第19話 ごめん。あの時、君を守れなかった
それは信じられないことに、街中のイベント会場の駐車場になんの前触れもなく出現した。突然上空が暗くなったのを感じて、そこにいた警備員は最初、気象庁の天候操作機器の故障かなにかでも起きたかと思った。
だが、今日は終日『晴天』を維持する予定になっているはずで、曇りになる瞬間すら、予定には組み込まれてないはずだ。イベント会場の警備担当として、各所に配備された警備ロボットへの指示を任されていたが、天気が変わってしまうと、晴天仕様の警備ロボットには負荷が大きい。
彼はいまいましそうに天を仰ぎ見た。
そこに無数の目が浮かんでいた。
百、いや千、それ以上を超える目に一斉に睨みつけられ、警備員はからだを凍りつかせた。
そこに亜獣がいた。
亜獣の目がギロリと動く。
ひとつの目がむくと、頭と思われる部位のいたるところについた目が一斉に同じ方向へ動いた。甲虫のような形状。頭部には角のような突起、単櫛状の触覚、体中には染毛のようなとげがびっしりと生えていた。
はやく知らせなければならない・
彼の目に、すぐ近くで開催されている『培養肉フェスタ』のホログラフ看板が目に留まった。あそこには今、数千人もの人々が集まっているのだ。『ゴースト』でも『素体』でもなく『リアル』、つまり本物の人間が足を運んできている。
食べる、という行為だけは、どんなに技術が進んでも、代替不能なのだから当然だ。
亜獣がそちらにむかって、歩き出したのが見えた。
知らせなければ大変なことになる。
警備員は目をつぶって集中し、テレパスラインを起動した。
すぐに耳元がカチッという音が聞こえ、網膜デバイスに警察官の姿が映った。
「はい、こちら兵庫県警……」
警備員は警察官の姿を見るなり、突然笑いだした。
なにをやってるんだ、自分は……?。
亜獣相手に警察がなんの役にたつというのだ……。
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男は、あの警報を一度だけ聞いたことがあった。
亜獣出現の警告だ。
この警報を聞いたら、なるべく遠くへ逃げろが鉄則だった。
まわりにいる人は一斉に亜獣が出現した場所とは反対方向へ走り出していた。みな、その鉄則を知っているのだ。男もその人の波に押されるようにしながら、おなじ方向にむかってただただ走り続けた。
どれくらい走っただろうか。まだビルの合間から見え隠れしている亜獣の姿は確認できる距離だったが、人々の走るスピードが緩みはじめた。すくなめに見ても数百メートルは離れことで、とりあえずは直近の危機は避けられたという判断なのだろうか。
男もそれにあわせるように歩を緩めはじめた。これ以上、走り続けるのも難しいところでもあった。
男が歩きはじめると、まわりではそこかしこで、安堵のことばを口々にしているのが聞こえてきた。男もほっとし、ゆっくり歩きながら、息を整えることにした。
だが、そのとき、突然ボワーンという奇妙な音が聞こえた。音というより空気を震わせる不思議な振動だった。
『なんだ、今のは?』
どうやらまわりの人々にもそれは体感されたらしく、みんながざわつきはじめた。
それと同時に、人々の歩がとまりはじめ、徐々にその場にみな立ち尽くすばかりの人々の群れになっていった。だれもかれもが、なにかに見とれてぼーっとしていた。
その時、ふいに自分のすぐそばで自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ミツル……君」
そう呼ばれて、男はおもわず前をみつめた。恋人の明子が目の前に立っていた。
「明子……なのか……」
声が震えた。彼女はあの時着ていたピンク色のワンピース姿で、あの時と同じまなざしで自分のほうを見ていた。だが、そんなはずはない。
明子は何年も前に死んだのだ。あの警報とともに現われた亜獣の犠牲になったのだ。
だが、目の前にいる明子は、間違いなく明子だった。
あの時と同じサイレンの音を聞いて、自分はなにか混乱しているにちがいない。
「ミツル君……」
だが、明子はもう一度、自分の名を呼んだ。あのときと変わらない声。自分が大好きだった声だ。ミツルは明子の前に、力なくひざまずいた。
「明子、ごめん。あの時、君を守れなかった……」
目の前にいる明子は、首を横にふって言った。
「うぅん、ミツル君は頑張ってくれた。仕方がなかったんだよ……」
「仕方なかった、なんて言うなよ」
「でも悲しまないで。今、わたし、ここにいるよ」
明子がミツルのほうを愛しそうに見つめていた。
あの笑顔だった。自分が大好きだった、ちょっと目尻に皺がよって、細めた目にかかるまつげがやさしげに揺れる。「年とったら絶対しわくちゃになる」って、いつも笑いながら膨れっ面をしていたっけ。
ミツルはいつのまにか明子を抱きしめていた。
「ミツル君、ありがと……」
目から涙があふれて止まらなかった。まさかこんな日がまた巡ってこようとは……。
ぼやけたミツルの目になにかがぼんやり見えた。
それははるか遠くから飛来してくる何か、だった。鳥の群れのようでもあり、大きな粒の黒い雨のようでもあった。それが空を覆い尽くし、こちらめがけて落ちてくる。
だが、ミツルにはそんなものはどうでもよかった。今、ふたたび愛しい人をこの手に抱けるしあわせは、どんなものにも優先する。
大きな衝撃とともに鉄筋のような長い針が、彼の身体を貫き地面に突き刺さったとき、ふっと腕のなかの明子が消えていくのを感じた。ミツルはあわててあたりを見回した。
彼が絶命のまぎわに見たのは、自分とおなじようにアスファルトの地面に串刺しになっているおびただしい人々の姿だった。
みな、おだやかな表情をして息絶えているように見えた。
そう、自分とおなじように。
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