのような気がしてきた……」
「大丈夫、絶対あるから」
自信たっぷりの笑みで断言する桜蔵に、珪は、訝しげな顔をした。
「毎度思うけど、どっからくんの?その自信」
「経験」
「あーそーだな」
半ば諦めたような息と共に、珪は応じる。
「盗みに関しちゃ、お前のが専門だもんな」
「まぁね~。ホラ、あとちょっと、あとちょっと!」
ニコニコ笑う桜蔵が、珪の肩を、励ますようにポンポンと叩く。
首まで覆う椅子の背に凭れて、珪は、豆大福にかぶりついた。どのみち、途中で投げ出すなんて彼にとってもあり得ない。
「仕方ねェよな……。やるか」
独りごちて、残りの豆大福を皿に戻した。粉に汚れた手をズボンで拭い、コーヒーを飲み干す。
「桜蔵!コーヒー、もう一杯たのむ」
「はーい」
空のカップを受け取って、桜蔵は足取り軽くキッチンへ駆けた。コーヒーメーカーの前まで来て振り返り、一息ついて気合いを入れ直した珪がPCに向かう姿を確かめて、コーヒーを淹れる。ついでに、自分の分も。カップ二つを両手に持って、クルリと体を反転させれば、PCに集中している珪がいる。愉しげに微笑みながら歩み寄ると、どうやら、本当にチェックはあと少しらしく、画面の下四分の一が、空白になっていた。珪の分のカップをサイドテーブルのソーサーに戻して、PCに視線をやる。
そして、二人は同時に声を上げた。
「あ……」
「あっ!」
珪は静かな驚きを、桜蔵は歓喜を表して。
二人の視線の先には、「E‐id」の文字があった。
E‐idはEyesroidの略だと、彼らは理解していた。
珪は息を呑み、その文字へマウスのポインターを動かす。文字の上をクリックすると、ディスプレイに小窓が出現した。
――― PASSWORD: ―――
二人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「俺やるっ!」
「はいはい、どーぞ」
珪はPCを桜蔵へ向け、席を譲ると、残りの豆大福を手に取った。
代わりに桜蔵がチェアに座り、慣れた様子で文字を打ち込む。ディスプレイにアスタリスクマークが並ぶと、一度画面は真っ暗になり、直後、画面いっぱいに、別窓が開いた。その上半分ほどを、つらつらと埋めていく記号。
「あったぁ~~」
静かな呟きの中に、桜蔵の小さな体に収まりきらない喜びが溢れていた。
珪は、カップを手に取り、一口飲んで息をついた。
「カラ振りじゃなくて良かった……」
「だから、あるって言っただろぉ」
嬉しくて仕方ない桜蔵は、ニコニコとディスプレイを眺めている。
「ホラ、代われよ。それ残しとくんだから」
「あーい」
二人は場所を入れ替わり、珪が再びチェアにおさまる。
「コーヒーと大福、サンキューな」
「おうっ」
桜蔵は、ソファーに戻った。
ソファー前のローテーブルには、白い布が敷かれ、そこに様々な部品が並んでいる。いつも忍び込むときに使う機器のメンテナンスだ。磨き上げて、改善して、組み立てる。半分が、終わったところだ。
後ろから、珪が大きな欠伸をするのが聞こえ、思わず笑みがこぼれた。
「今更だけど、桜蔵?コレ、フェイクとかじゃないよな?ホンモノ?」
声が近づき、珪が、桜蔵を通り過ぎ、彼の正面に座った。
桜蔵は、得意げに笑って顔を上げた。
「誰に言ってんのぉ?」
「その顔で言われると、スゲー説得力……」
大きな瞳が、じっと珪を見つめている。
桜蔵の瞳は、大きいだけではない。生まれついてのものなのかは知らないが、やたら強い光を放つのだ。否と言わせないほどの強い光を。
桜蔵は、すでにもう愛用の道具たちの手入れに戻っていて、力強い光を宿す瞳も、今はただ楽しげに輝いている。
「しょうがねェよなぁ……」
「ん?何か言った?」
珪の小さな呟きが半端に伝わって、桜蔵はきょとんとして珪を見た。
「いや、別に?」
「そう?」
桜蔵の興味は、すぐに目の前の作業へと移った。
仕方がない―――珪は、楽しげに鼻歌を唄う相棒を見て思った。
あの瞳を見てしまったのだから。
珪は体をグッと伸ばし、そして、少々窮屈そうにゴロンと横になった。その途端、頭も体も瞼も急に重くなる。桜蔵が立ち上がるのを視界の端に映して、珪は目を閉じた。
桜蔵は、隣の一人掛けのソファーにかけてあったブランケットを、そっと、珪の体に掛けた。
「寝てないもんね、珪ちゃん」
ソファーに戻った桜蔵は、メンテナンスを終えた機器を専用のケースに片づけて、残ったコーヒーをゆっくり味わった。
室内は、途端に静寂に包まれた。天井扇の回る音すら聞こえそうなほどの静けさだ。
テーブルの端に置いておいた雑誌を取り、ソファーの背にだらりと凭れかかった。
「ねむ……」
数ページ捲ったところで、欠伸が出た。
捲っていくたびに、瞼は重くなっていく。まるで、向かいにいる珪から眠気のオーラが流れてきているようだ。
読んでいたのが、眺めるだけになり、もう一度欠伸が出た後は、もう目を開けていられなかった。
天井扇だけが、動きを止めることなく、ゆるゆるとまわり続けていた。
* * * * *
ソファーに身を起こした桜蔵は、とりあえず、時間を確認するものを探して、辺りを見回した。薄暗い中に、オレンジの明かりが控えめに広がっていた。
ソファーの背越しに珪を見つけ、キッチンに立つ背中に声をかける。
「珪ちゃん」
「あ、おはよう、桜蔵」
肩越しに振り返り、珪はまた調理に戻った。
珪にかけていたブランケットが、足元で固まっている。
「顔、洗って来いよ。そろそろ飯だ」
「はーい」
まだ、少しボンヤリする頭で立ち上がった桜蔵は、洗面所ではなく、キッチンへと足を向けた。
珪の傍らに立ち、今夜のメニューを覗き込む。用意されていたのは、大皿一つだった。そこに盛り付けられていく品々を確かめて、桜蔵は表情を輝かせた。
珪が、桜蔵を見下ろし、口角を上げた。
「乾杯するだろ?」
「当然!」
桜蔵は踵を返し、足取り軽く洗面所へ向かった。機嫌よく鼻歌を唄う合間に顔を洗って、今回の仕事の成果ににんまりと笑った。
「なにをニヤニヤしてんのぉ?」
開けっ放しだった扉から、珪が桜蔵を観察するように立っていた。
「あ、珪ちゃん」
鏡越しに目が合った。彼の手元に酒瓶二つを見つけ、桜蔵は手にしていたタオルを戻して振り返る。
「どっちで乾杯する?」
珪が、顔の高さに掲げた二つの酒瓶を、桜蔵は、交互に見つめた。
「右!!」
「だと思った」
ソファー前のローテーブルに、大皿に盛り付けられたおつまみと、珪が選んだ二つの酒と、うすい青色の緩く波打つグラスが並べば、乾杯の準備は万端だ。
「E‐idファイルの奪取成功に」
桜蔵が、グラスを掲げる。
「俺たちの才能に」
ニヤリと笑って、珪もグラスを掲げた。
「かんぱーい」
「かんぱーい」
グラスがカンと高い音を鳴らした。
桜蔵が、喉を鳴らして、一気にグラスを空けた。
ひと口飲んでグラスを置いた珪は、軽く笑って、自作のつまみに箸をつけた。
「いくら嬉しいからって、あんまり飲みすぎんなよ?桜蔵」
「だって、おいしいんだもん。ねぇ、どんくらい集まったかなぁ」
「それは俺たちじゃわかんないだろ。あのデータを作ったやつじゃないと」
「……アキ」
「しんみりすんなよ。アキって決まったわけじゃないし、アキなら、なにかヒントを残してんじゃねーかな」
珪の元同僚で、二人の親友・
「だよね。アキにつながるものかもしれないし」
桜蔵の顔に笑顔が戻る。
「さぁ、呑むか!」
「だぁから……」
気持ちいいくらいにきれいに飲み干していく桜蔵を、珪は半ば諦めたようにたしなめた。
「ピッチ、早いつーの」
「珪ちゃんのおつまみサイコぉ~」
「聞いてないし」
まだ酔うには早いはずなのに、桜蔵はケラケラと愉しげに笑っている。見ていると、こちらまで愉しくなってくる。
桜蔵は人を巻き込むのが上手い。そして、いつの間にか巻き込んだ当人より夢中になっている。その点では、人を見る目があると言っていいのだろう。
「珪ちゃん、あのデータってばらばらのまま?一つにならないの?」
「いろいろ試してはいるんだけどな。トラップがあったらって思うと下手なこともできないし」
「もしさぁ……もしも、ホントにアキが作ったものなら……」
「あ……俺のわかる方法を使ってる?」
二人は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
珪は、グラスを置いて愛用のパソコンへと移った。データを入れたスティックを差し込み、珪がデスクトップに表示されていく記号の羅列を見つめ、しばらく思案した後作業を進めた。彼が作業を進めるのを、桜蔵はデスクチェアに片膝をついて眺めた。
部屋に、キーボードを打つ音が響き、しばらくの後―――。
「あ……」
珪の手が止まる。
桜蔵は、焦りの表情で、それまでは眺めていただけだった画面に目を凝らした。
「えぇ?!」
珪は、ただデスクトップ内で起きている現象を静観していた。
二人の目の前で、開いていた小窓が次々に消えていく。
「俺たちの努力の結晶!!ちょっと、珪ちゃん?!なんとかしてよ!なにをクールに座ってんの!」
珪の反応はない。彼は、相変わらず、ただ画面を見つめている。
「珪ちゃん!け……あれ?」
デスクトップに新たに現れるウインドウと、そこに表示されていく記号。
しばらくして、珪が、キーをたたいた。
すると、記号がフェイドアウトしていき、画面は、一枚透明なフィルムをかぶせたようになった。
「珪ちゃん、なにしたの?」
「もうちょっと見ててみな?」
珪が愉しげに笑って、再度キーを叩く。
変化を繰り返す画面に、桜蔵の目は釘づけだった。
白く濁ったような画面の上で、文字が躍る。くるくるとランダム動く文字が、何という単語なのか二人にはすぐに分かった。
やがて整列していく文字を、桜蔵が一つずつ読み上げる。
「E、Y、E、S、R、O、I、D。……Eyesroid」
Eyesroid――――人の目の形、機能を持ち、人の目以上の情報収集・処理能力を備えた、スーパーコンピューターチップ内蔵の機械。人体、つまり、眼球として嵌め込むことが可能。製作者は、
「珪ちゃん……」
驚きをそのまま表して、桜蔵は珪を呼んだ。
「すごいだろ?しかも、これ……」
誇らしげに語る珪の指差す先で、左から文字の色が目盛を上げるように変化していく。
「完成したデータの量までわかるんだ」
珪の言うとおり、色の変化は、四分の一あたりで止まった。
珪の肩に片手を置いて身を乗り出す桜蔵の大きな目は、さらなる驚きでまた大きくなっていた。
「……ねぇ、珪ちゃん……俺、これに見覚えがある」
桜蔵の声は、懐かしさと淋しさに満ちていた。
じっと画面を見つめていた珪は、桜蔵の言葉を聞いて、思わずうつむいた。視界に入る手元には、見慣れたキーボードがある。今はいない親友と、自分とを繋いだもの。
「俺が、唯一あいつに教えられた方法だ」
深いため息をついた珪は、顔を上げ、再度、画面を見つめた。
「やっぱり、アキの可能性が高いな」
「ほら、やっぱりアキにつながってるんだよ!」
桜蔵の瞳は、すっかり輝きを取り戻していた。
珪は、今は高い位置にある桜蔵を振り仰いだ。桜蔵は、力強い瞳で画面を見つめていた。人を惹きつける色を宿した瞳で。
「アキを取り戻す」
彼の強い意志は、珪のモチベーションとなっていた。
「だな。それじゃ、もう一回、乾杯するか」
「しよ、しよ~!」
足取り軽く、桜蔵がソファーへ戻っていく。
珪は、手早く作業を終わらせてそれに続いた。
「珪ちゃん、早く、早く!」
「はいはい」
珪がソファーに戻ると、乾杯用の酒は、桜蔵によって既にグラスに注がれていた。
「Eyesroidに!」
「Eyesroidに!」
うすい青色をしたグラスが合わさり、カチンッと涼やかな音色を奏でる。それが、二人の耳に心地よく響いていた。
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