track:06 Kugel [2tani]


 何となく自分の番は来ないだろうと思っていたけれど、例外はないらしい。

 二谷にたに縨眞ほろまはベンチに凭れてぬるい歌を口ずさむ。空には煤けた雲が立ち込めていて、夜を待たず、殺人的なストームに変わりそうだ。


 風上ふうじょうみねは約束の時間ちょうどに現れた。

 シックな水色のワンピースに紺のカーディガン。小さな白いバッグを肩から提げている。

 まだ声を聞いていないけれど、甘えた気配がなく、衆目の中では絶対に泣かなそうな女だと思った。

「来てくれてありがとう。風上峰よ」

 彼女は女学園の学生証を出して短く名乗った後、背中合わせに置かれたもうひとつのベンチに座った。

 ここは大学の広場として使われるはずだったが、建設予定が流れたので現在は廃地だ。

「あなた本当に『offオフ・ theザ・ lightsライツ』の二谷よね? もっと不良っぽいルーズな感じをイメージしてたけど。……瞳、黒じゃなくて森の色なのね」

「うるせえよ」カラーレンズを入れ忘れた。「それで、加矢間かやまセンパイは」

「自殺に失敗した人のままよ」と彼女はこちらを振り返る。「めい、あなたに何かしたの?」

 地下室の話だろうか。喋る気になれず、「いや、別に」と視線を逸らす。

 大事な幼馴染を傷物にされたことを怒ってくるとばかり思っていたので驚いた。

「面倒だから先に謝っておく。襲撃の件はオレが悪かった」

「『でも庇ってくれって頼んだわけじゃない』、でしょ?」

 反射的に彼女を見ると、内部を見透かすような表情で目を合わせてきた。

「詺が勝手にしたことよ。あなたに責任はない」

「は……?」

 どうせ女特有の感情を振りかざしてくるのだろうとうんざりしていたが、変に冷静で調子が狂う。


 風上峰は上辺の会話を閉じ、加矢間詺について訊ねてきた。

「オレはあの人と親密な関わりはない。だからあんたのことも知らなかった。自殺の理由はわからない。……気難しいけど、ピアノも歌も優秀だったから音楽に選ばれたんだと思う。練習ない日はほとんど部屋にいて明け方まで曲作ってた」

 横目で窺うと、場面を想像しているのか、風上峰は空を仰ぎながらやわらかく頷いた。

「それで?」

「夜の街で喧嘩するような後輩を切り捨てない真面目さが逆に鬱陶しくて拒絶した。心配されたり安心させられたりして素直に喜べる人間ばっかじゃねえんだよ。オレはあの人を理解できない。でも寡黙な生き方と楽曲のセンスはリスペクトしてた。それが誰であってもlightsライツの仲間に死なれるのは辛い。……もういいだろ」

 疲れてきたのでそろそろ切り上げたい。今夜こそはまともに眠れるはずだ。ベンチから立つと、風上峰が探しものを見つけたような顔でこちらを眺めていた。

「何だよ」

「ごめんなさい、歌の印象と一致してて面白かったから」

「悪かったな荒んでて」

 さほど遠くない空に落雷の兆しがあった。葉脈に似た光が雲を裂き、一瞬遅れてあいつが響いてくる。突風に攫われないよう上着の襟元を掴んだ。

「駅まで走れるか?」

 風上峰は手の平に受けた大粒の滴を一瞥して苦い笑みを作る。

「間に合わないわ。あそこに避難しましょう」



 腕を引かれ、逃げ込んだ地下空間は灯りもなく寒気がした。

 大学の下層フロアと行き来するために掘られたのだろう。サブウェーの駅構内のような造りだけれど、僅かな距離で途切れていてどこにも進めない。まるで出口を塞がれた短いトンネルだ。その半ばに錆びついた扉があり、雨風を避けるために部屋へ入った。

 土埃の下で死んでいる用途不明の鉄材。室内は湿気が多く、地下牢の内観と重なる。

 隅の方で蹲っていると、風上峰が隣に膝を着いた。

「大丈夫? 暗いとこ苦手なの……?」

 曖昧に否定し、容赦なく流れ出る汗を上着の袖で拭う。異様な緊張に支配され、朦朧とする意識を正常に戻せない。

「近くのクリニックに連絡しましょうか?」

「やめろ!」彼女の手からセルラを叩き落とした。「やめてくれ……」

 原因はわかっている。ドイツで暮らしていた初等科1年の頃、海外のサマースクールへ向かう途中に遭遇したあれだ。犯人はヒッチハイカーのふりをしてバスを乗っ取り、農場内の古びた家に子どもを連れ込んで殺した。最終的な犠牲者は、運転手と5人の生徒。男は手始めに、バスから降りた直後に逃げ出そうとした少年をナイフで滅多刺しにして殺害した。頭部に何度も刃を突き立てられ、目と口から溢れる黒い血と、左右が別の表情をした死の形相を今でも鮮明に思い出せる。あの瞬間に全員が抵抗の意志を砕かれた。

 地下室でひとりめの子どもが台に寝かされ、『誰と話したい?』と英語で書かれたカードを見せられる。その子は唇をほとんど動かさずにママと答え、闇で手に入れたらしいセルラを渡された。しばらく母親と通話をしていたが、泣きながら助けを求める声が不自然に消え、床に滴る血の音で、彼の身体が真っ二つに切断されていることに気がついた。

 男が側で細い鎖を引いていて、天井から真下の台に分厚い刃が下りていた。

 次も、その次も同じ手口で残殺されていくのを、壁に背を押しつけて瞬きもせず見ていた。もう死んでいるような、けれどまだ生きているような、でも半分宙に浮いているような悲しい歪みの中で時間の感覚を失った。

 機動隊が突入してきたとき、地下室の生存者は自分だけだった。

 無数の銃口を突きつけられた男に「あんたは最後に誰と話したいの?」と訊ねた刹那、頭上に高く振り上げられたナイフ。

 破壊された扉の前で振り返ると、耳から上を吹き飛ばされた男の横に、玩具にされた遺体が折り重なっていた。

 あまりに惨すぎたのか、あの光景を回想すると色が欠けていて、緻密な鉛筆画のようだ。

 宿泊を予定していた施設に生徒が到着していないと通報があり、上空からの捜索で男の家の前に停車しているバスが見つかったと、後になって知らされた。


 夢の中で殺されることに疲れ果て、ベッドの代わりに殺人台のレプリカを置くのはどうだろうと思いつくくらいに気が触れかけていたのを憶えている。

 熱心に打ち込んだお蔭で、ピアノの鍵盤を叩きながら考え事をする余裕ができた。

 葡萄酒の力を借り、あいつが生まれ変わらないよう地獄に拘束するための曲も作った。

 頭では、過去の事件だ、今なら戦えると思っていても、記憶を止血しろと精神が絶えず訴えてくる。療病より銃弾が必要だ。

 音楽に没頭することで何とか上手くやれていたのに、加矢間詺のせいで身体が問題を起こすようになった。怪我をして帰り着いたいつかの深夜、リビングで出くわした彼に『手当てをしたらやり返しに行く』と言った。

 それを聞いた加矢間詺は、ピアノが弾けなくなってもいいのかと厳しい口調で問い詰め、青く腫れた指に包帯を巻き、自分をL館の地下室に閉じ込めた。

 その日から、目覚ましのアラームが不意打ちで鳴り響くようなフラッシュバックに襲われている。

 けれど彼を恨んではいない。くだらない喧嘩で音楽を潰しかけた自分への罰だ。

「二谷、このままでいいの? そのうち元に戻る?」

「うるさい! オレに触るな……!」

「わかった。そうするわ。あなたが苦しんで死ぬまでここで見守ってるから」

 言葉の冷ややかさとは裏腹に、背中に置かれた手はあたたかく儚かった。

「泣きたい気分なの? やさしくした方がよかったわね。……二谷。大丈夫よ」

 もう何も抱えられなくて、辛くて壊したくて堪らない。卑屈な態度で風上峰を突き放そうとしたけれど、自分の指が彼女のカーディガンを握り締めている。矛盾だらけだ。

「このジャケット素敵ね。古着かしら。わたし意外と詳しいのよ」

 ドイツのバーでピアノを弾いていた頃、酔った客から譲られたものだ。違法に出回っていた警察服のレプリカらしいが、プリントされた文字が掠れてほとんど読み取れない。


 風上峰は最後まで余計な事情を詮索してこなかった。

 なぜ、どうしてと訊かれても言いたくないことがある。

 そしていつも疑問に思う。

 身体の怪我にガーゼを貼るのは許されるのに、内側の傷は誰彼構わず晒さなければいけないのか。



                               track:06 end.

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