第23話 オリエンテーション

「君の電話を受けて慌てて屋上に上がったのは、なるべく同一の条件で星の出現時間を確認したかったからだ」

 暖かな湯気と芳しい香りを放つコーヒーカップに口をつけ、その香りを楽しむように大きく深呼吸すると、ぬりかべ先輩は改めてそう切り出した。

 初めて入室を許された映研の部室。私は物珍しさにキョロキョロとあたりを見回し、なんだかもう色んなものに圧倒されてただの地蔵になっていた。

 同好会だと言いながらちゃっかりと部室棟の一角に部屋を確保し、その上まるで先輩の自室のように様々な家具や撮影機材が置かれている。先輩の背後にある背丈ほどもある本棚にはぎっしりと映画や数学、天文関連の本が並び、まるでどこかの会社社長が使うような横幅の広い机にはパソコンと大型ディスプレイ。そして窓には分厚い遮光カーテン。床にはカーペット。ドアの脇にはツードアの冷蔵庫や電子レンジ、コーヒーメーカーまでがちゃっかり備えつけられ、これでベッドさえあればそのままここで生活ができそうだ。

「ぎょしゃ座ベータ星、メンカリナンはカペラと位置的にも近いし、赤緯はほとんど同じ。つまり、地上に姿を現す際もほとんど同じ場所から上がってくるから極めて都合が良い」

 いまだ成り行きがよくわからないまま。渡されたマグカップを手の中でひたすら弄ぶ私に、先輩は講義調で流れるように説く。

「君も知っている通り、全天の恒星は、北極星を中心にして一時間に十五度、東から西へと移動する。これはすなわち、地球が西から東に向かって一時間に十五度、二十四時間でちょうど一周、三百六十度回転していることを意味する。それは判るね」

「はい、それは一応」

「では、仮にある恒星の出現時間が地点Aと地点Xでちょうど一時間異なるとすれば、地球上での両者の距離は、経度にして十五度分離れているという事になる」

「…まあ、そうですね」

「より正確な計算には観測地の地形や大気による浮き上がりも含めて補正する必要がある。先ほどメンカリナンを観測したのはこのあたりの補正をより正確に行うためだ」

「あーなるほど」

 相槌は打つものの、内容は半分も理解できない。やばい。話がだんだん込み入ってきた。

「ちなみに、地球の直径が一万二千七百四十キロメートル、その3.14倍だから、円周は赤道上を一回りでおよそ四万キロメートルという計算が成り立つな」

「それは知ってます。確か地球の円周の四万分の一が一キロメートルなんですよね」

「そう。では、先程の経度十五度分は円周の二十四分の一だから、距離に直すと約千六百六十七キロメートルとなる。これが三十分差だとその半分、十分差だと六分の一、五分差だと十二分の一で、さっきの例にならって距離にすると約百三十九キロメートルになる」

「ストーップ、ストップ! 先輩! 私文系、数字苦手! もう少し判るように言って下さいよ」

 まるで呪文のようにサラサラと唱えられ、たちまちついていけなくなって慌てて制止する私に、先輩はチッと小さく舌打ちをする。

「あれだけのロケットを直感で作れる人間が、どうしてそこまで数字に弱いんだ?」

「判りませんよそんなの。なんとなく飛びそうだなーって思って形を決めてるだけで、数学的な根拠とかないですもん」

「所詮学問なんていうものは後付けの理屈だ。絶対の根拠が先にある訳じゃなく、直感を合理的に説明する方法だと思えばそう難しくもないはずだが?」

「それは出来る人の理屈だと思うけどなー」

「まあいい。ともかく、さっきの観測で計算値と観測データとのズレも補正できた。それらを踏まえて、謎の観測地点Xはざっとこのあたり…」

 先輩はカチャカチャと叩いていたキーボードから手を浮かし、モニターを見ながら満足そうに大きく頷く。そのまますっと立ち上がり、壁に貼られた日本地図に歩み寄ると、まるでジェリービーンズの様に途中が大きく西向きに曲がった細長いだ円を描いた。

「こんなもんだ」

「うわ、広っ!」

 先輩の描いた歪んだ楕円は、まるで名古屋を西から取り囲むように岐阜県の南、愛知県の西半分、さらに三重県の東部、伊勢湾沿岸を含む広大なものだった。

「先輩、いくら何でもこれは広すぎですよっ!」

 私は落胆のあまりぐったりと椅子にへたり込む。

「そんな事ない。俺はあくまで“計算上”と言った。絞り込むための手がかりは他にもある。例えば君の恋人が言ったという…」

「え?」

 と思ったら、突然聞き捨てならないセリフが飛び出してきて慌てて身を起こす。

「…ちょっと先輩! 私、恋人なんて居ません! 走はそんなんじゃ」

「え? 岸本は確かにそう言ったが?」

「…ちょっと由里子!」

 私は由里子をにらみつける。

 マグカップを包み込むようにして静かにコーンスープを啜っていた由里子は、私の視線を跳ね返すように顎を突き出し、はしばみ色の瞳で逆ににらみ返してきた。

「あのねえ、あんた達がいつまで経ってもそんな風だから、トモヒロみたいに変な期待をする連中が出てくるの。いい加減いさぎよく認めなさいよ」

「え? なんであいつがここに出てくんの?」

 言われて改めて考えてみるけど、文化祭の準備期間を含め、トモヒロとは、一対一ではあいさつ以上のセリフを交わした記憶がない。それどころか最近は名前すら呼ばれていないぞ。

「あんた気がついてないの? 恋愛感度、鈍すぎじゃない?」

「えー、そんなことないよー。例えば、ぬりかべ先輩が宮前先輩のことを好きなのとかすぐ判るし…」

「なっ! 何を言い出すんだ天野奈津希!」

 ぬりかべ先輩の顔が一瞬で真っ赤に染まる。

「い、今はそういう話じゃないだろう! 話を戻そうじゃないかっ!」

 バンバンッと日本地図を右手で叩きながら、先輩はうろたえた表情で猛然と反論してくる。

「えー、でも、最初に振ってきたのはそっちですよ」

 いつも言い負かされてばかりなので、ここぞとばかりにちょっと意地悪に返してみる。先輩は顔を左手で仰ぎながら大きく頷くと、降参というように右手を掲げた。

「あー、判った、とりあえず話を戻してもいいか?」

「ま、そういうことなら」

 面白いのでもう少しいじめてみたい気もするけど、頭の良い人を敵に回しても悲惨な未来しか予想できないのでこのあたりにしておく。

「あー、さて、君が“友人”から得た情報。五階から水平線が見えるという点がヒントになる。その高さから見える水平線は、計算上、十五キロぼど先になる」

 先輩は私を軽く睨むと、“友人ゆーじん” という所にわざとらしいアクセントをつけつつ、再び解説モードに戻った。

「へー、水平線って意外と近いんですね。もっとずっと遠くにあるもんだと思ってました」

「確かにそういう誤解をしている人は多いな。で、さっきの地図で北東方向に海なり湖なりがあって、十五キロ先までずっと水面が続いているような場所を探すと、ほら…」

 言いながら赤のマーカーペンで地図の海岸線をぐいとなぞってみせる。

「このエリア、三重県の四日市市以南、伊勢市あたりまでの伊勢湾沿いしか考えられない。ほら、これでだいぶ絞れただろう?」

「ホントだ。そっかー、このあたりに走は…うん?」

 頭の隅に何かが引っかかる。

「うーん、何だったっけかな?」

 必死に記憶を手繰り、もどかしい思いでメッセージアプリを開くと、過去のやり取りをずっとスクロールして読み返す。

「あ、やっぱり」

 そこには、飛行機の航空灯がまるで蛍みたいに夜空を行き交っているのが見える、という一文があった。送信時間は二十三時ジャスト。

「同じ窓から飛行機の明かりが見えるそうです。蛍みたいって言うから、ある程度たくさん見えていたんだと思うんですよね」

 こんな遅い時間まで離着陸があるということは、それなりの大きさの国際空港なんだろうと思う。

「…空港か」

 先輩は地図をぐっと睨むと、候補地点の対岸、伊勢湾東端の人工島に力強くぐいっと丸をつけた。

「セントレア、中部国際空港だろう、な」

「…ビンゴね」

 由里子がそうつぶやいた。


---To be continued---

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