第五章 天使天は伝えたい。

第24話 勉強

 土曜日。俺は自転車にまたがり、目的地を目指していた。


 高校を卒業し、ちょっとやそっとの距離なら歩くようになった俺だが、さすがに五キロ以上の距離を歩いて行こうとは思わない。


 こういう時、車があったらなと思わないでもないが、本体代はともかく駐車場代等の維持費を考えると、なかなかそこに手を出す事が出来ず、結局、どうしても高校時代と同じ移動手段を取ってしまう。


 アパートから目的地まではおよそ二十分。俺は汗をかく暇もなくその場所に到着した。


 駐輪場に自転車を停め、そこから一番近い正面出入り口から店内に入る。


 土曜日という事で店内は程よくにぎわっており、入った瞬間、老若男女ろうにゃくなんにょ様々な人の声がすぐさま耳に響いてきた。


 えーっと、てんちゃんは……。


 出入り口から数歩行った、行き来の邪魔にならない所で足を止めた俺は、辺りを見渡し待ち合わせ相手を探す。


 ――いた。


 エスカレーター脇のベンチ。そこに女の子が一人、誰かを待つように座っていた。

 白い半袖のブラウスに、ジーンズ生地のロングスカート。いつもより落ち着いた雰囲気の格好かっこうの天ちゃんがそこにいた。


「お待たせ」


 近付き、声を掛ける。


 天ちゃんの顔が上がり、その視線が俺をとらえる。


「あ、香野こうの先輩。こんにちは。今日はよろしくお願いします」


 立ち上がると、そう言って天ちゃんが俺に向かってぺこりと頭を下げた。


「これはこれはご丁寧ていねいにどうも」


 それにならうように、俺も天ちゃんに向かって頭を下げてみせる。


 そして、どちらともなく笑いあう。


「行こうか」

「はい」


 天ちゃんをうながし、二人でエスカレーターの方に足を向ける。


 これから俺達が目指すフードコートはこの建物の四階にあり、そこに行くためにはエスカレーターに三度乗らなければいけない。


 そう聞くと、一度乗るだけで済むエレベーターの方が楽そうに思えるが、正面出入り口から入った場合、そのエレベーターに到着するまでが遠く、むしろそちらの方が手間だったりする。


 四階に上がると、その足でフードコートに直行した。


 フードコートの混み具合はおよそ七割といったところ。空席もそれなりに目立ち、どうやら座席の確保は容易に出来そうだった。


 というわけで、別に先に座席は確保せず注文を優先する。


 時間が時間なので、がっつりした物はお互いに避け、小さなパフェのような物と飲み物をそれぞれ一つずつ注文した。


 座席に向かい合って座る。


 周りには俺達と同じ考えなのか、参考書や教科書と思しき本を机の上に広げ、ノートに何やら書き込んでいる少年少女の姿がいくつか見受けられた。


「みんな真面目まじめだねー」


 ソフトクリーム部分にスプーンを突き刺しながら、俺はそんな事を独り言のようにつぶやく。


「香野先輩は真面目じゃなかったんですか?」

「まぁ、不真面目ではなかったかな」


 最低限勉強はしていたし、特別外で遊んでいたわけでもない。それでも真面目に勉強をしていた人達と比べると、俺の勉強量は決して多くはなかっただろう。


「ギリギリまでバイトしてたくらいですもんね」


 そう言って天ちゃんが、からかうような笑みを俺に向かって浮かべてみせる。


「あー、まぁ、そうね。うん。それより、それ食べ終わったら勉強開始しよっか」

「はーい」


 手をげ、目の前のスイーツにスプーンを伸ばす天ちゃん。


「うーん。おいしい」


 その幸せそうな様子を見ていると、思わず当初の予定を忘れてしまいそうになる。

 というか、そもそも俺が天ちゃんの勉強を見る必要が、本当にあるのだろうか。

 天ちゃんは賢い。それは学校の成績や模試の結果が客観的に証明しているし、勉強を教えていると否が応にもその事に気付かされる。


 おそらく余程の事がない限り、今のままいけば志望校合格はまず間違いないだろう。


 まぁ、その余程の事まで心配しなければいけないのが、受験に限らず本番の恐ろしいところなのだが。


「天ちゃんは本番強い方?」

「うーん。弱くはないと思います。緊張しないわけではないですが、し過ぎて失敗する程ではありませんから」

「そっか。じゃあ、その辺は心配ないか」


 ちなみに、鈴羽すずははむしろ本番に強いタイプで、本来の力以上のものを本番では発揮する。大学受験もおそらくそれで乗り切ったのだろう。


「そういう香野先輩はどうなんですか?」

「俺? 俺はどちらかと言うと弱い方かな」

「え? 意外です」

「そう? 回答欄一マスズレてたみたいなミスした事もあるし、まぁ幸いにも最終的には挽回可能なミスばかりだから、それで大きな不利益をこうむった事はないけどね」


 それでも時間のロスと精神的なダメージは間違いなく受けるので、全くのノーダメージというわけではないが……。




「さて、始めようか」


 天ちゃんが食べ終わったタイミングを見計らい、僕はパンっと手を打ち、場の空気を切り替える。


「はーい」

「……」


 訂正、全然切り替えられてなかった。

 というか、この時期にそのテンション、大丈夫か、受験生。


 天ちゃんがいそいそとかばんから勉強用具を取り出し、テーブルの上に並べる。


 英語と数学と古文。まぁ、他は暗記科目だし、人に教わるとしたらその三教科か。


「どれからやろうか?」

「じゃあ……」


 少し迷う素振りを見せた後、天ちゃんが手に取ったのは古文の教科書だった。


「これに関しては受験どうこうというより、次のテストが心配で……」

「そっか。どこが分かりづらいとかってある?」

「全部です」

「お、おぅ」


 あまりに堂々と言い放たれたその言葉に、僕は思わず戸惑う。


 なるほど。全部と来たか。


「とりあえず、ノート見せてもらっていい?」

「はい」


 差し出されたノートを受け取り、ぱらぱらと中を見る。

 ノートには、女の子らしくまた丁寧な字が綺麗に並んでいた。まるで清書のお手本とも言うべき、このノートを見る限り、問題があるようには思えないが……。


「よく取れてるじゃん」


 言いながら、ノートを天ちゃんに返す。


「授業はちゃんと聞いてるので」


 とは言うものの、本当の意味で授業を理解出来ていない奴のノートは悲惨だ。大事な部分の強調の仕方に一応感が出たり文字の配列がおかしかったりと、見た瞬間に思わず、こいつ大丈夫かと心配してしまう。そんなノートの作者が何を隠そう、天ちゃんの兄、つかさその人だ。

 本当に、同じ血の流れた兄妹きょうだいなのだろうか。そもそも、司の妹がこんなに可愛かわいいわけがない。やはり、司は橋の下で拾われた捨て子……。


「香野先輩?」

「あぁ、ごめん」


 あまりのノート格差に、思わず少し思考の世界にトリップしてしまっていた。


「テストの範囲ってどこからどこまで?」

「えーっと、このページから……このページまでです」


 俺の質問に、天ちゃんが実際に教科書のそのページを開き、答えてくれる。


「なるほどなるほど。ここね」


 天ちゃんから教科書を受け取り、テスト範囲をざっと読み進めていく。


 古典なんて高校を卒業してから一度もお目に掛かった事がないが、見ている内に記憶がわずかずつよみがえってきた。


「じゃあ――」


 自分の中の記憶を一つずつ掘り起こしながら、俺は天ちゃんに勉強を教えていく。

 天ちゃんは想像以上に要領がよく、まるでスポンジのように俺が教える事をどんどん吸収していった。地頭がいいという事は当然あるのだろうが、本当にそれだけだろうか……。


 気が付くと、一時間以上の時間が経っていた。


 古典はこれくらいでいいだろう。


「少し休憩しようか」

「はーい。じゃあ、私、何か買ってきますね」

「あぁ……」


 言うが早いが、俺の返事を待つ前に天ちゃんが席を立つ。


 ホント、元気な子だな。


 鈴羽も元気だけど、あいつとはまた違った元気さが天ちゃんにはある。鈴羽はどちらかと言うと、素の元気を表に出している感じだけど、天ちゃんはそれに加え、相手の反応をある程度理解してあえてそう演じている節もどこか見受けられた。だからと言って、そこから悪い印象は受けず、逆にひたむきさのようなものを、俺は彼女の言動からいつも感じている。


 気遣きづかい屋さんなのだろう、彼女はきっと。


 適当に教科書を見ながら、天ちゃんを待つ。


 それにしても、遅いな。余程行列の出来た店に買いに行ったのだろうか。


 フードコートをくるりと見渡す。

 天ちゃんの姿は……いた。


 もうすでにお目当ての物はゲットしようで、手にはお盆が持たれていた。それなら、なぜこちらに来ないのか。理由は簡単だ。男二人に絡まれているから。たく、こんなところでナンパなんかするなよ。……仕方ない。


 荷物はそのままにして、天ちゃんの元に足早に向かう。


「いいじゃん? ちょっと、お話するだけだから」

「人を待たせてるので」

「人? 誰? 女の子? 女の子だったら、二対二でちょうどいいじゃん」


 典型的過ぎて、逆に尊敬する。


 男は二人共二十歳。積極的に天ちゃんに話し掛けているのは、背が高くガタイのいい一見するとスポーツマン然とした男。その後ろで面倒くさそうな顔で立っているのは、背が低く細身の一見すると女の子のようななりの男。


「はー」


 俺は溜息ためいきを吐き、そこに近付く。


「香野先輩」


 天ちゃんが俺の気配に気づき、振り返る。

 いきなり男に絡まれ不安だったのだろう、その顔には安堵あんどの表情が浮かんでいた。


「お前」


 俺の顔を見て、スポーツマン然とした男が、怪訝けげんそうな声と表情をこちらに向けてくる。


 さて、どうしたものか。この場を収める方法はいくつかある。簡単なものから難しいものまで見取みどり。その中で俺が取るべき行動は――

 スポーツマン然とした男の頭を勢いよくはたく。


「あた!」

「え……?」


 はたかれた頭を押さえるスポーツマン然とした男と、突然の事に言葉を失う天ちゃん。


 実際のところ、俺の取った行動は思い浮かべたいくつかの手段の中でも、収拾の付きやすさでは下策げさく中の下策だ。では、なぜ俺がこの手段を取ったかと言うと、単純にムカついたからだ。むしろ、それ以外の理由で、この手段を取る事はないだろう。


「てめー」


 スポーツマン然とした男が、こちらに一歩足を踏みだす。


「ぐえ」


 それを服の襟首えりくびを背後からつかんで、男の――もとい、女の子のようななりの男が止める。


「はいはい。どう考えてもこっちが悪いのにつっかからない。ごめんね、最終的には止めようとは思ってたんだけどさ」

「はぁ……」


 謝罪の言葉を受け、天ちゃんが気の抜けた返事をする。


「いや、だって、普通に知り合いだって言えば済む話だろ。それを隆之たかゆきの野郎」

「隆之?」


 見知らぬ男からいきなり飛び出した俺の名前に、天ちゃんが不思議そうに小首をかしげる。


「大学の同級生なんだ、こいつら」

「え? えー!」


 いや、まぁ、そういう反応になるよな、普通。

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