第35話 あの日から——

 

 クーラーのゴーっという音と、奈緒なおと俺の動かすシャーペンの音だけが生徒会室に響く。

 普通の高校一年生ならばこの夏休みは部活に励んだり遊びに遠出をしたりと夏休みを満喫しているはずだ。少なくとも受験生でなければ学校にまで来て休み明けのテスト対策の勉強はしないだろう。

もちろんこの学校に受験生などいない。今年できたばかりの校舎では1年生が最高学年なのだ。

 しかし、奈緒は別だ。圧倒的にとぼしい学力のため、進級という文字がかすれてしまっている。だからこうして心配をした俺は勉強をさせているのだ。

 昨日用意した小テストは高校一年生が習う範囲の基礎的な問題を集めた難易度の低い内容のテスト。それなのに奈緒が叩き出した点数は21点。誰がどう見ても心配してしまう

せめて平均点を取ってもらえればいいのだが、このままだと奈緒の頭の弱さが露呈ろていして全校生徒に舐められてしまう。

いや、生徒から人気の高い奈緒ならもしかしたらそれもそれでってことで好感度が上がるのかもしれない。

ダメだ。好感度を上げたところで進級というエレベーターは上がってくれないのだ。


 「あの、蔵沢くらさわさん」

 「ん?なんだ」

 「この問題の解き方が分かりません」


 今、奈緒には昨日やっ小テストの見直しをさせている。奈緒は手に持ったシャーペンの先を数学の集合の問題に向けた。


 「集合の問題ってのはまずはベン図を描いてみるんだ」

 「ベン…?何ですか?それ」

 「ベン図だ、授業でやったぞ」

 「そ、そうでしたっけ」


 俺が奈緒の顔を見ると、奈緒は誤魔化すように視線を泳がせる。

というかこの問題、昨日の授業でやったんだけど。本当に聞いていらっしゃらないのね、小動物お嬢様よ。


「ベン図ってのはな——」


 一通りベン図の書き方と使い方を教えたところ、奈緒なおはすぐに集合の問題を解くことができた。その問題もそうだがその先の多少の応用問題も解くことができたのだ。

 その様子から奈緒はやればできるYDKなのだと確信した。

 林間学校の企画準備の時にそれなりの行動力を奈緒は示した。あの行動力は馬鹿ではできないことだ。だから勉強だってやればそれなりにできると心のどこかでしていた予想は、どうやら的中していたらしい。

 それから1時間ほど勉強をしていると、時計の短針は午後の2時を指していた。

 見るからに外の気温は高くなっていて、それを嫌がるかのようにセミの鳴き声が耳に入る。

 

 「あの」


 奈緒は口を開き、シャーペンを机の上に置いた。


 「どうした、分からないところか」

 「い、いえ、勉強じゃなくてちょっと他に聞きたいことが…」

 

 奈緒は小さい頭を横に振り、首の中間までしかない短い髪の毛を不規則に揺らした。


 「聞きたいこと?」

 「はい」


 正面に座る奈緒の目は少しだけ力が入っているように見えた。


 「何で私にここまでするんですか」

 

 奈緒はしっかりと俺の瞳を捉え、その口調には今までと違った真剣さを孕む。

 『何でここまでするのか』その言葉を聞いて改めて自分が何のために奈緒に勉強を教えているのかを考える。金にはならない仕事をなぜしているのか。

とりあえずその質問をあしらうように軽くこう答えた。


 「んー、のちに仕事に繋がるからかな」


 その『後の仕事』というのは生徒会が運営していくであろうイベントごとのことだ。

忘れかけていたがこの勉強会は奈緒の進級をメインに催されたものではない。あくまで生徒会全員の偏差値を高めるため。それが実現し、順位表の名前に俺達の名前が掲載けいさいされ、全校生徒に知り渡れば、生徒会という組織は信頼を勝ち取ることができるのだ。それは何も生徒からの信頼だけの話ではない。その保護者からの信頼だって得られる。となれば多少は学校のことを考え直すかもしれない。


 「仕事…ですか…」

 

 奈緒は下を俯く。

その表情をうまく読み取ることはできないけれど、怒っているような、寂しがってるような。多くの色が混じっている気がした。


 「ま、そんな感じだな」

 「はっきり言わせてもらいます」


初めて聴く冷たい声音に、背筋に衝撃が走った。


 「あなたのことが大嫌いです…あの日から…」


 その瞬間、俺の中の時間と思考が止まった。

 真剣な表情で言われた“大嫌い”という言葉。その言葉はこの学校に来てから何度も浴びさせられたので、慣れているつもりだった。けれど、奈緒なおはその言葉を一度も口にしなかったのだ。だからコイツは俺のことを嫌いではないと思っていた。思いたかった。

 とてつもない意外性が相まって、その言葉の威力は計り知れない。

 メンタルは強い方だと自負していたが、まるで胸を刃物で突き刺されたかのように苦しい感覚が身を襲う。


 「すみません…それでは」


奈緒は両手で口を覆い、自分でも驚いたかのような表情を浮かべている。

 そして奈緒は荷物をまとめて立ち上がり、座ったまま口をぽかんと開けた俺に背を向け生徒会室の重たい扉に歩いて行った。

 『あの日から…』最後に付け足されたその言葉が脳内を反芻はんすうする。

 あの日とは、いつからなのだろうか。

 俺が転入してきた日か?

 それとも…


生徒会室にはクーラーの音と暑さに苦しむようなせみの鳴き声が響いていたはずだ。しかし、今の俺にとってこの空間は無音の世界そのものだった。

 




 

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