悪魔のヴァイオリン

星 霄華

 からかってみたときの、慌てたり、この悪魔! とでも思ってそうな顔を見るのが結構好きだったんだ。悪趣味だと、彼女は間違いなく言うだろうけど。

 仕方ないよ。だって彼女によると僕は悪魔なんだから。人をからかうのが好きなのは、当然じゃないか。

 だから僕はピアニストだけど、ヴァイオリンを奏でていたんだ。




 長かったような短かったような一年の終わりが見えてきた、ある日の放課後。僕は夕暮れの光が眩しい渡り廊下を、一人で歩いていた。

 夕暮れ空の廊下はがらんとしていて、誰も見当たらない。ついでに言えば、楽器の音すらない。ついさっきまでは、オケ部が廊下で練習している音が聞こえていたんだけどね。「村の居酒屋の夜での踊り」。ファウスト博士と契約した悪魔メフィストフェレスが、居酒屋でヴァイオリンを奏でるという物語を表現した曲だ。「メフィスト・ワルツ 第一番」という形でピアノ版もあるから、僕たちピアノ科の人間にとっても無縁じゃない旋律といえる。


 でも僕の頭の中はそんな耳に馴染んだ旋律よりも、つい先ほど聞いたばかりの言葉が何度も繰り返されていた。


 だって、好きな子が僕に言ってくれた言葉なんだ。『ありがとう』って。

 たったそれだけでと、大抵の人はきっと呆れるかどうかするだろう。でも、彼女が僕にくれた、願いと想いが詰まった二度目の言葉だったんだ。それが、嬉しくてならない。

 そして同時に、悲しいような、さみしいような気持ちもある。


 さみしさと喜びが混じるこの感情が、きっと切ないというものなんだろう。努力がそれなりに、そして多分人よりは簡単に報われてきたお手軽でお気軽な僕の人生の中で、初めて感じる感情だ。それを今は噛み締めていたい。


 ――――――――ん?

 あの後ろ姿は………………。


 玄関へ向かって渡り廊下を歩いていた僕は、先を歩く細い背中を見つけて目を瞬かせた。見覚えがある背中なんだけど、今朝見たときよりもなんだか小さく、頼りなく見えるのは気のせいだろうか。

 どうにも気になって、僕は足を速めてその背中に近づくことにした。


天崎あまさきさん」


 声をかけると、クラスメイトの女の子――天崎真彩まやさんはびくりと身体を震わせた。立ち止まって振り返り、僕の顔を見上げて目を瞬かせる。

 ……やっぱり気になるよね、これ。


倉本くらもと君? どうしたの? その頬……」

「これ? ああ、斎内さいうちにやられたんだ」

「ええ?」


 僕が肩をすくめて答えると、天崎さんはさっきよりもさらにぎょっとした顔になった。


 そう、僕の頬には今、どう見ても殴られたとしか思えない赤い痕がある。さっき、斎内――――僕らのクラスメイトであり明日ベルリンへ留学する斎内桃矢とうやに文句を言ったとき、一発くらったからだ。まあ僕としては頬より、壁に思いきりぶつけた身体のほうが痛いんだけどね。まだ背中とか身体の中とかが、地味に痛い。

 それでも幸せや切なさを優先するあたり、僕も大概に頭がどうかしてるよねえ。


「もしかして、美伽みかちゃんのことで……?」

「君のことも含めてだよ。色々なことがこじれた原因の一つは、彼の優柔不断と思い込みの激しさなんだからね。あ、僕も一発殴っといたから」

「倉本君が?」


 信じられない、と天崎さんは僕の顔を見た。

 うん、まあ驚くよねえ。自分が殴りあいをしそうな外見じゃないのは自覚しているし。そもそも今どき、学校で殴りあいなんてみっともなくて誰もやらない。

 でも、そんな自分に似合わない、誰もやらないことをしたくなったくらい、僕は彼には腹が立ってたんだ。

 何度も目を瞬かせた天崎さんは、顔をゆがめると両手をぎゅっと握った。


「……桃矢君は悪くないよ。私が無理を言って付き合ってもらってたんだもの」

「それでも、君と付き合ってるときに他の子のことを考えるのは君に失礼だよ。どうしても水野さんのことを考えてしまうならさっさと君との関係を終わららせるか、そもそも付き合わないようにするべきだった。結婚じゃないとはいえ、それでも相手をまず優先するのが恋人になるってことなんだから。君だってずっと、彼が自分をちゃんと見てくれなくてつらかったんじゃないのかい?」

「……っ」


 僕の遠慮ない指摘に、天崎さんは痛いところを突かれた顔で僕から目を逸らし、黙り込んだ。

 斎内が水野みずのさんのことを好きなのは、一年のときからわかっていた。軽口を叩きあえる気心知れた幼馴染みの態度を通すくせに時々、そういう目で彼女を追いかけていたから。快活で親しみやすい性格と平均よりはいくらか綺麗な見た目、ソプラノの澄んだ歌声で男子の注目を集める水野さんに余計な虫が近づいているのを見ると、すぐ睨みつけていたし。随分な強敵がいるみたいだよって、僕の幼馴染みの涼輔りょうすけに言ったものだ。


 そのくらいべた惚れだったのに、斎内は去年の秋、天崎さんと付き合いはじめた。多分、水野さん自身の素直じゃない態度とか、梅雨の事件以来僕が水野さんとそれまでよりよくしゃべるようになったこととかそういうので、望みなしだって諦めたんだと思う。その馬鹿馬鹿しい勘違いの心情そのものは当然だと思うし、僕も納得できる。

 けれど、それでも斎内は天崎さんの恋人になったんだ。なら恋人として振る舞い、何かに悩んだなら彼女を最初の相談者にするべきだった。ましてや海外留学なんて重大なことを、悩みに寄り添おうしてくれている彼女じゃなく、水野さんにまず打ち明けるなんて論外だ。一昨日に水野さんから事情を聞いたときは、どうして今まで斎内を殴るのを我慢していたんだろうって本気で後悔したよ。


「…………倉本君。なんか、すっきりしたって顔してるね」

「うん。諸悪の根源は彼の優柔不断だし、最近ずっと彼の顔を殴りたかったからね。殴り返されちゃったけど、後悔はしてないよ」

「…………」


 あ、呆れてるかどん引きしているかだ、天崎さんのこの顔。

 でも、これが僕の本心だ。最近の斎内の、今にも噛みつきそうな番犬面を力いっぱい殴れてよかった。心からそう思うよ。

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