相思相愛
森山 満穂
side he
触れる唇からはまだ、好機のぬくもりが感じられた。
うっすらと目を開けば、白い肌越しに夜の街のネオンが燦然と煌めく。ガラス戸の向こうのそれは、少し白ばんでいて、まるで俺たちだけ世界と隔たれた場所にいるみたいだった。
ポロロンと憂いをふくませたピアノの音色が部屋の中を一人歩きしては、ムードを越えてはいけない世界へと引き込んでいく。俺はまた目を閉じ、のせられるがままに己の欲情をうねらせる。
もっと深く、俺の中へと溺れさせてしまいたいと唇を踊らせ、吐息の隙間から舌を出す。だが、彼女の唇はぐっと閉じられた。固く結ばれるそれからは静かに熱が冷めていく。
今日もまた、彼女はディープキスをさせてくれない。
好機を逃した欲情は、昂る身体を持て余して唇に絡みつく。けれど、彼女はそれを拒もうとも受け入れようともせず、静かに目を瞑っていた。この曖昧な優しさに絆されて、俺はずっと独りよがりに貴女を求め続けるのだろうか。
いつもそうだった。彼女は肯定も否定もせず、ただ微笑むだけ。初めて会った時も例外ではなかった。
様々な靴音と賑やかな話し声が交錯する日曜の駅前。俺は入口を出てすぐ横にある柱に寄りかかりながら、過ぎ行く人々を観察していた。
赤や青、黄色などが混ざり合ったド派手なパーカを着た女子高生らしき二人組が通り過ぎる。今度はGジャンにミニスカートを穿いた女子大生が声高々に笑いながら去っていく。今日は不作だと心の中でぼやきながら、まだ火のついていない煙草を咥えた。俺はいつもこの場所でナンパする機会を窺っていた。
煙草に火をつけようとライターの蓋を開けた途端、つきかけた火花が風に流れる。無意識に目で追うと、柱の右面に女性が立っているのが見えた。
彼女は小花柄のワンピースにラベンダー色のカーディガンを羽織っていて、肩甲骨まで伸びた黒髪はすっと正しい方に流れている。灯台下暗しとはこのことか。だが、今の角度だと顔がはっきり見えない。
俺はばれないようにそっと寄り、写真を撮るふりをしてスマートフォン越しに彼女の顔を覗き見た。仄暗い画面には俯きがちな横顔が少し白く染まって映る。すらりと通った鼻筋に薄い唇。清楚そうで悪い印象を与えない顔立ちだった。だが、その瞳は妙に静かすぎた。
ただ一点だけを見つめ、陽の光を介さない。深い夜のような静けさがそこに宿っているような気がした。そこしれない恐ろしさがあるのに、不思議と目が離せなくなった。物憂げな瞳に誘われるように、俺は思わず口走ってしまった。
「待ち合わせですか?」
いつも使う女性に声を掛ける時の常套句だった。口にした途端、後悔が頭の中を過ぎる。こんな台詞、ナンパしてますと言っているようなものじゃないか。経験上、無視されるのは確実だった。
だが、彼女が顔を上げた瞬間、ふわりと好機の香りがした。さっきまで色を失っていた瞳は、顔が上向くにつれ、陽の光が黒目の曲線をなぞり、すうと闇を消していく。
そして、控えめに口角を上げた。ただ微笑んだだけ。それだけなのに彼女の周りの空気は煌めき、俺の心音ははやるばかりだった。この時、なぜだか俺は彼女の全てを愛することができると本気で思っていた。
それから連絡先を交換し、何回か二人で会うようになった。デートコースはいつも彼女のお決まりで、駅前の近くにある銀杏並木を並んで歩くところから始まる。
何を話すでもなく、ただ黙って俺たちは寄り添い、道沿いに歩いた。最初の内は俺からぽつりと話しかけることがあったが、彼女はただ微笑むだけで、あまり話したがらなかった。微笑んではくれるけれど、その視線は俺を通り越して、空を見つめているように感じた。
まるでその空にはどこか違う世界が映っているように、それを愛おしそうに見つめていた。そこから意識を逸らすことを許されない気がして、俺も静かに押し黙った。
出会った頃はまだ青々とした葉に囲まれていた景色も時が経つにつれ、黄金色に姿を変え始めた頃、俺たちはいつものように歩いていた。
俺が彼女を見ると、彼女もすっと頬を緩める。だが次の瞬間、彼女の視線はすれ違った人影を目の端まで追いかける。
そして、瞳の奥で夜の帳が開いた。
潤みのさした瞳に夜の波がさわわと揺れる。彼女は顔を背け、平静を取り戻すかのようにきゅっと口角を上げた。それは間違いなく愛しさを含んだ哀しみの表情だった。
その時、俺は気付いてしまった。すれ違った男の薬指には、銀色の指輪がはまっていたことに。
さっきまで彷徨い歩いていた音色はどこかに消えてしまった。静寂が熱を鎮め、現実へと引き戻される。俺は束の間動きを止め、もう一度大人しく唇を重ねた。
一瞬ひんやりとした痛みが走り、やんわりと互いに溶けていく。鼻先にかかる吐息が何かに心酔するようにゆっくりと深みを増していく。彼女は空のことを考えている、直感的にそう思った。
ふいに携帯電話のバイブ音が静寂を破った。
その瞬間、彼女はそれを予感していたかのようにするりと俺の元を離れ、携帯電話を取って、部屋の隅に行ってしまった。着信は電話だったようで、彼女はその場でぽそぽそと話し始める。
俺はベッドに腰かけ、彼女の姿を見つめた。仄暗い夜闇が幕のように下りる中、俯きがちな横顔が白く際立つ。その表情は、初めて見たあの時とは違い、柔らかく笑みを湛えている。時折小さく頷くと、瞳の奥にある夜の波がちらちらと楽しげに月明りを弄んでいた。
ふいに彼女は空を見上げた。顔が上向くにつれて、月光が彼女を独占する。頬はゆるやかに桜色に染まり、夕空を支配した闇に妖艶に浮かび上がっていく。その姿は息をするのも忘れてしまいそうなほどに美しかった。
太陽を宿した瞳よりも、遥かに。
けれど、恍惚とするほどに思い知らされるのだ。この美しさを引き出すことができるのは俺ではない、と。
電話越しに深く、草臥れた声色がかすかに聞こえる。それは夜の闇を知り尽くしたような響きを湛えていた。
ふいに男の銀色の指輪が放つ光が頭の中を過ぎる。目の前の彼女の美しさとは違う、正統に輝かしい光。でも彼女はその光の陰に居場所を見出していて、そこがひどく脆い場所だということも知っていた。
この永遠に終わらない愛だけになってしまったならば、彼女はきっと、夜の海に入水自殺するに違いなかった。ならば俺は、彼女を陽の光のもとに繋ぎ止める役になろう。それがたとえ仮初の愛でつながれていた仲だとしても、貴女が笑ってくれるのならば。
途端、彼女の輪郭がぐにゃりと崩れて、夜の闇に流動しだした。何もかもがゆるやかに捩れて、愛も悲しみも一緒くたになる。
けれど、彼女の残像だけは白く眩い光に変わって、他と交わらずに視界をすべる。煌々と瞬く光にただただ翻弄され、導かれるように意識が急激に遠のく。背中に柔らかい感触を受けて瞼を閉じる瞬間まで、俺はまだ、彼女の光に見惚れていた。
灼きついた残光に切に願った。
どうか、貴女が壊れてしまいませんように、と。
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