◆名前◆
「……様。シスル様。到着致しました」
「ん……あ……すみません。眠っちゃって」
睡魔に誘われるまま私は爆睡してしまって、どれくらい時間が経っているかも分からない。
私が久々の安眠を貪っている間に、目的地に着いていた。
「長旅でお疲れでしたでしょうし、お気になさらないで下さい。もう少しお休みになられますか?」
「いえ……大丈夫です。えっと、ここは?」
「ここがこれからのプロジェクトの拠点となる場所です。それと指示がでるまで、ここで生活して頂きます」
「えっ。ここで、ですか?」
「はい。わざわざ、ホテルやお住まいを探すのも手間ですので。詳しくはまた後程ご説明させて頂きます」
「はい……分かりました」
「では、お荷物をお預かり致します」
「ありがとうございます……」
人生で初めてなくらい丁寧に扱われていることに、戸惑ってしまう。慣れないことに恐縮している内に、男性はスマートな動きで荷物を運び出し私をエスコートする。
「こちらへ」
「はい……」
駐車場に停められている車は三台くらいしかないのに、結構な広さだった。エレベーターも綺麗で古さを感じない。表示されている階数は三十階まであって高層ビルだと、田舎暮らしの私でも理解できた。
本当に一体ここは、どこなんだろう?
高速で上昇するエレベータに、耳の奥が軽く悲鳴を上げる。
「あの……」
「何ですか?」
「……凄い大きなビルなんですね」
本当は気になることが沢山あるけど、これだけ聞くので精一杯だ。田舎者丸出しのような質問に、馬鹿にされるかと思って恥ずかしくなったが、男性は顔色一つ変えずに淡々と答えてきた。
「このビルは自社ビルですので、主が必要としているものしか入っておりません。生活上必要なものは揃えられるようにはなっております。後程、シスル様用の管理キーをお渡しします。カードになっておりますので、お部屋の出入りも、お買い物の清算など全てそのカードで管理させて頂きます」
「はぁ……なんか凄いですね」
早口ではないけど、一気に言われて頭が混乱しそうだ。自社ビルって、会社自身の所有のビルだよね? こんな大きなビルを建てれるって、相当大きな企業だろう。
そんな企業のプロジェクトに私なんかが参加するって、本当に務まるのだろうか?
それに――――。
「あの……さっきから私のこと『シスル』って呼んでますけど、私の名前じゃないんですが……」
車で起こされた時も、そう呼ばれた――――。
この質問にも男性は特に表情を変えることはなく、寧ろいずれ聞かれるのを承知していたかのように即答する。
「このお名前……『シスル』様とは、今回のプロジェクトのコードネームになります。プロジェクトが終わるまで、コードネームで呼ばせて頂きます。それに正直、私はシスル様のご本名を存じ上げておりません」
「名前、知らないんですか?」
「はい」
コードネームが付けられているのも驚いたが、この人が私の名前すら知らない方がもっと驚いてしまった。
ますますプロジェクトの謎が深まる――――。
そしてここでは『及川愛咲実』という肩書は、不要だということが分かった。
何か複雑な気持ちになる。
確かに今まで自分の存在は、何処にも必要とされていなかった。だだここでは、名前すら必要としなくなるんだ。
少しでも『自分』に役に立つなら、出来ることがあるならと思ったのに――――及川愛咲実という人物じゃなくても良かったんじゃないの?
名前すら排除されてしまい、私の価値はこの世から本当になくなってしまうような気がしてきた。
「今回のプロジェクトは極秘なものなので、シスル様の情報は厳重に管理されています。コードネームはシスル様のお立場を守るものです」
ショックで呆然としている私の様子を察したのか、男性はさっきまでの単調な口調よりも声のトーンが少し柔らかくなる。
少しは気遣って貰えているのだろうか――――。男性のその声に軽くダメージを受けた心が、若干持ち直す。
「守る……」
「はい。どんなことがあろうとも、シスル様の身は、我々が必ずお守りします」
簡単に言っているようだけど、男性の目からは真剣さが伝わってきた。
どんなプロジェクトもまだ分からないし、今の話だと私を守ってくれるということだよね?
地元では誰も私を『守る』ことなんてしなかった。ひたすら攻撃を受けるだけだったもの――――。
まだ信憑性は薄いけど、『守る』って言葉が、私に僅かながらの勇気をくれた。
「コードネームなんて……初めてで。ちょっと照れ臭いですね」
「そうですよね。でも直ぐに慣れると思います」
「はい……」
男性の言葉を信じてみるつもりで言ってみたら、ちゃんと受け止めて貰えた。
『そうですね』――――この、たった一言が凄く嬉しい。
及川愛咲実としての人生は、楽しい思い出は殆どない。
東京には人生をやり直すつもりでやってきたのだから、コードネームなんて心機一転には丁度いいではないか!
まるで自分が、映画やドラマの世界に入り込んだみたいな錯覚すら感じる。
「私……頑張ります」
「心強いお言葉です」
男性は小さく微笑んだように思えた。全身に漆黒の闇を纏ったような姿に、小さな星が光って見えた。
この時私はこの光に、少なからず希望を抱いていたんだと思う。
これから始まる、『滅亡』の序章とも気付かずに――――。
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