異世界に転職しまして

影宮

第1話

 髪を掻き上げる。

 窓に映る自分をチラと見れば、無表情が此方をチラと見た。

 溜め息を吐いて、パソコンを閉じる。

 残業、残業、残業…、そんな日々が続き変わり映えもしないこの会社には、別れを告げたくもなる。

 疲れを感じ、天井に向けて両手を伸ばし、伸びをしてみる。

 立ち上がり窓を開けた。

 地上の光で夜空の星が見えない。

 月は満たされ、綺麗だなどと思ってみる。

 静寂がこの一室を完成させ、開けた窓から入り込んだ風が山積みの書類を舞わせる。

 それを眺めながら窓を閉め、書類を拾い上げたところで、目眩が一つ。

 そろそろ切り上げて帰って寝よう。

 黒い鞄に必要最低限を投げ入れて、確認もして、それから欠伸を一つ。

 ドアを開けようとドアノブを捻ったが、開かない。

 首を傾げて重いドアを力任せに開け放った。

 目が眩むほどの強い光に刺され、思わず片腕で顔を光から守る。

 身を引っ張られる感覚で、足が浮いたことに驚いた。

「くっ、」

 抵抗なんて出来もせずそのまま呑み込まれた。




 足が地に着いている。

 感覚が戻ってくる。

 腕を退かせて、目の前の風景をしばし見ていた。

 見たことの無い部屋にいる。

 会社のドアの向こうは確か、廊下だった筈だ。

 しかし、目の前に広がっているのは、テレビでも見たことのないような、豪華な見た目をした部屋。

 天井も高い。

 やはり、知らない。

 この片手には、しっかりと通勤用の黒い鞄が握られている。

 夢なのかと思ってしまう。

 何処かの国に転移された、と考えてもいいのかもしれない。

 見覚えのない服装をして立っている人間が何やら言い合っている。

 はらりと落ちてきた髪を掻き上げて、少し崩れたスーツを直す。

 此処が何処なのか、確認しなければならない。

 そして、明日の通勤に間に合うように帰らなければ。

 そう考えていると、好都合なことに向こうから此方へ歩いてきた。

「君は王子様ですか?」

 そんな問いを投げ掛けられ、嗚呼、この国には国王や王子といったものが存在するものなのか、と理解する。

 そして、今、王子は不在なのか。

「いえ、違います」

 そうキッパリ答えた。

 王子か、と聞くということは似ているのだろうか?

「あぁ、やはり失敗だ。」

 そう呟くと、頭を抱えた。

 今度は此方が質問をさせて頂こう。

「此処は何処です?」

 そう問いを差し出す。

 それに何か気が付いたか、顔を上げて咳払いをした。

「此処はラザニアという。どうやら君を間違えて召喚してしまったようでね」

「なるほど。元の場所へ戻る方法はありますか?」

 本音を問いに乗せれば、眉間にしわを寄せて首を振った。

「残念だが、その方法はない」

 戻す方法もないのに、召喚を試みたのか?

 意外と冷静に働く脳ミソは、この目の前の男へ溜め息をつきたがる。

 召喚、というものが現実にあったのか、とまず驚けばいいものを。

 王子を召喚しようと考えていたのか、と理解し、それに失敗し自分が召喚されたのか、とわかった。

 そして、戻る手段はない。

 幸い、自分には自分を待つ家族といったものが無い。

 戻れないことで困るような相手がいないのだから、戻れないならば戻れなくてもいいかもしれない。

 会社のことは諦めるしかない。

「君のことは申し訳ないと思っている。取り敢えず、不自由のない生活は約束しよう」

「それは有難い」

「君の部屋を用意する。着いてきてくれ」

 失敗はわかっていたのかもしれない。

 対応が早い。

 慌てる様子がないのは、慣れているのか?

 そう考えながら、その背中を追った。

 案内された部屋は、やはり広く、天井も高い。

 これが金持ちの部屋なのかもしれない。

「此処だ。何かあったら此処の者に聞いてくれ。私は片付けがあるので失礼する」

 そう残し、走り去った。

 部屋をもう一度眺める。

 今日から此処で過ごすのか。

 無駄に広いベッド、無駄にデカい窓、無駄に広い部屋、無駄に高い天井。

 机に鞄を置く。

 そして気付いた。

 会社にスマホとパソコンがある。

 つまり、調べる手段がこの部屋の無駄にデカい本棚の無駄に多い本しかない。

 なるほど。

「寝るか」

 疲れを思い出し、ベッドへ腰掛ける。

 ネクタイを取り、上着を脱いだ。

 風呂に入りたいのだが、勝手もわからないこの場所で、そういった自由はなかなか出来ない。

 ベッドに潜り込んで、目を瞑る。

 面倒だ。

 もう、明日の自分に全て任せよう。

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