9.いも虫の魔法

 

 果樹園のりんごの木の蕾も少しづつ開きはじめ、白桃色の花の姿が目立つようになってきた。

 枝にはコマドリがちょいちょい飛び遊び、緋色の胸を張り声高くさえずっている。

 六歳になったばかりの女の子は、空色のエプロンドレスをまとい、まるで子鹿のような足取りで庭を散歩していた。その顔には、初めて春にふれたかのような好奇が浮かんでいる。

 順調に体調も回復し、体力も戻り、ようやく自由に庭で遊んでいいとの許可が出たのだ。


「おにわをあんないするわね」


 リーゼロッテは胸に抱いたパルムに語りかけた。

 『月夜の漣邸』の敷地内では、あちらこちらで春の花々がいまを盛りに咲き誇っていた。

 この屋敷は建物だけでなく、付随する所有地までが、幼い主ひとりの住居というには不釣り合いなほどの広さだった。 

 リーゼロッテはパルムに広大な敷地内を見せて回りながら、これはなんだあれはなんだとお姉さんぶった口ぶりで説明をしていた。


「この木にさいているむらさきのお花はね、ライラックっていうのよ。いいにおいがするの」 


 得意げに笑うと、リーゼロッテは抱きあげたパルムの顔を、枝の先に群れ咲くちいさな紫の花々に近づけた。


「へえ、なるほど」


「いいかおりでしょ?」


 女の子の言葉に、ぬいぐるみはかわいらしく小首をかしげた。


「そうなのでしょうね。僕は鼻が弱いものでよくわからないのです」


「そうなの?」


 思いもかけないパルムの言葉に、リーゼロッテは軽く動揺した。

 ぬいぐるみとはいえ、猫なのに鼻が悪いなんて、ちょっとかわいそう。


「でも、パルムはやさしいし、ものしりだわ」


 そう励ましてから、気を使ってすぐさま話題を変える。


「あっちのピンクのはね、イヌバラよ。しろいのもあるのよ」


「あれも薔薇なんですか。ずいぶんとちいさいですね」


「かわいいでしょう? イヌバラはちいさくてかわいいの。なつになるとあかいみがなって、たべられるの。おちゃにするのよ」

 

「そうだったのですか」


 空色のぬいぐるみはやや大げさな声で驚いた。瑠璃色の丸い瞳が陽の光でキラキラ輝いている。


「リーゼはいろいろなことをよく知っていますね」


 神妙にうなずいたりして、熱心に見える様子で耳を傾けている。


 屋敷の正面には、整備された芝生の庭が門まで広がっているが、いまリーゼロッテたちが歩いている庭園は、来客の目につきにくい奥まった所にある。

 草木の生い茂る中を、舗装されていない小道が突っ切っている。虫や小動物や妖精こそが喜びそうな野趣に富んだ庭園だ。

 母の趣向でわざと野にある状態に近いように整えられたその場所では、ちいさな草花が無邪気に咲きこぼれていた。

 

 あでやかな姫君を思わせる大輪の花も素敵だが、ありきたりな雑草のような花は、よりリーゼロッテの心をひいた。貴族の女性としてはめずらしく、野の花をとりわけ愛した母の影響を受けているのも大きいが、それだけではない。

 

 野生のままに咲いている草花の茂みを見ていると、葉の重なり合って暗くなった辺りに、不思議な生き物がかくれているような気がするのだ。なにかがひょっこり見つかって、不意に物語がはじまるような。そんな胸の踊る想像がリーゼロッテの足をはずませる。

 

 小道の横に、カモミールの白い花々がけぶるように咲き乱れている。合間にのぞく青い忘れな草は、控え目なその妹分のよう。

 ゆめのようにきれいだわ……と、リーゼロッテは春の色彩に酔いしれていた。


「ちいさくてかわいいわ。しろいお花もあおいお花もすきよ」


 歩きながらそうパルムに語りかけていると、花たちにも自分の言葉を聞かれているような気がしてくる。ちいさな花が揺れているのはそよ風のせいではなく、こちらの話を聞いてうなずいているからではないだろうか。

 ぬいぐるみのパルムにだって心はあるのだ。花にだってあってもおかしくはない。


 バターカップとキンポウゲが乱れ咲いている一帯も、美しくて愛らしくて、リーゼロッテの視線を強くひきつけてやまない。


「しろい子ときいろい子がいっぱいね。アヒルのおやこみたい」


 パルムを肩につかまらせると、リーゼロッテはかがんでスミレの咲く辺りを眺めた。そして、自分と近い目線になった彼に、こそこそと小声で語る。


「お花のそばには、ときどきようせいがいるのよ。それでね、かぜでお花がゆれると、いっしょにおどるの」


「妖精が……? リーゼは妖精を見たことがあるのですか?」


 パルムがたずねた。

 リーゼロッテは悔しそうに口を引き結ぶと、首を横に振った。


「ないわ。ようせいはこわがりだから、人がくるとかくれちゃうんだって。でもだれもいないときはあそんでいるのよ。本にのってたんだから」


 ふたりでだまって静かに花の辺りを見つめていたが、なにも見えなかったのであきらめて立ち上がると、リーゼロッテはまた歩き始めた。

 しばらくして、今度は大きな石に目を留めた。その上にのっている生き物を見るなり、青い瞳が口と一緒に丸く開かれる。


「りゅうだわ!」


 女の子の歓喜の声が響く。彼女が指さす先には、飴色をしたトカゲが長く細い尾を優雅に伸ばして日向ぼっこをしていた。


「きれいな子ねぇ。ひさしぶりに見たわ。りゅうはあたたかいのがすきなの」


「あれが竜ですか……? 僕には普通のトカゲに見えるのですが……」


 怪訝そうなパルムを見て、リーゼロッテはさもありなんというようにうなずいた。


「ひとにつかまらないように、トカゲにばけて小さくなってるの。ようせいとおんなじで、にんげんがこわいの。りゅうはほろびたって言われているんだもの」


 だけどね……と、パルムの耳に口を寄せてささやく。


「あのくろいめをじーっと見てみて? まんなかに、もっとまっくろなたてのせんがあるのが見える? そういう子は、ほんとうはりゅうなのよ。りゅうのしるしなの」


「もっと真っ黒な……?」


 言われるがままにパルムもトカゲをじっと見つめた。


「……ああ、なるほど。光の加減でトカゲの目の光彩が見えたわけですね」


 めのこうさい?

 よくわからない言葉を使うパルムを見て、今度はリーゼロッテが不思議そうな顔をした。

 ぬいぐるみはすぐに自分の失態に気づいたようだった。


「いや、リーゼが竜だと言うならそうでしょう。言われてみれば確かに竜に見えてきました」


「そうなの。見かけても、さわらないであげてね。こわくないのよ。もうわるいことはしないわ」


 しばしふたりは茂みで不思議な生き物を探して遊んでから、また小道を通り、白い石壁に囲まれた菜園までやって来た。

 ほんの趣味程度の畑だった。屋敷で消費される大量の食材を賄えるほどのものではない。大半の野菜は外部の農家から購入しているが、ときにはこの畑で育ったニンジンやレタスが食卓を賑わせた。


 できるだけ新鮮な野菜を子どもに食べさせたいという大人たちの思いを、リーゼロッテはありがたいと感じたことはなかった。野菜など世界から消えてしまえばいいと思っていたからだった。


「あっ、いた」


 リーゼロッテは歓声をあげた。しゃがみこんで、ニンジンの葉にくっついている生き物をつまみあげる。


「えっ?」


 パルムがふいをつかれたように声をあげた。


「かわいい。ね、とてもきれいね」


 リーゼロッテの指先に捕らわれているものは、ころころと太った体をくねらせるいも虫だ。緑の体に黒の縞模様が入っている。

 子どもは手のひらにいも虫をのせると、その姿をじっくりと眺めた。


 夢見がちな女の子は、花も妖精も竜も愛していたが、身近な生き物たちのことはさらに大好きだった。

 屋敷にある動物や鳥の図鑑は表紙がボロボロになるほどに読みこんでいたし、一般的に嫌忌される生き物さえもを怖がることなく好んでいた。いも虫も、蜘蛛も、蛇も。

 広い庭を散歩しながら、鳥や虫やトカゲなどを探して、観察したり捕まえて直に触ったりすることは、彼女がとくに好む遊びのひとつだった。


 リーゼロッテの肩にしがみついたパルムが、一緒に覗きこみながら言った。


「怖くないのですか? 女性はそういうのは苦手な人が多いのかと思っていました」


「こわくないわ。かわいいの。パルムはこわいの?」


「僕も怖くはないですよ。生き物をかわいがるのはリーゼのよいところですね。でも虫の中には刺すものや毒があるものもいますから、気をつけてくださいね」


 まるで先生のように注意を与えるぬいぐるみが小生意気に思えて、リーゼロッテはくすくす笑った。


「いも虫はささないわ。はっぱをたべるだけなのよ。ちょうちょになると、お花のみつをすうの」


 またいも虫に視線を戻すと、その背中をそっとなでた。いも虫は迷惑そうにのけ反った。


「ふしぎね。いも虫がちょうちょになるのって。ぜんぜんかたちがちがうのに」


「たしかにそうですね」


「どうやってかわるの? まほう?」


「どうやっているのか僕にもわかりません。魔法なのかもしれませんね」


 そうだとしたら、パルムの魔法よりよほどすごい気がする。パルムは魔法の猫を自称するわりに、昔話に語られる魔法使いのような派手な魔法を使ったことがない。動いたり喋ったりするだけだ。そんなことはリーゼロッテにだってできる。

 いも虫は姿をまるで変えてしまった上に、空を飛ぶ力も手に入れるのだ。


『そらをとびたいの。とりになるまほうをかけて?』


『びじんになりたいの。まほうでおかおをきれいにして?』


 そんな魔法をかけてほしいとパルムにお願いをしたことがある。でも、どちらも無理だとあっさり断られてしまったのだ。

 いも虫が魔法で美しい蝶に変身し、飛ぶ力を手に入れるのなら、うらやましいし尊敬すらしてしまう。


 ちいさな虫が神秘的な存在に思えてきて、リーゼロッテはしげしげと眺めた。その秘密を知りたいと思った。


「この子、どんなちょうちょになるの? それとも、がかしら? パルムわかる?」


「さあ、どうだったか。たぶんアゲハ蝶の仲間ではないかと思いますが、詳しいことはわからないです」


「じゃあ、ききにいくわ」


 リーゼロッテは菜園の近くにある果樹園に向かった。

 シロツメクサの咲く果樹園では、年老いた庭師が樹木の様子を見て回っていた。

 彼は名をジェフリー・バーレイといい、娘とふたりの孫たちとともに、屋敷の庭の一角に建つ茅葺き屋根の小屋に住んでいた。

 バーレイ氏は、年のわりには丈夫な体と足腰を持った、働き者の男性であった。寡黙だが木や草花や生き物に詳しく、子ども好きでもあったので、リーゼロッテは親しみを持っていた。


 結構な高齢にも関わらず力仕事をつづけているため、体を心配した亡き奥方からは、屋敷内に部屋を持って共に暮らすことを勧められていた。

 だが「まだそんな年じゃない。やたらしきたりにうるさく人の多い落ち着かない屋敷よりも、自由で気楽な小屋住まいのほうがいい」と、本人はかたくなに辞退していた。


「バーレイさん、こんにちは」


 物心ついたときから慣れ親しんでいる庭師のことを、リーゼロッテはこう呼んでいた。自宅の使用人というより、お世話になっている隣人という思いが強かったからだ。


「ああ、お嬢様。こんにちは。すっかり元気になったみたいでよかったですなあ」


 伸び放題の白いヒゲに囲まれた口元がにっこりと笑い、使いこまれた濃緑のフェルトの帽子の下の浅黒い肌がシワを深くした。

 リーゼロッテも笑顔になると、手を差し出した。


「このいも虫、なにになるの? どんなちょうちょ?」


 バーレイ氏は目を細めながら、子どもの手のひらの上の縞模様の幼虫に頭を近づけた。


「キアゲハの幼虫ですな。そいつらパセリやらニンジンの葉やらが好きでね、よく食い荒らしとるんですわ。見つけ次第、踏み殺しちまったほうがええですよ」


「だめよ。ちょうちょになるとこ見たいの」


 あわてたように言うとリーゼロッテは、幼虫をやさしく握ったこぶしに隠して逃げ出した。


 屋敷に戻る途中、バーレイ氏の孫のケヴィンとジョシュの兄弟が、祖父の仕事を手伝って、水を入れたバケツとジョウロを運んでいるところに出会った。

 陽気な大きな口を持つケヴィンは十八歳、人なつこい丸い目をしたジョシュは十三歳だった。ふたりとも麦わらのような明るい髪をしている。


 リーゼロッテはふたりに近づいていった。


「ねえ、見て。きれいでしょ?」


 女の子が大事そうに差し出した手の中のものを見て、少年たちはどっと笑い出した。


「宝石かなにかと思ったよ。いも虫じゃないか」


「そんなの俺たち毎日見てるよ。変わったやつだなあ、リーゼは」


 ふたりが笑いつづけるのを見て、なんだかリーゼロッテもおかしくなって笑い出してしまった。

 しばらく三人で笑ったあとに、兄のケヴィンが言った。


「もうすっかり元気そうだなあ。よかったな。今日はル……あ、えと、パムル? あ、違う、なんだっけ。パルムも一緒なんだな。うちのじいちゃんには会ったかい?」


「さっきあったわ」


「そうか、安心しただろうな。また寝こんでるんじゃないかって、心配ばかりしてるんだぜ」


 兄につづいて、弟のジョシュも言った。


「母ちゃんも気にしてたよ。いつでも遊びにおいでって」


「きっといくわ。みんなも、たまにはおちゃにきてね。おもてなしするわ」


「どうしようかな。お菓子は好きだけど、お茶会ってマナーが面倒くさいんだもんなあ……。お茶は音をたてるなとか、足を揃えて座ってろとかさ」


 祖父同様に孫たちも、上層中流階級の規則とマナーに縛られた暮らしが性に合わないらしい。リーゼロッテの方から会いに行くことはあっても、彼ら兄弟が屋敷の中にまで入ってくることはあまりない。


「じゃあ、おにわですわってたべましょうね。またね」


 リーゼロッテは手を振ると、身をひるがえして再び駆け出した。

 その首元でパルムがつぶやいた。


「ここの人たちはみんなリーゼにやさしいですね。本邸ではなくこちらで暮らしたいのもうなずけます」


 屋敷への道すがらリーゼロッテは、枝分かれした細い木の棒を見つけて拾い上げた。


「この子のおうちをつくらなきゃ。かごはあるかしら?」


 いも虫を棒に這わせようとするリーゼロッテを見て、パルムが少し驚いたように言った。


「飼う気ですか?」


「うん。ちょうちょになるとこ見るの。だめ?」


「よい好奇心だとは思いますが。ただ、無事に育てられるでしょうか?」


 そう言われると、急に不安になってきた。

 パルムはリーゼの肩からぴょいっと飛び下りた。水色のぬいぐるみは両手を広げてリーゼロッテを見あげた。


「幼虫のためというよりは、なにかあったときにリーゼが泣いてしまわないか心配なのです。あなたはやさしいですからね。まずは慎重に、本でよく調べるなどして、飼い方を勉強してみるのはいかがでしょう?」


「んん~……」


 パルムの言葉はあくまで穏やかで、さほど深刻な響きはない。強く反対しているのではないだろう。

 しかし彼の言うとおりな気もして、リーゼロッテは考えこんだ。

 もし自分のせいで幼虫が蝶にもなれず死んでしまったらと想像すると、怖いし悲しい。泣いてしまうかもしれない。

 しばらく手のひらのいも虫を見つめて考えてから、リーゼロッテは言った。


「うん。はたけにかえしてくる」


 パルムはホッとしたようだった。


「さすがリーゼは賢明ですね。畑だとバーレイさんが困るかもしれませんので、その辺の植木のほうがいいですね」


「そうね。どこがいいかしら」


 周囲の木を見渡して、どこがいも虫の気に入りそうかを探していた時、こちらに歩み寄ってくるメイドの姿を見つけた。リーゼロッテのちいさなボンネットを手にしたエステルだ。


「お嬢様、帽子をかぶらないまま外に出てはいけませんと申しておりましたのに。日に焼けてしまいますよ」


「もうかえるところだったの」


 そう答える主にボンネットをかぶせようと、エステルは近づいてきた。


「あっ!」


 突然、パルムがなにかに気づいたように、エステルに向けて叫んだ。そして、短い両手をパタパタと振った。

 

「ちょっと、止まって……」


 どうしたんだろうとリーゼロッテが彼の顔を見おろした時……。


 月夜の漣邸にけたたましい悲鳴が響き渡った。


「ああ……」


 痛ましそうにパルムがつぶやいた。


「遅かった」


 リーゼロッテはぽかんとして、腰を抜かしながらなお後ずさりして逃げようとするエステルを見つめていた。

 女の子の手の上では、いも虫が元気よくうねうね踊っていた。

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