第36話 立ち昇る湯気の中で
まだ風呂に入る時間では無いけれど、あまりの出来事に思考が完全にショートしてしまった俺は、脳みそをリラックスさせるためにも
誰もいない浴場で、立ち昇る湯気にだけ視線を集中させ、無心を貫く。
すると、モザイクのかかった入り口に、黒い人影が見えた。
誰か入ってくるのか。
どうやら1人の時間はこれまでのようで、俺はその黒い影と入れ替わろうと風呂から立ち上がる。
「お、
どうやらその影の正体は理事長だったようで、ガラガラと手動の扉を開けてその先の俺を視界に入れるなり、喋り相手が見つかったことに歓喜をするかのようにガッツポーズをした。
頼む。下を隠してくれ。
「いやー暑すぎて汗かいたもんだから、風呂でも入ってさっぱりしようと思ってね」
理事長は髪の毛と体を洗ったあと、俺が入っている風呂に浸かった。
根強くこびりついた社畜のマナーとやらが足を引っ張り、喋りたそうにしている理事長を見ていると、会社に勤めていた頃の上司を思い出してしまい、湯から体を出すことができなかった。
「なんかあったのかい」
「え…」
「見たら分かるよ」
少し間を置いてから、理事長はニコッといつもの暖かい笑みを浮かべる。
普通の人なら数回のやりとりだけでここまで内心を読み取ることはできないだろう。けれど、この人はいとも簡単にそれを読み取ってしまう。俺は、他人に心の内を読み取られるのが苦手だ。内臓を掴まれたような感覚に襲われるし何をしても逃げられないのだろうという恐怖が身を襲うから。
けれど、理事長に関しては違った。自分の全てを知られているというのに、その
「まあ、その
今日生徒会室であったことを理事長に淡々と伝えた。
理事長は真剣な眼差しで俺の目を捉え、話の合間に優しい
「そっかー」
「はい」
話を終えると、理事長は息を吐きながら高い天井を見上げた。今の話で理事長は何を思ったのか全くもって検討がつかない。
理事長につられて俺もその天井に視線を向けた。もくもくと立ち昇る湯気の中で、天井は僅かに
「まさか奈緒があんなことを思っているとは予想をしていなかったので、それなりにダメージがありまして」
「あはは、そうだよね、そりゃそうだ、あんな優しそうな小動物に言われたら誰だってそれなりにグサッとくるね」
理事長はまた俺の心の内を優しい声音で読み上げる。本当にその通りだ。
低身長で優しそうな顔、実際に優しい振る舞いと明るい態度。それらから俺は奈緒にだけは嫌われていないとか。そんなことを思っていた。あの小動物のような小さな体で俺への嫌悪感を隠していたのだから驚愕だ。
「私はあの子の過去を知らないから、どうして奈緒ちゃんがそんなことを言ったのかよく分からない。でも、あの5人はたまに助けを求めるような寂しそうな目をするんだ」
理事長のその言葉を聞くなり無意識に5人の表情を頭に思い浮かべる。
まだあの5人と関わりを持ち始めてから2ヶ月経つか経たないかのそんな短い期間しか過ごしていない。それでも確かにそんな表情をしていたような気がする。公園のときの
「ちなみに蒼太くんもだよ」
「——っ!」
そんなことを初めて言われ、思わず目を丸くして理事長の顔を見つめてしまう。
そして理事長の冷たい声音は初めて俺に1つの苦手意識を植え付けた。
「ま、蒼太くんなら奈緒ちゃんを何とかしてあげられるよ」
ころっとニコッと
「そうですかね…というか、理事長はあの5人といつ知り合ったんですか」
これ以上自分の弱さを突き付けられるのが怖くて俺は
「何でそんなことを?」
「単純に気になったんですよ、この学校で初めてあの5人と出会ったとしても、2ヶ月の関係だけで生徒会に
あの5人は理事長によって選別された。
言った通り、2ヶ月の短期間だけでそんな役を押し付けられるほど5人と深く関わるなんて不可能だ。だから前からどのくらいの期間を経ての選別かが気になっていたのだ。
「んー、優ちゃんは知り合いの子だったから結構前から関わってたねー、あとの4人は3年前くらいからかな、私は4人の通う中学校で4人の担任をしていたんだよ」
「そうだったんですか、知りませんでした」
どうやらそれなりに5人とは関係が深いようだ。しかも担任をしていたとなるとかなりの時間様子を見てきたことになる。それならば生徒会に選ぶのも合点がいく。というか、その事実に驚きすぎて逆に反応が薄くなってしまう。
「でも、1つ違うよ蒼太くん」
理事長は人差し指を立てて答えを発表するかのような笑みを浮かべた。
「何がですか」
「
「他の人が?」
「いいや、違うよ…可奈ちゃんは自分から入らせてくれって言ってきたんだよ」
「へぇ、あいつが」
可奈の意識は他の4人よりもかなり高い。授業中も真剣に聞いている姿勢や、生徒会活動でも真面目に取り組む姿を思い出すと、不思議なことではないと思う。
「理由は分からないけどね」
俺の質問を先読みでもしたかのように、理事長は片目だけ閉じた。
その仕草は子どもっぽいのに、溢れる大人な目鼻立ちとセクシーさがそれを飲み込み、台無しになる。
この人本当にイケメンだな。
「俺、そろそろきついんで出ますわ」
「そうだね」
もう何十分も浸っていたため、立ち上がると意識は
何とか根性で風呂から出て、扇風機の前に座り風力を最大にする。
だんだんと戻ってくる意識とともに、さっきの奈緒の姿が脳裏に浮かぶ。
いつもとは違う冷え切った声音と目。
何か大きなものを抱えているようなそんな暗い表情。
「よく分かんねーな…あいつの家行ってみるか」
この問題は野放しにしてはいけないのだと思う。だから話し合わなければいけない。
俺はそう思った。
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