夕やけソーダ

佐倉 青

カロン

 風を切って、坂を駆けてゆく。街の向こうに見える海のきらめき。

 古めかしい鈍色の取っ手に手をかけて飛び込む。ベルが揺れると澄んだ音が響き渡った。


「シュガーさん、カフェラテのスペシャルください」

「あら、いらっしゃい」

 シュガーさんと呼ばれた女性は優しく微笑む。シュガーさんはこの喫茶店『カロン』の店主だ。海の見える丘の上にある小さな洋館で喫茶店を営んでいる。


 どうしてこの女性をシュガーさんと呼んでいるかというと少し恥ずかしいことを思い出さなければならない。初めてカロンを訪れた半年ほど前のことだが、この年齢にありがちな変に大人ぶってかっこつけたい欲が出てしまい、おすすめと書いてあったブレンドを頼み、

「ありがとうございます、マスター」

と、お礼を言った私に対して、

「マスターだなんて、サトウでいいわよ。」

と、カウンター越しに微笑みながら珈琲に角砂糖を3つ添えたその姿があまりにも甘美で、私の脳内で即座にシュガーさんと変換されたからだ。ちなみに、初めて頼んだブレンドはとても苦くて角砂糖を3つ入れて飲んだのだった。それから学校帰りに立ち寄る日が増え、話が盛り上がり思わず「シュガーさん」と口をついて出てしまった。密かに脳内で呼んでいたのがばれてしまい恥ずかしくなって謝ると、シュガーさんは「マスターよりそっちのほうがかわいくて好きだわ」と微笑んでくれたのだった。その日から、シュガーさんと呼んでいるのである。


 控えめにレースやフリルの装飾がついたエプロンは、シュガーさんのこだわりと見ている。ある時は星がきらめく夜の闇のように深い藍色を、ある時は朝露に濡れた薔薇のような真紅を。どれも物語に出てくるような上品で美しい大人の女性を感じさせる。珈琲を淹れる綺麗な動きに思わず見とれて、私もこんな女性になれるだろうか、なんて店に来るたびに考えてしまう。

「はい、どうぞ」

「ありがとうシュガーさん」

 カフェラテのスペシャルは私のオリジナルメニューだ。そんなことを言うと聞こえはいいかもしれないが、実際はカフェラテをかなりの甘さにしたおこちゃま珈琲のことなのである。カロンに来るたびに、無理して珈琲を飲もうとする私を見かねたシュガーさんが、

「あなたのような可愛い子には、苦い珈琲はまだ早いんじゃないかしら」

と言って、出してくれたのだ。普通のカフェラテよりもミルク多め砂糖たっぷり。

「苦い珈琲はね、世の中のにがあいことを知ってからでいいのよ」

 私がこれを一口飲んだ後に、必ずシュガーさんが言うこの台詞が好きだ。いつも通り今日あったあれこれをしばらく話して、お客さんが増えてきたころに店を出る。ガラス越しに手を振り、進行方向を見て歩き始める。夕方だというのに、やわらかい空気を感じる。一週間前に比べるともうだいぶ暖かくなって、上着もいらないくらいだ。海に太陽が沈んでゆく。


 私自身のことを少し記すとすれば、この街に住む平凡な高校2年生というのが適切な説明になるだろう。毎日この坂を下って家へ帰るのだが、少しだけ人より強い好奇心がこの店を見つけるきっかけになった。


 それは高校に入学してすぐボランティアで行った介護福祉施設のお花見会。ひとりのおばあちゃんと一緒にお茶を飲みながら桜を見上げていると、「おもしろい話があるのよ」と言われたのだ。

「この街は丘の上にあって、海が見える街でしょう。その分だけ、坂もたくさんあるわ。あなたもそう思わない?」

「はい、見晴らしはいいけれど学校に行くときに坂を上るのは結構大変です」

「私もあなたと同じ学校に通っていたわ。登校がつらい分、下校は楽しいのよね」

「その気持ち、とてもよくわかります」

「懐かしいわあ、お友達と毎日いろいろなことをしたのよ」

 おばあちゃんがいたずらっ子のように目を輝かせて私を見た。

「『夕暮れ時の魔女』って知っているかしら?」

「魔女…ですか?」

「私が学生だったころ、学校中の誰もが知っているようなとても有名なお話だったのよ。海が見える街にある喫茶店で夕暮れ時の魔女が淹れる珈琲を飲むと願い事が叶うらしいって。その噂が本当か確かめたくて、毎日のように喫茶店を探し回ったのよ。学校の近くの喫茶店は生徒でいっぱいだったわ」

「おもしろい噂ですね、本当だったんですか?」

「それは秘密なのよ、3つ決まりがあってね。喫茶店には一人で入ること、見つけても人に教えないこと、この話を信じること。今でも覚えてたわ、自分でも驚いた」

そう言って笑うおばあちゃんを見ると、どんどん興味が湧いてきたのだった。そんな噂があるのなら、夕暮れ時の魔女に会ってみたい。一体どんな人なんだろう。

「海が見える街はたくさんあるけれど、もしこの街だったらと思うと素敵ですね」

おばあちゃんは私の言葉に大きくうなずいて、また桜を見上げたのだった。


 それからしばらくはこの話が頭から離れず、部活が無い日は喫茶店探しをして帰った。友達には通学路の新規開拓だと言って、バスや電車も使っていろいろな場所を一人で歩いた。いくつもの喫茶店を訪れたが、おおよそ予想通り噂のイメージと合致しないものがほとんどだった。  

 そんな日々が数か月続いた秋の日。雨だからまっすぐ家に帰ろうと思って傘をさして坂を下っていた。お気に入りの水玉模様の傘。雨はそんなに嫌いじゃない。そこまで強くない雨の音が聞こえるくらい静まった世界や、湿った空気の雨のにおいはいつもの風景を少しだけ変えてくれる。側溝に流れてゆく雨水を目で追いながらカーブに沿って坂を下ってゆく。

 カーブが終わるあと少しのところで見慣れない塊が視界に入ってきた。小さな黒猫が木の陰で雨宿りをしている。逃げられちゃうかなと思いながらもそっと近づいてみたところ、そのままこちらを見て「みゃあ」と鳴いた。首には赤いリボンが巻いてあって、りんごの形をした金色のプレートが下げられていた。しばらくすると雨は止んだ。

 黒猫はまた「みゃあ」と鳴いて、木の陰に隠れていた細い道に向かって歩いていった。こんなところに道があったのかと思いつつ見ていると、立ち止まってこっちを振り返っている。なんだか呼ばれている気がして少しついて行ってみることにした。しばらく進むと道の横にはプランターに入った花が綺麗に並べられており、小さな洋館が現れた。


 この辺りではあまり見かけない感じの建物だなあ、なんて思いながら見上げてみる。そういえばあの黒猫はどうしたのかと思い、見渡してみるが姿は見えなかった。風がびゅうと吹いて雨に濡れた花を揺らしている。

「あら、虹が出ているわ」

そんな声が聞こえてきて、驚いて声がする方を見てみると洋館の二階の出窓から女の人が遠くを見ていた。視線の先に、きれいな虹が海と街をつなぐように出ていて、思わず「きれい」と呟いてしまった。

「あなたが虹を連れてきてくれたのかしら?」

 これがシュガーさんとの、喫茶店『カロン』との出会いだった。


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