一節 「グリーンカレー……じゃない!? 謎の創作エスニックカレー!(1)」

 がくりと首が揺れた反動で目を覚ますと、僕は随分と混んだ電車の中にいた。


 どうやら、座ったままうたた寝をしていたようだ。ワイシャツの袖から覗く腕時計を確認すると、17時40分頃を示している。と言う事は、帰宅ラッシュの電車に僕は乗っているのだろう。


 差し迫った問題はなさそうなので、少しゆっくりと自分の事を思い返す。


 とりあえず自分が降りるべき駅さえ分かれば、後はのんびりで大丈夫なはずだ。



 僕の名前は川西かわにし城司じょうじ。総合商社的な企業で、ごくごく一般的なサラリーマンとして仕事を行っている。役職は無い。所謂、平社員だ。


 商社の中でも、僕が所属しているのはマーケティング関係の部署である。内容的には、特に専門的な能力は必要ない。とは言え、周辺の企業に対して各種提案を行うのが主な仕事であるため、色々と気を揉む事は多い。営業の人間とは部署違いだが、こちらも営業職と言えば営業職だろう。


 しかし最近、お世辞にも仕事は上手く行っているとは言い難い。残業を増やした割には、自身の業績が上がっていないと言うのが正直な現状だ。商談は3件に1件成立すれば良い方だし、徐々に提案内容自体もまとまらなくなってきている。


 加えてストレスは胃に来るタイプだったようで、毎週末には近所の病院に通院している。担当の茶髪に黒縁眼鏡の男性医師は、毎回のようにカウンセリングも勧めて来るが、僕はそれを断っていた。理由としても、何となくそういった場に対して抵抗感があるだけなので、ただの強がりだと言う事は自覚している。


 ちなみに今日も、商談は失敗に終わった。帰社してまだ仕事を続けようとする僕に、優し気な瞳が特徴的な上司は、今日の所は定時で帰るようにと指示してきた。


 どうやら僕は、余程ひどい顔をしていたようだ。僕は力なく返事をした後、定時まで適当に資料の整理を行っていた。その後、時間になり次第、同僚たちの哀れみの視線を背中に受けながら、僕はそそくさと会社を後にした。



 ――そして、今に至る。



 自宅の最寄り駅は「恋之丘駅」だ。今ちょうど通過した駅から、2駅で到着する。降りる駅も分かったので、多少は気持ちに余裕も出来た。


 ガタガタと電車に揺られる事、およそ10分。目的の駅に到着した僕は、混み合った車内で人を掻き分け、どうにかホームに降り立った。


 改札を抜け、駅を後にすると、見知った街並みに包まれる。アスファルトが孕む熱気で、遠い地面はゆらゆらと陽炎を作り出していた。


 西に沈みつつある太陽が、じりじりと肌を焦がす。現在時刻は、18時前。ちなみに、自宅までは徒歩15分と言ったところだ。


 もちろん、家に帰っても僕は1人だ。恋人なんているはずもないし、近所に仲の良い友人もいない。


 趣味らしい趣味もなく、帰れば只々自分のための食事を用意し、自分のために風呂を沸かし、入浴後は適当にぼんやりと夜を過ごした後、寝るだけである。

 


 ――途端に、虚しさに襲われた。



 たまには、変化があってもいいんじゃないだろうか。たまには、違う事をやってみてもいいんじゃないだろうか。


 そんな気持ちが僕の中にふつふつと湧き上がった時、目の前に一軒のお店の看板が現れた。



「エスニック料理店 プラシット」



 住宅街の中にひっそりと建つ料理店。


 僕は幾度となくこの道を通っていたが、こんな店がある事にはこれまで気付きもしなかった。いかに自分が毎日同じ生活を繰り返していたかが分かる。


 エスニック料理と言えば、東南アジアの方の民族料理の事だっただろうか。


 そこで不意に、僕は大学の卒業旅行で友人たちと訪れた、ベトナムでの事を思い出した。


 就職も決まって、希望に満ち溢れていた時期。必死でバイトをして溜めた金で、友人たちと囲んだ食卓の光景が脳裏に蘇る。



 あの時食べたのは、確か――。



 僕は、何かに誘われるように店の扉を開いた。



  ***



「いらっしゃいマセー。お好きな席へドウゾ!」


 店に入ると、長くてきれいな黒髪が目に眩しい、アジア顔の美しい女性店員が奥から現れた。


 そう広くない店内は、どこの国の物かさっぱり分からない謎の曲が流れ、壁中が民族風の装飾を施されている。点々と置かれた観葉植物は、これまた見た事もない物ばかりだ。


 店全体の視界は、間接照明の薄暗さに加えてどことなく不鮮明で、スモークでも焚いているかのようなもやが掛かっている。


 カウンター席には常連と思しき中年の男性が1人座っており、店主と思しき男性と会話をしているのが見える。


 また、4つあるテーブル席の1つには若い男女の2人組が座っており、傍にはベビーカーが置かれていた。おそらく2人は、夫婦なのだろう。


 初めて入る店でカウンター席というのも何となく緊張するものだ。僕はおひとり様で恐縮だが、空いているテーブル席に腰掛けた。


 店内は冷房がしっかり効いているようだ。心地よい冷気が、汗でぴったりと張り付いたシャツの隙間を抜けるのを感じる。


 間もなく、先程の女性店員が、水の入ったグラスとメニュー表を持って、僕の下に現れた。


「ご注文が決マったら、お呼びクダサイ」


「あ、あの……」


「ハイ?」


 本来であればメニューを見て頼んだ方が良いのだが、今の僕は、何となく誰かと話したい気分だった。


「『フォー』ってありますか?」


「ハイ、ありますヨ! 他に何か食べますカ?」


「あ、いえ。とりあえずそれだけで」


「かしこまりマシタ。ショウショウ、お待ちクダサイネ!」


 笑顔で注文を受ける女性店員。彼女はそのまま踵を返し、カウンターへと下がる。



 以前ベトナムで食べたフォーの味は、今でも僕の中に強く残っていた。今思えば、あの頃が一番楽しい時期だったかもしれない。


 具材に肉類が含まれる事が多いが、どちらかと言えば、あれはあっさりした麺類だ。今の僕の胃の状態でも、あれぐらいなら食べられるだろう。


 少しでも昔の事を思い出せれば――。


 そんな思いで、僕は料理が届くのを待つ。



 ……そう言えば、これは一体何の物語なんだろう?



 ふと、僕の内に疑問が湧き起こる。


 自分の現状に思わず感傷的になってしまっていたが、そもそもこんなに自由に過ごしていて良いのだろうか。


 とは言え、もう注文もしてしまったので、今更外に出て主人公を探す事も出来ない。



 ……まあ、いっか。



 とりあえず、ここにいて問題ないと言う事は、物語上の干渉だけはしていないはずだ。仮にこのまま主人公と出会えなかったとしても、それは僕自身の力でどうにか出来る問題ではない。



 物語は――向こうから現れてくれなければ、眺める事さえ出来ないのだ。

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